第7話 幸運の女神と裏切りのコイン
あれから、数ヶ月が過ぎた。
シュガーティアの裏社会において、弱小マフィア「ガレット・ファミリー」の名は、今や、誰もが無視できない存在となっていた。
その理由は、ただ一つ。
ファミリーのボスであるサブレが、この街のあらゆる賭場で、常軌を逸した勝ちを収め続けているからだ。ポーカーでは、ありえない確率でロイヤルストレートフラッシュを揃え、ルーレットでは、一桁の数字に全財産を賭けて、笑うように的中させる。
裏社会の人間たちは、噂した。
サブレの隣には、いつも、人形のように美しい、銀髪の少女がいる。
感情の読めない、空っぽの瞳をしたその少女こそが、サブレに奇跡的な幸運をもたらす「女神」なのだ、と。あるいは、敵に破滅をもたらす「魔女」なのだ、と。
その夜もノワールは「幸運の女神」を演じていた。
場所は、特定のファミリーに属さない、中立地帯に存在する超高級秘密カジノ「シュガーキューブ」。
ここは、五大ファミリーの幹部クラスでなければ、足を踏み入れることすら許されない、裏社会の頂点に立つ者たちの社交場だった。
ノワールは、サブレが趣味で選んだ、豪奢な黒いドレスをその身にまとっていた。かつて、ぼろ布をまとっていた面影は、どこにもない。ただ、その瞳に宿る、氷のような光だけが、彼女が今も、路地裏の飢えた獣であることを、雄弁に物語っていた。
「どうだ、見たか! 俺の幸運は、底なしだ!」
ポーカーテーブルで、サブレの、品のない勝ち誇った声が響き渡る。彼の前に積まれたチップは、もはや、小さな山のようになっていた。
対戦相手の男たち――他のファミリーの幹部たちは、皆、苦虫を噛み潰したような顔で、自分の手札と、サブレの顔を交互に見ている。
イカサマの気配はない。にもかかわらず、サブレの手には、ありえないほどの好手が、次々と舞い込んでくる。
(……次のターゲットは、あの男)
ノワールは、サブレの背後で、静かに、次の獲物を選定していた。
テーブルの向かいに座る、蛇のような目をした男。ジェラート・シンジケートの幹部だ。彼は、まだチップを潤沢に残している。
ノワールは、給仕のふりをして、静かにテーブルへと近づいた。
「お客様、新しいお飲み物はいかがですか?」
感情を殺した、人形のような声。
男は、苛立った様子で、「ああ、もらおうか」とグラスを差し出す。
ノワールは、ボトルの口を傾け、グラスに酒を注ぐ。
そして、そのグラスを男に返す、ほんの一瞬。
彼女の指先が、男の指に、まるで、冷たい絹糸が触れるかのように、ごく、自然に、触れた。
「……!」
男は、微かな悪寒に、一瞬だけ、肩を震わせた。
だが、その正体に気づくはずもない。
次のゲームが、始まる。
配られたカードを見て、男の顔が、絶望に歪んでいく。
そして、サブレの手元には、またしても、勝利を約束する、完璧なカードが揃っていた。
「はーはっはっは! 俺の勝ちだ!」
サブレの、下品な笑い声が、部屋に響き渡る。
彼はもはや、完全に自分の力だけで、この幸運を掴み取っているのだと信じ込んでいる。隣に立つ少女が、ただの美しい所有物であり、便利な道具でしかないのだと、疑いもしない。
その、底なしの
彼女は、表情一つ変えずに、ただ静かに、自分の主人が自滅の道を、嬉々として転がり落ちていく様を見つめていた。
◇
その夜、ガレット・ファミリーのアジトが、サブレの勝利に酔いしれる男たちの、下品な
一人の少女が、音もなく、その熱狂から抜け出していた。
ノワールは、主役であるはずの祝宴に背を向けると、まるで夜の闇に溶け込むかのように、裏社会「ビタールート」の、さらに奥深くへと、その身を潜ませていた。
彼女が向かった先は、シュガーティアでも、特に鼻をつく匂いが立ち込める一角だった。
熟成されたチーズの、濃厚で、
