第12話 敗北のビターチョコレート
その夜ガレット・ファミリーが支配下に置いた倉庫街は不気味なほどの静寂に包まれていた。
数時間前に工作員が捕縛されたという凶報は、既にアジトを駆け巡り、ファミリー全体が厳戒態勢に入っている。ビスキュイの命令一下、最も腕の立つ戦闘員たちがこの最重要拠点である倉庫の守りを固めていた。彼らは皆かつてのマカロン同盟との抗争を無傷で乗り越えた猛者たちだ。しかし彼らの顔にはこれまでの戦いにはなかった未知の敵に対する緊張の色が濃く浮かんでいた。
倉庫の中には、先日の勝利で手に入れたばかりの、山のような菓子材料の密輸品が積み上げられている。その甘い香りがやけに鼻についた。
「……何も来ねえな」
見張りに立っていた一人が隣の仲間に声を潜めて言った。
「ああ。だが不気味なくらい静かすぎる。嵐の前の静けさじゃなければいいが……」
その言葉が現実のものとなるのに、時間はかからなかった。
異変は音もなく訪れた。
屋上の見張りからの定時連絡が、ふと途絶える。守備を指揮するビスキュイの右腕がその異常を察知しインカムに怒鳴り声を上げようとした、まさにその瞬間だった。
轟音と共に倉庫の分厚い鉄の扉が内側から爆発したかのように吹き飛んだのだ。
「なっ!? 敵襲! 敵襲だ!」
叫び声と同時に銃撃戦が始まる。
しかしそれは戦いですらなかった。
吹き飛んだ扉の向こうから、漆黒の戦闘服に身を包んだ十数人の男たちが一切の無駄な動きなく流れ込んでくる。ショコラトル・カルテルの精鋭部隊。彼らはマフィアというよりむしろ特殊部隊と呼ぶ方がふさわしかった。
ガレット・ファミリーの組員たちが、怒号を上げながら遮蔽物の影から応戦する。だが彼らがこれまでの抗争で培ってきたごろつき同士の喧嘩殺法は、完璧に統率の取れたカルテルの組織的戦闘術の前であまりにも無力だった。
一人が突撃しようと身を乗り出せば、三方向からの正確な十字砲火を浴びて沈黙する。
指揮官が指示を出そうとすれば、その声の主を狙撃手が寸分の狂いもなく撃ち抜いた。
戦いはわずか数分で決着した。
ガレット・ファミリーの屈強な戦闘員たちはあるいはその場に倒れ伏し、あるいは武器を捨てて降伏していた。
それは一方的な
精鋭部隊の指揮官らしき男が静かに中へと歩みを進める。
彼は降伏したビスキュイの右腕の前に立つと、その美しい顔に何の感情も浮かべずに言った。
「我らが
指揮官は部下に顎でしゃくった。
部下たちは無言で倉庫に山積みになっていた密輸品へと向かっていく。
そしてナイフで袋を切り裂き斧で樽を叩き割り、貴重な菓子材料を床の上へとぶちまけていく。
彼らは奪わない。
ただ破壊する。
それはガレット・ファミリーの経済的な息の根を止めるための、冷徹で計算され尽くした報復だった。
やがて全ての破壊を終えた指揮官はビスキュイの右腕の胸ポケットにそっと何かを滑り込ませた。
それは一枚の包装紙に包まれた最高級のチョコレートだった。
「……我らが
そう言い残すとカルテルの精鋭部隊は現れた時と同じように音もなく夜の闇の中へと消えていった。
後に残されたのは破壊され尽くした倉庫と、そして戦いに完膚なきまでに敗れた男たちの絶望だけだった。
◇
ガレット・ファミリーのアジトは、地獄と化していた。
奇襲を生き延びた者たちが、負傷した仲間を担いで次々と帰還してくる。地下のバーは臨時の野戦病院と化し、酒とシナモンスティックの匂いは、鼻をつく血と消毒薬の匂いに完全に塗り替えられていた。
テーブルの上には、うめき声を上げる男たちが汚れた布を雑に巻かれたまま横たわっている。床ではファミリーの下っ端たちが、悲鳴を上げる仲間の腕から、震える手で弾丸を摘出しようとしていた。
マカロン同盟に勝利し、祝杯をあげた、あの祝祭の雰囲気はもはやどこにもない。そこにあるのは、絶対的な強者に蹂躙された、弱者の惨めな姿だけだった。
ビスキュイは壁に拳を叩きつけていた。
ゴツン、という鈍い音が何度もバーに響き渡る。彼の鍛え上げられた拳からは血が滲んでいた。しかし彼はその痛みに気づいてすらいないようだった。
彼の心は怒りに燃えていた。
圧倒的な力で自分たちを叩き潰した、ショコラトル・カルテルへの怒り。
