第3話
夏休み最終日。
朝から気が重く、なかなか起きられなかった。
ユウトに布団から連れ出されたのは九時を過ぎた頃である。
「パパ、起きてよ! なんで今日はそんなにやる気ないの?」
「色々あって疲れたんだよ、もう。寝させてくれよ」
「ママと何かあったの?」
くそ、勘のいい息子め。
俺はブランケットをかぶって、ユウトにごろりと背を向けた。
「とにかく、自由研究はユウトの好きにしたらいいさ。パパもユウトも最後の夏休みなんだから、のんびり過ごすことにしよう」
「で、でもっ! 思い出したんだって! 自由研究にはフィールドワークの写真が必要だって」
「フィールドワーク?」
「そう! だから川に行ってウナギを探しているとこ、写真に撮りたいなって」
そんな話、コンクールの応募要項や学校のプリントには何も書かれていなかったはずだが。
ユウトはずいぶん焦った様子である。
なんとなく胡散臭いと思いつつも、必要だというならば仕方ない。
重い腰を上げる。
「写真って、スマホでいいよな」
と確認しようとした時……ゴンと鈍い音がした。
嫌な予感。
「ごめん……」
枕元に置いていた俺のスマホの上に、ユウトの重たい保温水筒が落っこちている。予感は的中し、スマホの中身はかろうじて無事だったが、カメラレンズがバキバキに割れていた。
「どうするんだ。俺、他にカメラ持ってないぞ」
「ママに借りればいいんじゃない」
「ママはもう仕事に行ってるだろ」
スマホは職場に持っていっているはずだ。
他にカメラはうちにはないはずだし。
「でも、あるんだよ、カメラ」
ユウトはそう言って、ミサキの服が仕舞われているクローゼットに飛び込んだ。
「あっ、おい、勝手に……!」
そこは無断で立ち入ってはいけないとされている魔境。
俺がやったら二度とクローゼットから生きては出られないかもしれないというのに。
ユウトは生還した。
本当に、カメラを持って。
それもコンパクトデジカメとかじゃなくて、レンズの部分が飛びている、いわゆる一眼レフという少し良さげなカメラである。
「いつの間に、こんな良いカメラを……」
ミサキって写真趣味だったっけ。
いや、そんな話聞いたことがない。
もしかして俺が聞こうとしなかっただけか?
よく考えたら、彼女の趣味って一体なんだろう。
美味しいものを食べるのが好きということくらいしか、パッとは浮かばなくて――
「パパ」
呆然としている俺の背を、ユウトがとんと叩いた。
「昨日さ、ママと話したの?」
「……いや」
俺は首を横に振った。
目に焼きついている、ミサキのSNSに書かれた「あの人」の三文字。思い出すのも辛い。
「ユウト。パパはもうだめかもしれない」
「え?」
「ここのところママの様子が少し変なのはユウトも気づいてただろ? パパにはそっけないし、家族旅行も一緒に行かなかったし……あの日、ママは一体どこに行ってたんだろうな。こんなこと言いたくないけどさ、もしかしてママには、パパより好きな人が――」
「いるよ」
ええええ。
そこは否定するところじゃないのか、息子。
しかしユウトはいたって冷静で。
「『ミスティックオンライン』の最初の王国で出会う王妃、シルヴィレ・キリアス閣下だよ」
「……誰?」
『ミスティックオンライン』をユウトが一時期遊んでいたのは知っている。だが、ミサキがそれをプレイしているのは見たことがなかった。
というかそもそも、ミサキがゲームをしてるのなんてユウトと一緒に遊ぶときのレーシングゲームとか、パーティゲームとかしか見た覚えがない。いつもやたら強くて、ユウトに対してもあんまり手加減しないものだから、「ゲームにそんなに本気になってどうするんだ」なんて言った記憶が――あ。
口の中にじわりと苦味が広がる感覚がした。
もし、彼女が本当はゲームが好きなのに、そのことを隠していたのだとしたら。
そうなったのは、俺のせいなんじゃないか。
しかも似たようなことを最近言ったような気がする。
「……ごめん、パパ。ぼく嘘ついた。フィールドワークってのは嘘で、これを見せたかったんだ」
ユウトはそう言って、ミサキのカメラを起動する。
そしてすでに撮影済みの写真のカメラロールを遡っていく。
日付は八月十六日。
俺とユウトだけで旅行に行った日。
そこには逆三角形の建物を背景に、アニメやゲームのキャラクターの格好をしたコスプレイヤーの写真が何枚も入っていた。
「ほら、ママはここにいたんだよ」
そう言ってユウトが指差した写真は、赤いカラコンを入れ、金髪のウィッグをなびかせた女王で、自信ありげな表情は普段のミサキと似ても似つかない。
けれど、その次の写真で他のコスプレイヤーの仲間と楽しそうに笑っている写真を見て、俺は思った。
家で彼女はこんな風に笑っているだろうか。
