災厄の魔女
第5話 幸運のダイス
ガレット・ファミリーのアジトでの日々は、ノワールが想像していた通り、決して心地よいものではなかった。
確かに、飢えは満たされた。サブレとの契約通り、三度の食事――と言っても、硬いパンと薄いスープだけだが――は、保証された。雨風をしのげる寝床として、物置を改造しただけの、
だが、それだけだった。
ファミリーの組員たちは、ノワールを人間として扱わなかった。
地下のバーの隅で、彼女が黙ってスープを
「おい、見たかよ。ボスが拾ってきた、あの薄汚ねえガキ」
「ああ。一日中、隅っこで黙ってるだけじゃねえか。何の役に立つんだ?」
「気味が悪いぜ。あの目……まるで、死人みてえだ」
聞こえよがしに囁かれる悪意。時には、わざと足を引っかけられたり、食べ物に砂を混ぜられたりもした。
だが、ノワールは、一切の反応を示さなかった。
怒りも、悲しみも、彼女の心にはもうない。ただ、冷たい観察眼で、誰が自分に敵意を持ち、誰が中立で、そして、誰がこのファミリーの実力者なのかを、静かに分析し続けているだけだった。
そんな日々が、数日続いた、ある夜のことだった。
サブレが珍しく、ファミリーの主だった組員を全員、地下のバーに集めた。
ざわつく男たちの中、サブレは、カウンターの椅子にどっかりと腰を下ろすと、ノワールを手招きした。
「お前も、こっちへ来い」
ノワールは、無言で立ち上がり、サブレの隣に立つ。男たちの、いぶかしげな視線が、一斉に彼女へと集中した。
サブレは、その視線を満足そうに眺めると、芝居がかった口調で言った。
「てめえら、紹介するぜ。こいつが、俺たちガレット・ファミリーの、新しい『秘密兵器』だ」
秘密兵器。その言葉に、組員たちから、どっと失笑が漏れた。
「ボス、冗談きついぜ。そんな風が吹いたら飛んでっちまいそうなガキが、兵器だなんてよ」
「ああ。一体、何ができるってんだ?」
嘲笑の中、サブレは、笑みを崩さなかった。彼は、テーブルに一枚のチラシを叩きつける。
「こいつを見ろ」
それは、派手なデザインのカジノのオープン告知だった。
「俺たちの縄張りの目と鼻の先で、あの羽振りのいい『ビスコッティ・ファミリー』が、新しいカジノを開く。『ラッキークローバー』だそうだ。これが開店すりゃ、俺たちのシマの客は、根こそぎ向こうに吸い取られる。……つまり、俺たちは、干上がるってことだ」
サブレの言葉に、男たちの顔から笑みが消える。事の重大さを、ようやく理解したのだ。
サブレは、組員たちの顔を見渡すと、続けた。
「だから潰す。開店セレモニーを、めちゃくちゃにしてやるんだ。今回の作戦のターゲットは、そのセレモニーの責任者、ビスコッティ・ファミリーの若手幹部”ピスタチオ”だ」
そして、サブレは、隣に立つノワールの肩を、ぽん、と叩いた。
「そこで、こいつの出番だ」
「このガキの仕事は、ピスタチオに接触し、奴の『幸運』を、根こそぎ吸い取ってくることだ」
「…………は?」
一瞬の沈黙の後、今度は、先ほどよりも大きな爆笑が、バー全体を揺るがした。
「幸運を吸い取る、だと!? ボス、ついに頭がイカれちまったか!」
「俺たちはマフィアだぜ? 占い師じゃねえんだ!」
誰もが、サブレの言葉を、馬鹿げた
ただ一人、大柄な体で、バーの奥に腕を組んで立っていた男――古参幹部のビスキュイだけが、笑わずに、じっと、ノワールの瞳を、探るように見つめていた。
ノワールは、その嘲笑の嵐の中で、ただ、黙って立っていた。
これは、テストだ。
この任務を成功させなければ、自分の居場所は、ここにもない。
彼女はただ、その事実だけを氷のように冷たい頭で理解していた。
◇
翌日ノワールは、まるでシュガーティアの街に溶け込む影そのものだった。
開店準備の
その無関心こそが、ノワールにとって最強の隠れ
カジノの中は、金と欲望の匂いで満ち満ちていた。
まだビニールが被せられたままの真紅の
ノワールは、そんなこれから始まる虚飾の舞台を、汚れたバケツとモップを手に、無感情に見ていた。
そして、その舞台の中心で、甲高い声を張り上げている男を、物陰からじっと観察していた。
あれが、ターゲット。
ビスコッティ・ファミリーの若手幹部”ピスタチオ”。
その名の通り、ピスタチオグリーンの、悪趣味なほど派手なスーツを着こなしている。髪は、一分の隙もなく塗り固められ、指には、これみよがしに巨大な宝石の指輪が光っていた。
「おい、そこの! 照明の角度がコンマ一度ずれている! 俺の完璧な美学を汚すな!」
「ディーラー! なんだその、素人以下のカード捌きは! 見ていろ、手本を見せてやる!」