そして何よりも、多くの大切な部下たちを守りきれなかった、自分自身へのどうしようもない怒りだった。
その地獄絵図のような光景を、ノワールは、作戦室の入り口から、ただ黙って見つめていた。
彼女はその光景から目を逸らさない。男たちの呻き声、血の匂い、そして部屋全体を支配する、濃密な絶望の気配。その全てをまるでスポンジのように、その小さな体に吸い込んでいく。
彼女の視線がある一点で止まった。
テーブルの上に横たえられた、まだ少年と言ってもいい若い組員の姿。
確か、ルーク、という名だったか。
最近になって、彼女のことを憧れの眼差しで、「魔女様」と呼ぶようになっていた数少ない人間の一人。
その、ルークの腕はありえない方向にだらりと垂れ下がり、その幼さの残る顔は苦痛に歪んでいる。
ノワールはその姿をじっと見つめていた。
しかし、その空っぽの瞳に、罪悪感や、悲しみといった、人間的な感情が宿ることは決してなかった。
彼女のその氷のように冷たい心の中で、渦巻いているのは、全く別の感情だった。
(……計算ミス)
それは怒りだった。
自らの戦略的失敗によって、ファミリーという名の貴重な「
ルークは死んではいない。
だが、もう二度と戦うことはできないだろう。
それは、チェスの盤上から価値ある
ビスキュイの怒りは、仲間を失った痛みから来るもの。
だが、ノワールの怒りは、自らの計画が綻びを見せたその不完全さから来るものだった。
彼女は音もなく、その場を
ビスキュイがその気配に気づき振り返る。
彼は見た。
一瞬だけノワールのその横顔を。
そして、彼は戦慄した。
その少女の瞳には、この惨状に対する、悲しみの色など、ひとかけらも浮かんでいなかったからだ。
そこにあったのは、ただ獲物を前にした、飢えた獣のような、絶対的な捕食者の光だけだった。
◇
ノワールの私室にアジトの喧騒が壁を隔ててくぐもって聞こえてくる。
男たちの苦痛に満ちた呻き声。
ビスキュイの怒りに満ちた怒号。
そしてファミリー全体を覆い始めた敗北という名の冷たい絶望の空気。
その全てがノワールの冷え切った思考をさらに研ぎ澄ませていく。
彼女の戦略への疑念の目は、既に生まれ始めているだろう。このまま次の有効な一手を打てなければ、自分がこのファミリーで築き上げた脆い地位はあっけなく崩れ去る。
再びあの路地裏の飢えた獣へと戻る。
それだけは決して許容できない。
ノワールは一人部屋で地図を見つめていた。
その視線は一点。
シュガーティアの心臓部に深く根を張るショコラトル・カルテルの巨大な縄張りに注がれていた。
彼女の頭脳が高速で回転する。
城壁は砕けない。
信者は堕ちない。
ならば答えは一つだ。
信仰の対象である『神』そのものを殺せばいい。
ノワールは静かに席を立つと、小さな机に向かった。
そして一枚の羊皮紙に、インクを染み込ませたペンを走らせ始める。
それは情報屋フロマージュへの新たな指令書だった。これまでの依頼とは全く質の違うたった一つの目的のためだけの依頼。
彼女はそこにこう記した。
『カカオ・ヴァレンティノの弱点を探すな。彼の『痛み』を探せ』
『彼の人生で最も不幸だった瞬間を。最も傷ついた記憶を』
『彼の
『費用は問わない』
書き終えた指令書を彼女は静かに丸めると
そして部屋の窓を開ける。
ひやりとした夜の空気が流れ込んできた。
ノワールが指笛を短く鳴らす。
すると夜の闇の中から、一羽のカラスが音もなく飛来し、彼女の腕に止まった。
そのカラスの
ノワールは指令書をカラスの足に結びつける。
「……行け」
彼女がそう囁くと、カラスは再び音もなく闇の中へと飛び立っていった。
ノワールは、しばらくその闇の先を見つめていた。
彼女は今、最後のそして最も汚れた一線を越えようとしている。
これまでの戦いは、まだゲームだった。
しかしこれからは違う。
人の心そのものを、土足で踏み荒らし、その最も柔らかな部分を、抉り出す外道の戦いが始まる。
だが彼女の瞳に、迷いの色などひとかけらも見えなかった。
その決意は、彼女の空っぽの心を初めて黒い炎のような熱い感情で満たしていた。
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