幸福の終わり

第13話 魔女の切り札

 敗北の味はビターチョコレートのように新生ガレット・ファミリーのアジトに重く苦々しい後味を残していた。

​ あれから数日、地下のバーに以前のような喧騒はない。男たちは口を閉ざし酒を呷っては、ただどうしようもない無力感にその身を沈ませていた。ショコラトル・カルテルという絶対的な力の前に彼らが積み上げてきた自信は粉々に砕け散ってしまったのだ。ビスキュイの叱咤も今は虚しく響くだけだった。


​ その通夜のような静寂の中。

 ノワールの私室の窓がこんと小さな音を立てた。

 地図の前で思考に沈んでいたノワールが静かに視線を上げる。

 窓の外の闇に一羽のカラスが止まっていた。その知性を感じさせる黒い瞳がじっとノワールを見つめている。


 フロマージュからの返信だった。

 ノワールが窓を開ける。カラスは音もなく部屋に滑り込むと、そのくちばしにくわえていた小さな黒い箱を彼女の机の上にそっと置いた。そして任務を終えた兵士のように再び闇の中へと飛び去っていった。


​ ノワールはその棺桶かんおけのようにも見える黒い箱を静かに開けた。

 中に入っていたのは数枚の古びた公的な記録の写し。そして一枚だけ、まるで高級なチョコレートの包装紙のような美しい便箋。

​ フロマージュからの報告書だった。

 ノワールはまずその便箋を手に取った。そこには彼の独特の芝居がかった筆跡でこう記されていた。


​『親愛なる魔女様へ。君が欲した『聖人の亀裂』。その在処ありかが見つかったよ。それは彼がまだ王子様になるずっとずっと前の物語。シュガーティアの光の裏側に打ち捨てられた最も苦いチョコレートの味だ』


​ ノワールはその詩的な前置きを読み飛ばすと、付属していた記録の写しへとその空っぽの瞳を落としていった。

 そこに記されていたのは衝撃の事実だった。



​ カカオ・ヴァレンティノ。

 彼は生まれながらの王子などではなかった。

 その出生はノワールと同じ。シュガーティアの最も貧しいスラム街。

 そして彼にはたった一人家族がいた。

 病弱な妹。

 記録によればカカオの少年時代はその妹に全てが捧げられていた。彼は妹を幸福にするためだけに生きていたのだ。盗みを働き危険な仕事に手を染め、その全てで手に入れた僅かな金を妹の薬と、そして彼女が唯一笑顔を見せる甘いお菓子に変えていた。


 しかし彼は無力だった。

 妹の病は日に日に重くなっていく。

 そしてある冬の夜。

 彼の最愛の妹は「誰も悲しまない甘いお菓子だけの世界が見たいな」という最期の言葉を遺して彼の腕の中で冷たくなっていった。

​―――その絶望が彼の祝福ギフトを目覚めさせた。

 ―――その喪失が彼の精神を歪ませた。



​ ノワールは静かに報告書を閉じた。

 カカオ・ヴァレンティノの全てを理解した。


 彼のあの異常なまでの幸福への執着。

 彼のあの完璧な調和を求める狂気。


 その全ての根源はたった一つの守れなかった約束。救えなかった最愛の妹の最後の夢。

 彼は今もあのスラムで死んでいった妹のために、このシュガーティアを完璧なお菓子の庭園に作り替えようとしているのだ。


​ ノワールは立ち上がった。

 彼女のその胸に同情や憐憫といった感情はひとかけらもなかった。

 彼女が見つけ出したのは悲劇の物語ではない。

 それは敵の心の中枢へと繋がる完璧な破壊のための設計図。

 彼の最も神聖なその思い出こそが彼のアキレス腱。

 彼女の最後のそして最強の切り札だった。


​◇


​ ビスキュイが作戦室の扉を開けた時、部屋の中は常闇とこやみのような静寂に支配されていた。

 ランプの頼りない灯りが一つ。その光の中にノワールが影のように佇んでいた。

 彼女は壁の巨大な地図ではなくテーブルの上に広げられた一枚の古い地図をじっと見下ろしている。それは今のきらびやかな姿からは想像もつかない数十年前のシュガーティアのスラム街の地図だった。


