第11話 砕けない城壁

 ショコラトル・カルテルからの「駆除宣言」という名の宣戦布告は、ガレット・ファミリーのアジトに、鉛のように重い緊張をもたらした。昨日まで、マカロン同盟への勝利に浮かれていた組員たちは、今や顔を青ざめさせ、死刑宣告を待つ罪人のように押し黙っている。裏社会の絶対王者との全面戦争。その言葉の持つ、圧倒的なまでの絶望的な響きが、地下のバーの、澱んだ空気を支配していた。


 だが、その渦中にあってただ一人、ノワールだけは、湖の底のように静まり返っていた。

 改装された作戦室の壁には、シュガーティアの巨大な地図が貼られている。その広大な領域を、まるで、生まれついての所有物であるかのように支配する、ショコラトル・カルテルの豪奢な紋章を、彼女は、ただ冷たい瞳で見つめていた。


 恐怖はない。焦りもない。

 彼女にとって、カカオ・ヴァレンティノとは、未知の変数。ショコラトル・カルテルとは、解くべき、新しい数式。ただ、それだけのことだった。


「……フロマージュからの、第一報です」


 ノワールは、重々しい雰囲気のビスキュイと、二人きりの作戦室で、一枚の、極薄の羊皮紙を広げた。全財産の三分の一を投じて、フロマージュに調査させた、カルテルの全部長クラス以上の幹部たちの、個人情報。その、最初の報告書だった。


「……どうだ」


 ビスキュイが、低い声で問う。その声には、隠しきれない、疲労の色が滲んでいた。


「何か、奴らの『弱点』は、見つかったか。どんな人間にも、埃の一つや二つは、あるはずだ」

「いいえ」


 ノワールは、静かに、そして、淡々と、首を横に振った。


「報告書は、『該当者なし』です」

「……何だと?」


 ビスキュイは、その、あまりにも、信じがたい言葉に、眉をひそめた。


「金銭問題、女関係、薬物、過去の犯罪歴。……何もありません。金の流れは、ガラスのように、透明。私生活は、聖職者のように、クリーン。フロマージュ曰く、『こんな綺麗なマフィアのリストは、生まれて初めて見た。まるで作り物のようだ』とのことです」


 異常だ。

 裏社会に生きる人間ならば、その魂のどこかには、必ず、欲望と、嘘と、裏切りが、澱のように、溜まっているはずなのだ。それがない、ということは、つまり……。


「……奴らは、やはり普通のマフィアとは違うのかもしれん」


 ビスキュイは、唸った。三十年以上、この裏社会で生きてきた、彼の経験と、本能が、けたたましく、警鐘を鳴らしていた。


「完璧な人間はいません。壁も同じです。必ずどこかに亀裂はあるはず」


 ノワールは、あくまで自らの戦略に固執した。彼女が、路地裏で生き抜くために、その身に刻み込んできた世界の法則。全ての人間は、己の欲望と猜疑心によって動くという、絶対の法則。それが、間違っているはずはなかった。ビスキュイの警告は、古い世界の、古い人間の、感傷にしか聞こえなかった。


 彼女は、リストの中から、一人の男の名を、その、細い指で、なぞった。

 カルテルの、ナンバー2。カカオの、右腕とされる男だ。


「この男と、カカオとの間に、くさびを打ち込みます。どんなに、固い絆で結ばれていても、『疑念』という名の、最も、甘美な毒の前では、無力ですから」


 その、絶対的な自信に満ちた言葉に、しかし、ビスキュイは、何も、答えなかった。

 ただ、これから、自分たちが、足を踏み入れようとしているのが、底なしの、沼のような場所であるという、嫌な予感だけが、彼の胸を、重く、支配していた。


​ その夜、ショコラトル・カルテルの幹部たちが行きつけにしている高級バーは、静かで、穏やかな雰囲気に包まれていた。それは、ガレット・ファミリーの荒々しい喧騒とは対極にある、洗練された大人の社交場だった。

 その穏やかな水面へと、ガレット・ファミリーの工作員は、小さな、しかし、猛毒を塗った石を投げ込んだ。


 彼は、この日のためにノワールから徹底的に指導を受けていた。いかにして、自然に、そして、効果的に噂を人の心に植え付けるかを。

 彼は、バーテンダーとの、何気ない会話の中で、それとなく囁いた。


「……知ってるかい? カルテルのナンバー2様が、ファミリーの金を秘密裏に横領しているって噂を。なんでも昔の女に貢いでいるとか……」


 ノワールが、練りに練った、巧妙な「嘘」だった。事実の中に、ほんの僅かだけ、毒を混ぜ込む。それが彼女のやり方だった。

 その毒は、伝染病のように、瞬く間に、店内へと広がっていくはずだった。


 しかし。

 結果は、ノワールの完璧な予測を完全に裏切った。

 噂を耳にした、カルテルの幹部の一人はその美しいグラスを静かにテーブルに置くと鼻で笑った。


「……くだらん。随分と古典的な揺さぶりだな」

「ええ。まるで一昔前の三流ドラマのようだ」


 別の幹部が、同意する。


「そもそも、あの人が、閣下プリンスを裏切るなど、この太陽が西から昇るのと同じくらいありえない話だ。我々は、閣下から、金以上に、価値のあるものを、いただいている。……『幸福』という、至上の贈り物を、な」

