第8話 甘すぎる毒

 毒はゆっくりと、しかし確実に、その身をむしばんでいく。

 ガレット・ファミリーという、脆弱ぜいじゃくな生命体を、内側から、静かに腐らせていく。


​ あれから、数週間。

 ノワールが仕掛けた「毒」は、ファミリーの隅々にまで、浸透し始めていた。


「おい、聞いたか? この前のシロップの密輸、ボスがヘマをして、半分以上を港湾警備隊に押さえられたらしいぜ」

「またかよ。最近、ボスの采配さいはい、おかしくねえか?」

「ああ。それなのに、あのお気に入りの魔女を連れて、カジノで豪遊三昧ごうゆうざんまいだ。俺たちの稼ぎを、溶かしてるだけじゃねえのか……」


 アジトのあちこちで、そんな、囁き声が交わされるようになっていた。

 ノワールが、情報屋フロマージュを使って流させた、悪意に満ちた噂の種。

 それは、サブレが立て続けに犯した、小さな「失敗」という名の水を与えられ、組員たちの心の中で、疑念という名の、黒い芽を、すくすくと育てていた。

 もちろん、その「失敗」すらも、巧妙に仕組まれたものだった。


「ボス、ビスコッティ・ファミリーとの取引の件ですが、二つのルートがあります。一つは、安全ですが、利益の薄い、従来のルート。もう一つは、危険ですが、当たれば、倍以上の儲けが出る、新しいルートです」


 ファミリーの会議で、ビスキュイが、そう報告する。

 最近の連戦連勝で、完全に増長しているサブレが、どちらを選ぶかなど、火を見るより明らかだった。


「決まってるだろう! ハイリスク・ハイリターンだ! 今の俺の『幸運』をなめるなよ!」


 そして、その取引は、当然のように失敗に終わる。

 ビスキュイが、事前に、取引相手に偽の情報を流し罠を仕掛けておいたからだ。

 サブレは、自分の「幸運」が、なぜか重要な局面でだけ、機能しないことに、首を傾げ始める。しかし、その原因がファミリーの内部にあるとは、夢にも思わない。

 そして、その失敗によって、損失を被った組員たちの元には、必ず、ビスキュイが、そっと現れた。


「……すまんな。ボスの采配ミスで、お前たちに迷惑をかけた。これは、俺からのささやかな詫びだ。ボスには、内緒にしておいてくれ」


 そう言って、ビスキュイが差し出す金貨。

 その出所が、ノワールの、秘密の金庫であることなど、誰も知らない。

 組員たちの目に、サブレは、「自分たちの金を溶かす、無能で強欲なボス」として映り始め、そして、ビスキュイは、「自分たちの痛みを理解してくれる、義理堅い兄貴」として、映り始めていた。


 サブレの王座を支えていた、信頼という名の脚は、一本、また一本と、静かに腐り落ちていった。

 彼が、その足元の、致命的なぐらつきに気づいた時、全ては、もう手遅れだった。



サブレは、苛立っていた。

 自室である、悪趣味なほど豪華なボス室で、彼は、グラスに注いだ高級な酒を苛立たしげにあおる。


 何かがおかしい。

 この数週間、全てが上手く行っていない。

 あれほど、百発百中だったはずの、自分の「幸運」が、なぜか、ファミリーの運営に関わる、重要な局面でだけ、ことごとく裏目に出る。


 そして、それに呼応するかのように、自分を見る、組員たちの目が、日に日に、冷たくなっていくのを感じていた。

 特に、あの、古株のビスキュイ。最近奴が、やけに若手たちの信頼を集めているのが、気に食わない。


(……何か、でかい手柄を立てて、奴らを黙らせる必要がある)


 そう、サブレが、焦燥感に駆られていた、まさにその時だった。

 こん、こん、と。

 控えめなノックの音と共に、部屋の扉が、静かに開かれた。

 入ってきたのは、ノワールだった。


「……ボス。今、少し、よろしいでしょうか」

「……ああ、お前か。どうした?」


 サブレは、内心の苛立ちを隠しながら、ノワールに問いかける。この「幸運の女神」だけが、今の、彼の唯一の拠り所だった。

 ノワールは、静かに、サブレの前へと進み出ると、その、空っぽの瞳で、じっと、彼を見つめた。


「……私の、この力が、時折、未来の、囁きのようなものを、見せることがあります」

「未来の、囁きだと?」


 サブレは、怪訝けげんな顔で、聞き返す。


「はい。……とてつもなく、大きな『好機』の囁きです」


 ノワールは、そこで、一度、言葉を切った。そして、まるで、口にするのもおそれ多い、とでもいうような、厳かな口調で、告げた。


「―――ショコラトル・カルテルが、私たち、ガレット・ファミリーとの、秘密の会談を望んでいます」

「……なっ!?」


 サブレは、椅子から、転げ落ちそうになるほど、驚愕した。

 あの、裏社会の絶対王者である、ショコラトル・カルテルが? この俺たちと?