もうずっと、彼女の笑った顔を見ていなかったんじゃないか……。
その時、外でザーッと激しい音がし始めた。
ゲリラ豪雨のようだ。
しばらくして廊下を駆けてくる音が重なり、玄関扉が開く。
「傘忘れた……って、え、なに!?」
ミサキは目を丸くして驚いた。
ちょうど俺がユウトに向かって土下座していたからである。
「すまん、ユウト……! やっぱり嘘の自由研究は無しにしてくれないか……!」
「待って。嘘ってちょっと、どういうこと?」
ミサキの顔から温度が引く。
俺が最近見ている彼女はこんな表情ばかり。
呆れのこもった冷めた眼差しがじりじりと皮膚を刺す。
そうなったのは、そうしてしまったのは、俺のせいだ。
俺は顔を上げないまま、頭の向きをミサキに向ける。
「実は、俺たちはウナギの繁殖と成長過程について嘘の自由研究をでっち上げようとしていたんだ。……だけど」
ユウトの部屋から、下書きとして用意した嘘の自由研究のシナリオが書かれた紙を持ってくる。
それを俺は、二人の目の前で思い切り破り捨てた。
「こんなの、俺に考える資格なんてなかった。自分の息子や妻の日々の過程すらちゃんと分かっていない俺が考えて良いものじゃなかったんだ」
自分の情けなさに、ぼろぼろと涙が出てくる。
その涙を拭ってくれようとしたユウトをぎゅっと強く抱きしめた。
「ユウト、最終日にこんなこと言い出してごめんな……! もし間に合わなかったらパパも一緒に謝るから……」
「大丈夫、大丈夫だよ、パパ」
やや間があって、ミサキは困惑した表情を浮かべながらも、俺たち二人の背中を優しくさすってくれた。
それから、俺たちは。
久々に三人で話し合いをした。
まず俺は七月の出張の嘘についてミサキにちゃんと謝った。
「え、そんな約束まだ気にしてたの? 十年前だよ。そりゃさすがにずっと上手く行くとは思ってないって」
ミサキは案外あっけらかんとした様子で、俺の仕事の成績が振るわないことを受け入れてくれた。
それに出張に行っていないことも、実は荷物の中にビジホのレシートがあることに気づいて知っていたようで、嘘をつかれていることの方が不満だったらしい。
おまけに俺が仕事を言い訳に、ユウトの看病に協力しなかったことで不満が爆発して、彼女自身我慢するのをやめることにしたのだそうだ。
「本当はけっこうゲーム好きなオタクなんだけど、あなたがあんまり好きじゃないから見せないようにしてたんだよね」
「それはその……すまん。俺、あんまりゲームが得意じゃないから、上手い人につい嫉妬してしまって」
久々にゲームを解禁したミサキは、ずっと気になっていたのに遊べなかった『ミスティックオンライン』を始めて、そこで推しに出会ったのだという。それから彼女はコスプレに興味を持ち出し、お盆の時期に開催されていたコミケに参加していたのだとか。ジムに通い始めたのは、推しの体型を再現したかったかららしい。
「俺たち、結婚して十年経つのに、あまりお互いのこと知らなかったんだな」
「まあ、十年経てば人って多少変わるしね」
「確かに……そりゃ、そうか。ウナギだって十年経てば淡水から深海を目指すわけで」
「ウナギ?」
きょとんとするミサキ。
俺とユウトは、思わず目を合わせて笑う。
そうだ、もう一つ彼女についていた嘘があった。
「ところでミサキ、魚類は平気かな?」
そして、翌日。
ユウトが登校した後、俺は小学校に電話をかけた。
「すみません、ユウトの父親ですが……」
「はい、どうされました?」
ユウトのクラスの担任の声だ。これから告げることを思うときゅっと胃が縮むような気がしたが、意を決して話す。
「ユウト、自由研究を提出できていないと思うんですが、どうか責めないでやってください。本人にはやる気があったんですが、俺が余計なことを言ったせいで上手く進まなくなってしまったんです。ユウトと話してちゃんと取り組みますので、期限を超えても大目に見てやっていただけないでしょうか……!」
さあ、怒るならどんと来い。
ここ最近得意先や部長に怒られてばっかりだから、何を言われようと動じない自信がある。
そしてこれが終わればいよいよ俺の、俺たち家族の夏休みは終幕を迎える。
……はずだった。
「あの、お父さん、何か誤解があるような気がするんですが……」
担任の声は、戸惑った様子である。
「誤解? あれ、もしかして提出期限が違うとかでしょうか」
「いえ。その、ユウトくんですけどね。自由研究、ちゃんと出してますよ」
「ええっ!?」
そんなの聞いていない。
しかし、担任は今日ちゃんと受け取ったという。
タイトルは、「ウナギじけん」で。
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