「その通りだ。これは我々の絆を試すための下劣な罠。そして、我らを侮辱する害虫が、この店の中に紛れ込んでいるということだ」


 彼らは、疑うことすらしなかった。

 ノワールが仕掛けた、疑念の毒は、彼らの、カカオへの、そして、仲間への絶対的な信頼という名の、分厚い信仰の城壁の前で、一滴残らず弾かれてしまったのだ。


 そしてその数分後。

 噂を流した工作員は、カルテルのあまりにも効率的な情報網によってあっけなく特定された。

 彼が、恐怖に席を立とうとした時には、既にその前後左右をにこやかな笑みを浮かべた、カルテルの男たちに、囲まれていた。


「お客様、どうやら道に迷われたようですな」


 幹部の一人が、その肩に優しくしかし万力のような力で手を置いた。


「我々がもっとあなたにふさわしい場所へとご案内しましょう」


 工作員の、引きつった悲鳴が、店内に響き渡ることはなかった。

 彼の存在は、まるで最初からそこにいなかったかのように、静かに、速やかに消されたのである。


​◇


​ 工作員捕縛される。

 計画完全なる失敗に終わる。

 そのあまりにも簡潔な敗北の報告書をノワールは自室で一人読んでいた。

 彼女は、椅子に座ったまま身じろぎもせず、壁に貼られたシュガーティアの地図をただ見つめていた。


 なぜ?

 彼女の冷徹な頭脳が初めて答えの出ない問いにぶつかっていた。


 なぜ、私の毒は、効かなかった?

 なぜ、彼らは、疑わなかった?


 全ての人間は、己の利益と、猜疑心で動くはずだ。恐怖と、欲望を、天秤にかければ必ず、どちらかに傾くはずなのだ。

 その絶対だったはずの、世界の法則が、あのショコラトル・カルテルという組織には通用しなかった。

 彼女の完璧な数式が初めてエラーを吐き出した。


 コン、コン。

 ドアがノックされ、ビスキュイが重々しい顔で部屋へと入ってきた。彼は、ノワールが、既に報告を受けていることを知っていた。だから余計なことは何も言わなかった。

 ただノワールの隣に立ち、同じように地図を見上げた。


「……俺の負けだ。お前の言う通りだったな」


 その、唐突な言葉に、ノワールは、ゆっくりと、ビスキュイに、視線を移す。


「……どういう、意味です」

「俺は、お前のその頭脳を信じていた。どんな堅固な組織にも必ずお前のその知恵が通用する、突破口があるはずだと。……だが、俺は間違っていた。そして、お前も間違っていた」


 ビスキュイは、まるで、忌々いまいましいものを吐き出すかのように言った。


「奴らは、俺たちとは違う。金や恐怖で繋がっているただのマフィアじゃねえ。理屈じゃねえんだよ」

「―――奴らは、『信者』なんだ。カカオ・ヴァレンティノという、神を崇める狂信者の集まりなんだよ」


 信者。

 その言葉が、雷のように、ノワールの、思考を、貫いた。

 そうだ。

 だからか。

 だから、私の論理ロジックは通用しなかったのか。

 論理は信仰の前では無力だ。


 ノワールは、再び地図へと視線を戻した。

 ショコラトル・カルテルが支配する、広大な、その領域が今や、彼女の目には一枚岩の、黒々とした決して砕くことのできない巨大な信仰の城壁のように見えていた。

 彼女は、生まれて初めて、戦略的な完全敗北を喫したのだ。

 そして、その空っぽの瞳の奥に、これまで、決して、宿ることのなかった、未知の感情が、黒い炎のように揺らめいた。

 それは、焦燥。

 そして、何よりも、屈辱。


(……理屈が通じないというのなら)


 彼女は、固く、拳を、握りしめた。


(……信仰で築かれた城壁だというのなら)

(その信仰の根源。ご神体そのものを汚し、壊してしまえばいいだけの話)


 ノワールは、理解した。

 この城壁を崩すには、これまでのやり方では駄目なのだ。

 もっと、直接的で。

 もっと、残酷で。

 もっと、外道な手段を選ばなければならないのだ、と。

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