 ありえない。だが、目の前の、この魔女が言うのだ。この、奇跡を何度も起こしてきた、幸運の女神が。


「彼らは、今急速に力をつけてきた私たちのファミリーに興味を持っているようです。そして、これはボスであるあなたの器を、直接見極めるための会談である、と。……それゆえ、会談の場所へは必ず、ボス、あなた、お一人で臨むように、との、囁きでした」


 一人で。

 その言葉が、サブレの、猜疑心と、そして、肥大化した自尊心を、強く、刺激した。


(……そうだ。俺の力を、試しているのだ。ビスキュイのような、古いだけの、石頭を連れて行っては、話にならん。俺が、俺一人の力で、この巨大な商談をまとめ上げれば、奴らも、二度と、俺に逆らえなくなる……!)


 相次ぐ失敗で、冷静な判断力を失っていたサブレは、あまりにも甘く、あまりにも都合のいい、その「囁き」に、完全に、食いついた。


「……わかった。その話、乗ってやろう。それで、会談の場所と日時は、いつだ?」

「三日後の深夜。場所は、第五地区の、古いお菓子倉庫です」

「よし……!」


 サブレは、拳を、固く握りしめた。

 彼は、気づいていなかった。

 目の前の少女の、その、空っぽの瞳の奥で、嘲笑うかのような、冷たい光が、一瞬だけ、灯っては、消えたことに。

 破滅への扉は、今、彼自身の、その手によって、開かれたのだ。



三日後の、深夜。

 寂れたお菓子倉庫には、カビと、そして、忘れられた砂糖の、甘く、腐敗した匂いが立ち込めていた。

 サブレは、高鳴る心臓を抑えながら、一人、その倉庫の中央で約束の相手を待っていた。

 彼は、一世一代の大勝負のために、新調した、一番高価なスーツを着ている。ショコラトル・カルテルの使者に、決して、侮られてはならない。


(……この会談が成功すれば、俺は、この街の、真の支配者の一人となれる……!)


 そんな、妄想に、彼が、酔いしれていた、その時だった。

​ ―――ガシャンッ!