​「……呼んだか」


​ ビスキュイが声をかける。

 ノワールはゆっくりと顔を上げた。

 その瞳を見てビスキュイは思わず息を呑んだ。

 そこにあったのはもはや空っぽの虚無ではない。

 獲物の急所を完全に見つけ出した捕食者だけが宿す絶対的な確信に満ちた危険な光が揺らめいていた。


​「ええ。……最終作戦の概要をお伝えするために」

「最終作戦だと? 奴らのあの鉄壁の守りを崩す策があるというのか」

「ありません」


​ ノワールは静かに言い切った。


​「正面からあの城壁を崩すことは不可能です。彼らの信仰を揺さぶることもできない。……ならば答えは一つです」


​ 彼女はテーブルの上に置かれた一枚の色褪せた写真へとその細い指先を向けた。

 そこに写っているのは痩せてはいるが幸せそうに微笑む一人の幼い少女。

 カカオ・ヴァレンティノの亡き妹。


​「私たちはカカオ・ヴァレンティノという男を殺すのではありません」


​ ノワールの声はどこまでも平坦で温度がなかった。


​「彼の心の中にいる『神』を殺すのです」

「……何?」


​ ビスキュイはその言葉の意味が理解できなかった。

 ノワールは淡々とその悪魔の設計図の詳細を語り始めた。


​「まずこの写真の少女によく似た孤児を一人見つけ出します。スラムへ行けば代わりはいくらでもいるでしょう」


「次にその子に当時妹が着ていたであろうぼろ布の服を着せる」


「そして舞台を用意します。場所はシュガーティアの心臓部。全ての市民が見上げることのできるあの巨大な時計塔の鐘楼がいい」


「最後に私たちがその子を人質にとりカカオを呼び出すのです。そして彼の目の前で彼が最も恐れる悪夢。……無力だったあの冬の夜に救えなかった妹の最期の瞬間をもう一度完璧に『再現』してあげるのです」


​ それは戦争と呼ぶにはあまりにも歪んだ計画だった。

 人の最も神聖で不可侵であるはずの死者への思い出を土足で踏み荒らす行為。


​「……ふざけるな」

​ ビスキュイの喉から絞り出すような声が漏れた。


​「そんな外道の所業が作戦だと……!」

「ええそうです」


​ ノワールはその怒りを何の感情も浮かべずに受け止めた。


​「私たちは彼の腕を切り落とすのではない。足を砕くのでもない。彼の心を殺すのです。彼の絶対的な善意と、幸福の拠り所である妹の美しい思い出を、彼の目の前でもう一度汚し絶望させる。……信仰を失った人間に信者の軍隊は率いれません」


​ そのあまりにも冷徹でそして完璧な論理。

 ビスキュイは言葉を失いただ目の前の小さな少女の姿に戦慄していた。

 彼女はもはや人間ではない。

 勝利のためならば悪魔にさえ魂を売り渡すのではなく悪魔そのものを喰らい尽くす何か。

 そんな得体の知れない存在へと変貌してしまっていた。


「…おい」

​ ビスキュイの喉から地を這うような低い声が漏れた。

 それは彼がノワールに対して初めて剥き出しにした純粋な怒りだった。


​「俺たちはマフィアだ。殺しもするし奪いもする。だがなどれだけ血に汚れようと守らなきゃならねえ一線ってもんがある。……死者の魂までもてあそぶのは外道の所業だ。それだけは、やっちゃならねえ……!」


​ 彼はその巨大な拳を作戦室のテーブルに叩きつけた。

 ドンという鈍い破壊音が響き渡る。

 しかしノワールはその激昂を前にしても表情一つ変えなかった。

 彼女はただ静かにそして氷のように冷たい声で問いを返した。


​「あなたの言うその『仁義』は」

「先日の襲撃で死んでいったあなたの大切な部下たちを生き返らせてくれますか?」


​「―――ッ!」

 その言葉は鋭い刃となってビスキュイの心を深々と抉った。

 彼が守れなかった男たちの顔が脳裏に浮かんで消える。

 ノワールはその痛みを見透かすように続けた。


​「感傷は敗北の別名です。私たちはもう負けられない。次はない」


​ 彼女はビスキュイのその揺れる瞳をまっすぐに見据えた。


​「選択肢は二つです」

「あなたはその高潔な仁義を守り抜いてあなたの大切なファミリーと共にここで王子様の正義の鉄槌によって誇り高く『駆除』されるのを待ちますか?」


​「それとも」

「外道に堕ちてでも私と共に泥水を啜ってでも勝利を掴みますか?」


​ それは究極の選択だった。

 ファミリーの未来と自らの魂を天秤にかけさせられる悪魔の問い。

 作戦室に重い重い沈黙が落ちる。

 ランプの炎が揺らめき壁に映る二人の影をまるで怪物のように歪ませていた。


 長い長い時間が流れた。

 やがてビスキュイはその顔を深い苦悩と絶望に歪ませながら、ついにその重い口を開いた。

 そこからこぼれ落ちたのはまるで錆びついた鉄の塊が軋むかのような声だった。


​「…………命令を、出せ」


​ 彼は勝利を選んだ。

 自らの魂をこの幼い魔女に売り渡すことで。

 ノワールはその答えをただ静かに受け止めた。

 彼女は何も言わない。

 ただその決断を肯定も否定もせず事実として受け入れるだけだった。

 ビスキュイは自分の血が滲んだ拳を見下ろした。


 この手に今こびりついた汚れはもう二度と洗い流すことはできないだろう。

 彼もそして目の前のこの少女も。

 もう二度と光の差す道へと帰ることはできないのだ。

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