第6話 破滅のセレモニー
カジノ「ラッキークローバー」のメインフロアは、シュガーティアの夜を丸ごと溶かし込んで固めたかのような、眩い光と熱気に満ちていた。
天井からは、巨大な宝石を繋ぎ合わせたかのようなシャンデリアが、下品なほどの輝きを放っている。磨き上げられた大理石の床は、着飾った紳士淑女たちの姿を鏡のように映し出し、フロアの隅では、ジャズバンドが気怠くも甘い音楽を奏でていた。
グラスを交わす音、丁寧な言葉の裏に隠された探り合いの会話、そして、これから始まるであろう
集まったのは、この街の富と権力を象徴する、表と裏の有力者たち。誰もが、この新しい金のなる木が、一体どれほどの甘い蜜を実らせるのか、品定めするように見つめている。
その、全ての視線が集まる中心にピスタチオはいた。
彼は、スポットライトを浴びながら、ステージに設置されたマイクの前へと、自信に満ちた足取りで進み出る。そのピスタチオグリーンのスーツは、計算され尽くした照明を浴びて、いやらしいほどに輝いていた。
彼は、満足げに会場を見渡した。
この光景。この熱気。この注目。
全て、この俺が、たった一人で作り上げたものだ。
彼の胸は、人生で最高潮のプライドと高揚感で満たされていた。廊下で感じた、あの奇妙な悪寒など、もう、記憶の片隅にさえ残ってはいない。
ピスタチオは、優雅に口元へ笑みを浮かべると、マイクに口を寄せた。
「皆様、本日は、我が『ラッキークローバー』のグランドオープンに、ようこそおいでくださいました。わたくしが、支配人のピスタチ―――」
キイイイイイイイイイイイイインッ!!
突如、彼の声は、鼓膜を突き破るかのような、甲高い金属音によってかき消された。
それは、最新鋭のはずの音響設備から発せられた、耳障りなハウリングだった。会場中の客たちが、一斉に顔をしかめ、耳を塞ぐ。
数秒後、金切り声は、ぷつり、と途絶えた。
そして、後に残されたのは、気まずい、完全な沈黙。
マイクは、死んでいた。
「……」
ピスタチオは、笑顔を顔に貼り付けたまま、硬直した。
なんだ? 何が起きた? あれほど、入念にチェックさせたはずの機材が、なぜ、このタイミングで?
客席から、くすくすと、押し殺したような笑い声が聞こえる。
ピスタチオの額に、じわり、と一筋の汗が浮かんだ。
「おっと、どうやら機械も、私の美声に嫉妬したようですな!」
彼は、なんとか道化を演じて、その場を取り繕おうとした。だが、その声は、マイクを通さずに、虚しく、広い空間に吸い込まれて消えていくだけだった。
あの、悪寒。
忘れていたはずの、廊下で感じた、あの理由のない不安感が、再び、彼の心臓を冷たい手で鷲掴みにした。
その、全ての光景を。
フロアの隅、給仕たちが使うサービストレイ置き場の、その影。
そこに、ぼろ布をまとった一人の少女が、壁に寄りかかり、静かに佇んでいることに、気づいた者は誰もいなかった。
ノワールは、ただ、無感情に、ステージの上で冷や汗を流す男を見つめていた。
(……始まった)
彼女の心には、何の感慨もなかった。
ただ、自分が仕掛けた見えざる毒が、確実に、獲物の体を
スピーチの失敗による気まずい空気。それをピスタチオは、自らの
彼は、強引な笑みを浮かべると、会場の中央に鎮座する、メインのルーレット台へと大股で歩いていく。
「ははは、どうやら機械というものは、肝心な時にご機嫌斜めになるようですな! ですがご安心を! この私自身の腕は、決して、皆様を裏切りません!」
彼は、集まった客たちにそう宣言すると、ディーラーから、象牙でできた小さなボールを受け取った。
ここが、正念場だ。
このデモンストレーションさえ成功させれば、先ほどの失態など、観客の記憶から消し去ることができる。
ピスタチオは、ゆっくりと息を吸い、精神を集中させた。彼の
彼は、優雅な手つきで、ルーレットのホイールを回転させた。滑らかに回るホイールが、
そして、完璧なタイミングで、ボールを投げ入れた。
ボールは、まるで、彼の意志を持っているかのように、ホイールの縁を美しく滑走する。観客から、おお、と感嘆の声が漏れた。
ピスタチオの口元に、勝利の笑みが浮かぶ。
(そうだ、これだ! これこそが、俺の力!)