​ 背後で、倉庫の、重い鉄の扉が、閉ざされる音が響いた。

 サブレは、驚いて、振り返る。


「……誰だ!?」


 次の瞬間、倉庫の天井に吊るされた、いくつもの裸電球が、一斉に灯った。

 眩い光に、サブレが、思わず目を細める。

 そして、目が、その光に慣れた時、彼は、自分の周りに広がる光景に絶句した。

 そこにいたのは、ショコラトル・カルテルの使者ではなかった。

 ビスキュイをはじめとする、ガレット・ファミリーの、主要な幹部たち、全員。

 彼らは、冷たく、そして、敵意に満ちた目で、サブレを、ぐるりと、取り囲んでいた。


「……てめえら、どういうつもりだ……?」


 サブレは、震える声で、問いかける。

 その、問いに答えたのは、彼の正面に立つ、ビスキュイだった。


「どういうつもり、ですと? それはこちらの台詞セリフですよ、ボス」


 ビスキュイは、懐から、一枚の羊皮紙を取り出すと、それを、サブレの足元へと、投げ捨てた。


「我々を、ショコラトル・カルテルに売り渡すとは。一体、どういうおつもりですかな?」

「……は?」


 サブレは、全く、意味がわからなかった。


「何を言っている! 俺は、カルテルと、同盟を結ぶために、ここへ……!」

「その嘘がいつまでも通用するとお思いか!」


 ビスキュイが、激昂した声を上げる。


「その羊皮紙は、あなたが、我々の縄張りの一部をカルテルに売り渡す見返りに金を受け取るという密約書だ! 我々は、その裏切りの証拠を、掴んだのだ!」


 罠だ。

 サブレは、その瞬間全てを理解した。

 これは罠だ。自分を陥れるための、完璧に、仕組まれた罠だ。

 そして、その罠を仕掛けたのが、誰であるのかも。


「……あの、魔女だ……!」


 サブレの口から、憎悪に満ちた、絶叫がほとばしる。


「そうだ!あの魔女が!俺をめたんだ! 全部あいつが仕組んだことなんだよ!!」


 彼は、周囲の幹部たちに、必死に訴えかけた。

 だが、その、あまりにも無様な責任転嫁の叫びは、冷え切った男たちの心に、もはや届くことはなかった。



​「全部あいつが!あいつが仕組んだことなんだよ!!」

 サブレの、絶望的なまでの絶叫が、がらんとした倉庫に虚しく響き渡る。

 彼は、わらにもすがる思いで、自分を取り囲むかつての部下たちの顔を見渡した。

 しかし、その、どの瞳にも、同情の色は浮かんでいない。

 浮かんでいるのは、ただ裏切り者を見る、冷え切った軽蔑けいべつの色だけだった。

 その、視線の意味を理解し、サブレが、がくりと膝を折ろうとした、その時だった。


​「―――私のことを、お呼びでしょうか。ボス」


​ 鈴が鳴るような、しかしどこまでも温度のない声。

 幹部たちの輪の後ろ、深い影の中から、まるで、その闇そのものが、人の形をとったかのように、ノワールが、静かに姿を現した。

 男たちが息を呑み、彼女のために道を開ける。

 ノワールは、その道を、ゆっくりと、歩み出た。

 一歩、また一歩と、サブレへと近づいていく。その、小さな足音だけが、やけに大きく、倉庫に響いた。


「魔女……!」


 サブレは、憎悪と恐怖に顔を歪ませながら、震える指で、ノワールを指差した。


「てめえが!てめえが俺を!この俺を嵌めたんだな!」


 その狂乱した叫びを、ノワールはどこか、哀れむような、いだ瞳で受け止めた。


 彼女は、サブレの数歩手前で、ぴたり、と足を止めると、小さく、首を傾げた。


​「何を仰っているのですか、ボス?」


​ その、あまりにも、純粋な響きを持つ声に、サブレは、一瞬言葉を失う。

 ノワールは続けた。


​「私はただ、あなたの幸運を祈っていただけです」


​ その、残酷なまでに美しく、慈愛に満ちた声音こわねで。


 そして彼女は、その口元に、初めて、誰の目にもわかる、明確な笑みを浮かべた。

 それは、全ての光を吸い込んでしまう、夜空に浮かぶ、三日月のような、冷たい、冷たい、笑みだった。


​「……もっとも、今のあなたにはもう祈るべき『幸運』など、ひとかけらも残っていないようですが」


 それが、サブレに対する最期の台詞セリフだった。


 サブレは、がくがくと腰を抜かし、その場にへたり込んだ。

 もう彼を、ボスと見る者は誰もいない。

 ビスキュイが、一歩前に進み出ると、冷徹な声で、宣言した。


「サブレ。ファミリーの名において、お前を、ボスから解任する。……連れて行け」


 ビスキュイのその言葉を受け、屈強な組員たちが、サブレの両腕を掴み引きずっていく。


「嫌だ!離せ!俺はボスだ!このファミリーは俺のものだぞ!助けてくれ!…嫌だ!助けてくれよ!!…幸運は俺についてるんだ…俺について…!!!」


 サブレの、無様な命乞いの叫びは、鉄の扉の向こう側へと、虚しく消えていった。

 倉庫に再び静寂が戻る。

 ビスキュイは、残った組員たちの方へと向き直ると、力強く言った。


「……今日から、この俺がガレット・ファミリーの新しいボスだ。異論はあるか?」


 誰も何も言わない。

 ただ、沈黙だけが、その決定への、同意を示していた。


 そして、その直後。

 その場にいた、全ての人間が、息を呑む、光景が、繰り広げられた。

 新しいボスとなった、あの、誇り高き、武闘派のビスキュイが。

 ゆっくりと、ノワールの方へと、向き直る。

 そして、ファミリー全員が見守る前で、その、岩のような巨体を、深々と、折り曲げた。

 それは、部下が、ボスに向けるよりも、遥かに、丁重で、そして、絶対的な、服従を示す、最敬礼だった。


​ その、あまりにも、異様な光景を前に。

 その場にいた、全ての人間が、完全に、理解した。

 この、ガレット・ファミリーの、真の支配者が、一体、誰であるのかを。

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