その匂いの発生源である、一軒の寂れたチーズ専門店の、その屋根裏部屋こそが、彼女の目的地だった。
ノワールは、誰にも見られることなく、建物の裏手にある、錆びついた
部屋の中は、カビ臭さと、さらに強烈なチーズの匂い、そして、古い紙の匂いが混じり合った、独特の空気に満ちている。床から天井まで、本や、地図や、新聞の切り抜きが、狂気的なまでに積み上げられていた。
その、情報の山の中心で、一人の人物が、ランプの灯りを頼りに、何やら書類を整理している。
その人物は、ねずみの形をした、奇妙な仮面を被っていた。
「……遅かったじゃないか、
仮面の奥から、少年とも少女ともつかない、くぐもった声が響いた。
この人物こそ、シュガーティアの裏社会において、金さえ払えば、どんな情報でも手に入れてくると言われる、最高の情報屋、”フロマージュ”。
ノワールは、無言で懐から、小さな革袋を取り出した。そしてそれを、フロマージュの机の上に置く。
中身は、カジノの儲けから、サブレに気づかれないよう、巧妙な手口で抜き取った、純度の高い金貨だ。サブレは、儲けの総額にしか興味がない。チップと現金の交換レートをごまかし、差額を抜き取るなど、ノワールにとっては、赤子の手をひねるより簡単なことだった。
フロマージュは、仮面をつけたまま、金貨の純度を確かめると、満足そうに頷いた。
「うん、いつも通りの、上質な
「二つある」
ノワールは、感情を殺した声で、端的に告げた。
「一つは、ボス、”サブレ”の全て。彼の弱み、隠している資産、過去の失態。ファミリーの連中ですら知らない、彼の本当の素顔が知りたい」
「……ほう」
フロマージュの、仮面の奥の目が、面白そうに、きらりと光った。
「そして、もう一つは?」
「ガレット・ファミリーの中で、サブレに不満を抱いている人間。特に、腕が立ち、そして、義理堅い馬鹿を探して」
その、あまりにも直接的な、裏切りのための依頼に、フロマージュは、くつくつと、喉の奥で笑い始めた。
「いいねえ、最高だ! ついに、始まるんだね! 弱小マフィアに拾われた、一匹の
フロマージュは、興奮した様子で、情報の山の中から、一枚の羊皮紙を引っ張り出してきた。
「君が、そう言うと思ってね。既に何人か候補はリストアップしてあるのさ。……特に、面白いのが一人いるよ。古参幹部の、”ビスキュイ”。腕は立つが、石頭の武闘派だ。今の、金にしか興味のないサブレのやり方を、一番、苦々しく思っている男さ」
ビスキュイ。
ノワールは、その名前を、記憶に刻み込んだ。アジトの隅で、いつも、自分を、探るような目で見つめていた、あの、大柄な男だ。
「彼の情報を、もっと、深く」
「了解したよ。最高の
興奮を隠せないフロマージュに背を向け、ノワールは、再び、音もなく、屋根裏部屋の窓から、闇の中へと姿を消した。
下剋上のための、頭脳は、手に入れた。
あとは、その計画を実行するための、力強い「牙」を手に入れるだけだ。
◇
その日の深夜。
アジトの地下にある、だだっ広い訓練場は、静まり返っていた。
日中の男たちの怒声や、サンドバッグを打つ乾いた音は、今はもうない。ただ、裸電球が一つ、薄暗い空間をぼんやりと照らし出しているだけだった。
その光の中心に、一人の男がいた。
古参幹部の”ビスキュイ”。
彼は上半身裸のまま、黙々と、拳に巻いたバンテージを解いている。その岩のように硬質で、無数の傷跡が刻まれた肉体は、彼が、このファミリーのために、どれだけの血を流してきたかを物語っていた。
彼は、今の金と幸運に浮かれる、ファミリーの空気を
マフィアとは、力と、そして、仁義で成り立つもののはずだった。それがいつからこんな、素性も知れぬ小娘の、得体の知れない力に、
ビスキュイが、苦々しい思いで、息を吐いた、その時だった。