彼は、自分が狙いを定めた数字――ラッキーセブンの「7」のポケットに、ボールが吸い込まれていくのを、確信した。
だが。
その、ボールが、ポケットに落ちる、ほんのコンマ一秒前。
ありえないことが、起きた。
ボールがまるで、見えない何かに弾かれたかのように、ぴょん、と、垂直に跳ねたのだ。
「―――は?」
ピスタチオの喉から、間の抜けた声が漏れた。
彼のギフトが、彼の完璧なコントロールが、正体不明の「何か」によって、いとも容易く捻じ曲げられた。
高く舞い上がった象牙のボールは、放物線を描きながら、ルーレット台のすぐ脇に、タワーのように積み上げられていた、シャンパングラスの山へと、吸い込まれていった。
―――ぱりん。
最初に、頂上の一つのグラスが、可憐な音を立てて砕けた。
その、小さな破壊を合図として、連鎖が始まった。
一つの亀裂が、次の亀裂を呼び、支えを失ったグラスが、その下のグラスを砕いていく。
そして、次の瞬間。
黄金色のシャンパンが、滝のように、四方八方へと降り注ぐ。ガラスの破片が、悲鳴を上げて飛び散る。
最も近くにいたVIP客たちが、頭から、高級なシャンパンを浴びて、ずぶ濡れになった。
「きゃあああああっ!」
「な、何事だ!?」
会場は、一瞬にして、パニックに陥った。
スタッフたちが、慌てて惨状へと駆け寄る。しかし、彼らの焦りが、さらなる災厄を呼び込んだ。
シャンパンの海で足を滑らせた一人のウェイターが、近くの壁に設置されていた、照明のコントロールパネルに、思いきり体を叩きつけた。
ばちんっ、と。
嫌なスパークの音が響いたかと思うと、会場の自慢であった、あの巨大なシャンデリアが、不気味に、数回、点滅した。
そして、ぷつり、と音を立てて、その全ての光を、失った。
停電。
悲鳴が、暗闇の中で
非常用の電源さえ、なぜか、作動する気配はない。
そして、まるで、悪夢のコーラスのように、天井から、けたたましいベルの音が鳴り響き始めた。ショートしたシャンデリアの火花が、過敏な火災報知器を作動させたのだ。
ジリリリリリリリリリリリリ!
悪意を持って仕組まれたとしか思えない、完璧なまでの、破滅の連鎖。
その地獄絵図の中心で、ピスタチオは、ただ、立ち尽くしていた。
何が起きているのか、まるで理解できなかった。
暗闇と、鳴り響く警報、そして、パニックに陥った人々の悲鳴。
ピスタチオは、自分が作り上げたはずの完璧な舞台が、地獄絵図へと変貌していく様を、ただ、呆然と見つめていた。
ありえない。
こんなことは、ありえない。
この俺の、完璧な計画が。この俺の、絶対的な
そうだ。これは、事故などではない。
陰謀だ。
俺の成功を妬んだ、誰かの、卑劣な罠に違いない。
「……てめえらか!!」
彼の思考は、最も単純で、最も愚かな結論へと、一足飛びに辿り着いた。
ピスタチオは、鬼の
「き、貴様ら、裏切ったな! 俺を陥れるために、こんな真似を! そうなんだろう!」
「ぴ、ピスタチオ様! 何を言って……!」
「黙れ! この無能どもが! お前たちの、日頃の怠慢が、この事態を招いたんだ! 俺のキャリアに泥を塗りやがって! 許さん、絶対に許さんぞ!」
完全に理性を失ったピスタチオは、部下の
その、あまりにも醜悪な姿は、まだ会場に残っていた客たちの、最後の一片の同情さえも、消し去るには十分だった。
「……みっともないな」
「ビスコッティ・ファミリーも、人材不足か」
「こんなカジノに、未来はない。投資は、即刻引き上げるべきだ」
冷たい
その時だった。
すっ、と、ピスタチオの隣に、一つの影が立った。
ファミリーの幹部の中でも、特に恐れられている老人だった。彼は、この混乱の中にあって、ただ一人、少しも動じることなく、氷のように冷たい目で、ピスタチオを見下ろしていた。
「……様……」
ピスタチオは、上司の姿を認めると、慌てて部下を突き放し、弁解を試みる。
「こ、これは、その、何者かの妨害でして! すぐに、私が、全てを元通りに……!」
老人は、その言葉を、手のひらをかざして、静かに遮った。
そして、一言だけ、凍てつくような声で、告げた。
「―――後の始末は、しておくように」
その言葉には、何の感情も込められていなかった。
だからこそ、それは、どんな罵声よりも、どんな暴力よりも、重い、死刑宣告だった。
老人は、ピスタチオに、もう
ピスタチオは、その場に、へなへなと、膝から崩れ落ちた。
終わった。