ピスタチオは、部下の一人からカードをひったくると、常人には目で追うことすら不可能な、流麗なシャッフルを披露した。カードが、まるで生き物のように、彼の手の中で舞っている。
あれが、奴の
手先の動きを、機械のように、寸分の狂いもなくコントロールできるという、イカサマのために生まれてきたかのような能力。
ノワールは、事前にサブレから得ていた情報を、目の前の光景と照合しながら冷静に分析していく。
(……性格は、傲慢で、完璧主義。自分の能力に絶対の自信を持っている。だからこそ、自分のコントロールできない『不運』という要素には、極端に脆い、か)
ノワールは、すぐには動かなかった。
掃除をするふりをしながら、カジノの中を何度も周回し、ピスタチオの行動パターンを、その目に、脳に、焼き付けていく。
彼は、いつ、一人になるのか。
彼の、警備が手薄になる場所は、どこか。
そして、何より――いつ、彼の幸運を奪うのが、最も効果的に、最も華々しく、彼を破滅させられるのか。
数時間が経過し、カジノの準備がいよいよ大詰めを迎えた頃。
ノワールはついに、その完璧な「時」と「場所」を見つけ出した。
オープニングセレモニーの開始十分前。
彼はきっと、VIP客を迎える前に、控室で一人、鏡の中の自分に陶酔するだろう。
その彼のプライドが最高潮に達する、まさにその瞬間こそが、最高の狩りの時間。
ノワールは、モップをその場に置くと、まるで、最初からそこにいなかったかのように、静かに、壁の影の中へとその姿を消した。
計画の最終段階へと移行するために。
◇
控室へと続く、バックヤードの廊下は、表舞台の
時折、慌ただしくスタッフが行き交うが、壁際に立つ、汚れた掃除人の少女に、注意を払う者は誰もいない。ノワールは、その完璧なまでの透明人間となりきりながら、ただ、その「時」が来るのを待っていた。
やがて、廊下の向こうから、あの甲高い声が聞こえてくる。
「いいか、俺がスピーチを始めたら寸分の狂いもなく照明を当てろ! 俺のこのピスタチオグリーンのスーツが、最も輝いて見える角度でだ! わかったな!」
ピスタチオが、数人の部下を引き連れて、こちらへ歩いてくる。
ノワールは、ゆっくりと、バケツの水を床にこぼした。
計画の始まりだった。
ピスタチオが、ちょうどノワールの目の前を通り過ぎようとした、その瞬間。
「きゃっ!」
ノワールは、わざと、自分がこぼした水たまりに足を滑らせ、派手な音を立てて転んだ。バケツが床を転がり汚れた水が、ピスタチオの磨き上げられた革靴のすぐそばまで
「うわっ! 何だてめえは! ドジなガキが!」
ピスタチオは、
「ちっ、大事なスーツが汚れでもしたら、どうしてくれる! さっさと失せろ!」
その
ノワールは、わざと、おどおどとした、怯えた少女を演じながら、立ち上がろうとする。
「ご、ごめんなさい! あの、お召し物が……!」
彼女は懐から、汚れてはいるが乾いたハンカチを取り出すと、ピスタチオのスーツにかかった(ように見せかけた)、ほんの僅かな水の
ピスタチオの注意が、自分のスーツに一瞬だけ向く。
―――今。
ノワールは、その、コンマ数秒の隙を見逃さなかった。
ハンカチを持つ右手とは逆の、左手。
その、氷のように冷たい素肌の指先が、まるで、闇の中から忍び寄る、一本の毒針のように、静かに、しかし、正確に、ピスタチオのスーツの袖の下、剥き出しになった彼の手首へと、伸ばされた。
―――ちり。
まるで、小さな静電気が走ったかのような、微かな感覚。
ノワールの指先が、ピスタチオの温かい皮膚に、ほんの刹那、触れた。
「―――ッ!?」
ピスタチオの体が、びくり、と大きく跳ねた。
全身の血が、一瞬で凍り付くかのような、強烈な悪寒。そして、その悪寒のすぐ後にやってきた、全く理由のわからない、胸騒ぎと不安感。
彼は、
だが少女は、ただ怯えたように彼を見上げているだけだ。その、空っぽの瞳には、何の感情も浮かんでいない。
(……なんだ、今のは……)
気のせいか。
ピスタチオは、自分の過敏な神経を、内心で嘲笑った。こんな、ゴミみたいなガキに、何ができるというのだ。
「……もういい! とっとと失せろ! 俺様の晴れ舞台を、これ以上汚すな!」
彼は、吐き捨てるようにそう言うと、部下たちを促して、控室の中へと消えていった。
一人、廊下に取り残されたノワールは、ゆっくりと立ち上がると、何事もなかったかのように、こぼした水を拭き始めた。
しかし、その、
破滅の
あとは、あの自信に満ち溢れた男が、自らの「不運」によって、華々しく、そして、無様に、舞台から転がり落ちていく様を特等席で観賞するだけだ。
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