「……お疲れ様です、ビスキュイさん」
背後から、静かな声がかけられた。
ビスキュイは、驚きに、素早く振り返る。
そこに立っていたのは、ノワールだった。いつからそこにいたのか、まるで、闇の中から滲み出てきたかのように、彼女は、音もなく、そこに存在していた。
「……災厄の
ビスキュイは、敵意を隠さずに、吐き捨てるように言った。
しかし、ノワールは、その敵意を、柳のように受け流した。
「一つ、お聞きしたいことがあります」
「……何だ」
「今のガレット・ファミリーは本当に『強い』のでしょうか?」
その問いの意味を、ビスキュイは即座に理解した。
「……ボスを侮辱するか」
「いいえ」
ノワールは、静かに、首を横に振った。
「侮辱しているのはファミリーそのものです。今のボスはただ金儲けに浮かれているだけ。新しく入ってくるのは、金にしか興味のない、ごろつきばかり。かつての、このファミリーが持っていたはずの『誇り』は、どこへ行ってしまったのですか?」
ノワールの言葉は、ビスキュイが、心の奥底で、ずっと、燻らせていた不満、そのものだった。
ビスキュイは、言葉に詰まった。
ノワールは、その隙を見逃さず、懐から、一枚の、古びた羊皮紙を取り出した。
「これは?」
「三年前に、失敗に終わった、ショコラトル・カルテルとの取引に関する、報告書の写しです。あなたの、親友だった”ガスコ”さんが、命を落とした、あの取引の」
ガスコ、という名前に、ビスキュイの肩が、微かに震えた。
「……それが、どうした」
「公式の記録では、ガスコさんの判断ミスが、取引の失敗の原因だとされています。しかし、これはその取引の直前に、サブレが、情報をカルテル側に売り渡していたことを示す、密約書です」
「……!」
ビスキュイは、絶句した。
サブレが親友を見殺しにした。いや違う。自らの利益のために、親友を、敵に売り渡したのだ。
「なぜ、お前が、そんなものを……」
「サブレは、強欲ですが、用心深くはない。金と情報を手に入れるための『道』は、いくらでもあります」
ノワールは、ビスキュイの前に、静かに、その密約書を置いた。
それは、彼の、サブレに対する、最後の一片の忠誠心を、完全に破壊するには十分すぎる証拠だった。
ビスキュイの拳が、怒りによって固く握り締められる。
その、燃え上がる憎悪の炎を見届けながら、ノワールは最後の、そして、最も重要な言葉を、静かに、彼の耳元へと囁いた。
「私は、ボスになる器ではありません。私は影。ファミリーの表舞台に立つべきではない」
「……何が、言いたい」
「このファミリーには、あなたのような、筋を通し、そして、力で組織をまとめられる人間が、必要です」
「……!」
「あなたが、新しいボスになるのです、ビスキュイ。私は、影として、あなたの『頭脳』と『金庫』になる。あなたは、光として、ファミリーの『力』と『顔』になる。……悪い話では、ないはずですが?」
それは、悪魔の誘いだった。
しかしそれは、親友の無念を晴らし、そして、腐りかけた組織を、自らの手で立て直すという、大義名分を与えてくれる甘美な誘惑でもあった。
ビスキュイは、長い、長い沈黙の後、ついに、口を開いた。
その声は、地を這うように、低く、そして、確かな決意に満ちていた。
「……いつ、動く」
その一言で、契約は、成立した。
ノワールは、初めて、その口元に、微かな笑みを浮かべた。
「その時は、私が合図を送ります」
彼女は、そう言うと、再び、音もなく、訓練場の闇の中へと、その姿を消した。
後に残されたビスキュイは、ただ、固く握りしめた拳を、静かに見つめていた。
下剋上のための駒は、全て、盤上に揃った。
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