自分のキャリアも、未来も、プライドも、何もかもが、今、この瞬間に、終わったのだ。
◇
けたたましく鳴り響く警報と、点滅する非常灯の、赤い光に照らされながら。
ノワールは、フロアの隅で、ただ、じっと見ていた。
その瞳には、喜びも、同情も、憎しみさえも、浮かんでいない。
まるで、遠い国の、自分とは全く関係のない、出来事を眺めているかのように。
(仮説 『幸運』を完全に奪われた人間は、自らのプライドと環境によって、連鎖的に自滅する。―――結果:実証、完了)
彼女は、ただ、自分の立てた仮説が、完璧に証明されたという事実だけを、頭の中で、冷静に、記録していた。
◇
その夜、ガレット・ファミリーのアジトは、奇妙な静寂に包まれていた。
シュガーティアの裏社会は、たった一つのニュースで持ちきりだった。ビスコッティ・ファミリーが社運を賭けた新カジノ「ラッキークローバー」が、原因不明の大惨事に見舞われ、オープニングセレモニーは歴史的な大失敗に終わった。責任者であったピスタチオは、全ての責任を問われ、失脚した―――。
その「原因」が今、アジトの扉を開けて、静かに中へと入ってきた。
ノワールが帰還したのだ。
瞬間、地下のバーに満ちていた、ざわめきが、ぴたりと止まる。
昨日まで、彼女を「薄汚いガキ」と嘲笑っていた男たちの視線が、一斉に、その小さな体に突き刺さった。
しかし、その視線に、もはや
代わりに宿っているのは、理解を超えた現象を目の当たりにした人間だけが浮かべる、原始的な感情。
男たちは、まるで、自分たちの縄張りに、一匹の、物言わぬ
その沈黙を破ったのは、上機嫌なサブレの声だった。
「おお、帰ったか! 見事な仕事だったじゃねえか、嬢ちゃん!」
サブレは、カウンターの席から立ち上がると、テーブルの上に、ずしり、と重い音を立てて、革袋を叩きつけた。中に入っている金貨が、じゃらり、と心地よい音を立てる。
「約束の報酬だ。お前の、初仕事のな」
彼は、満足そうに笑うと、バーにいる全ての組員に聞こえるように、高らかに宣言した。
「てめえら、よく聞け! こいつは、もう、ただの拾いもんのガキじゃねえ。俺たちガレット・ファミリーに、勝利と、そして敵には破滅をもたらす、幸運の女神だ! いや……」
サブレは、そこで一度言葉を切ると、ノワールの瞳を覗き込み、にやりと笑った。
「……これからは、こう呼ばせてもらうぜ。お前は、俺たちの『災厄の
災厄の魔女。
その、不吉で、しかし、どこか
サブレは、懐から、一本の古びた鍵を取り出すと、それをノワールへと投げ渡した。
「そいつは、お前の部屋の鍵だ。物置じゃねえ、ちゃんとした個室だぜ。今日から、お前は、このファミリーの正式な一員だ」
それは、彼女が、裏社会の一員として、正式に認められた証だった。
その夜。
ノワールは、新しく与えられた部屋で、一人、ベッドの上に座っていた。
物置に比べれば、天国のような場所だった。
生まれて初めて手に入れた、誰にも邪魔されない、自分だけの空間。
彼女は、膝の上に、報酬の革袋を広げた。中から、鈍い輝きを放つ金貨が、ころころとシーツの上にこぼれ落ちる。
だが、その光景を見ても、ノワールの心は、少しも、動かなかった。
嬉しい、という感情はない。
満たされた、という感覚もない。
しかし、その空っぽの心の中で、何か別の感情が、確かな熱を持って、静かに生まれつつあるのを、彼女は自覚していた。
それは、ただ生きるための渇望ではなかった。
自分のこの力が、ただパンを恵んでもらうための、哀れな芸当などではないのだという、確信。
あの、自信に満ち溢れた男を、いとも容易く、絶望の淵に叩き落とした、絶大な「力」。
他者の運命すらも、自分の意のままに捻じ曲げることができる、この力。
これさえあれば。
ノワールは、シーツの上の金貨を、一枚、指先で弾いた。
(……足りない)
こんなものでは、全く、足りない。
この力が、本当に、自分のものなのだとしたら。
自分は、もっと、大きなものを、手に入れられるはずだ。
この街の、全てを。
自分から、全てを奪い、路地裏に打ち捨てた、この甘ったるい世界そのものを。
ノワールは、窓の外に広がる、シュガーティアの夜景へと、その視線を向けた。
その、空っぽだったはずの瞳の奥に、今初めて、野望という名の、冷たく、そして燃えるような光が確かに宿っていた。
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