第4話 災厄の誕生

 闇の中へと逃げ込み、背後で輝く世界の気配が完全に途絶えたのを確かめると、少女――ノワールは、ようやく安堵のため息をついた。


 ここは、彼女の縄張り《テリトリー》。

 シュガーティアのきらびやかな大通りから、蜘蛛の巣のように無数に伸びる裏路地の一つ。その中でも、最も奥深く、最も光の届かない場所。

 遠くで鳴り響く、陽気な音楽。人々の楽しげな笑い声。ケーキやキャンディーの、うんざりするほど甘ったるい匂い。


 あの少女――アンが生きていた世界から発せられるそれらの全ては、ノワールの耳には、ただ意味のない騒音ノイズとしてしか届かない。甘い香りは、空っぽの胃袋をナイフでえぐる拷問でしかなかった。


 ノワールにとって、このシュガーティアという街は、お菓子箱などでは断じてない。

 それは、生きるための資源リソースを奪い合う、冷たく、巨大な狩場かりばだった。

 そして、あの少女は、あまりにも無防備で、あまりにも多くの資源リソースを持った、絶好の獲物ターゲットだった。


 ノワールは、ゆっくりと自分の左手を開いた。

 汚れた手のひらの上に、一つのマカロンが、場違いな宝石のようにちょこんと乗っている。太陽の光を吸い込んだかのような、鮮やかなレモンイエロー。

 美しい、とは思った。

 だが、それだけだ。

 彼女の目に映るそれは、もはや「お菓子」という名の、ただの物体でしかない。

 生きるために必要な「熱量カロリー」。

 そして、それ以上に価値のある、目には見えない「幸運リソース」を、たっぷりと内包した塊。

 ノワールは、躊躇ためらいなく、そのマカロンを口へと運んだ。


 さくり、と。

 繊細な生地が、乾いた唇の上で小気味よい音を立てて砕ける。中のクリームが、舌の上に広がる。

 しかし、味はしない。

 甘みも、酸味も、香りも、何も感じない。

 彼女の味覚は、長年にわたる飢餓と、そして、自らの持つ呪われた祝福ギフトの副作用によって、とうの昔に壊れてしまっていた。

 他人の幸福を吸い上げ続けた代償として、彼女自身が、ささやかな幸福を感じる能力を、根こそぎ奪われてしまったのだ。

 ただ、砂を噛むように、無心で咀嚼そしゃくし、飲み下す。


 だが、次の瞬間。

 ノワールの体の中に、確かな変化が訪れた。

 冷え切った体の芯に、まるで小さな火が灯ったかのような、微かな温かさ。

 そして、脳の奥で、静かな声が響く。


 ―――運気が、上昇した。


 確率が、ほんの少しだけ、自分に有利な方へと傾いた。

 それは、勝利の喜びなどではない。ただ、凍えるような寒さの中で、一枚の毛布を手に入れたかのような、切実で、乾いた安堵感。

 ノワールは、ゆっくりと立ち上がった。

 この温かさが、この幸運が、消えてしまわないうちに。

 狩りを、始めなければならない。



 ノワールは、猫のようにしなやかな足取りで、裏路地の迷宮を駆け抜けていく。

 目指す場所は決まっている。

 シュガーロードで最も格式高いと言われる、五つ星レストラン『マーブルパレス』。その、裏口だ。

 普段の彼女であれば、そこは最も避けるべき場所だった。

『マーブルパレス』の裏口は、屈強な料理人たちが番をしており、残飯を漁ろうとするスラムの子供たちを、情け容赦なく追い払うことで有名だったからだ。ノワールも、過去に二度、危うく腕を折られかけたことがある。


 しかし、今は違う。

 彼女の体には、あの幸福な少女から奪った「幸運」が、まだ温かく宿っている。

 これは、賭けだ。

 あの微かな温もりが、冷酷な現実の壁を溶かすほどの熱量を持っているのかどうかを試す、命懸けの賭け。

 ノワールは、息を殺して、目的地の角をそっと覗き込んだ。

 そして、彼女は、自分の幸運が本物であることを確信した。

 いつもなら、二人いるはずの番人の姿が、一人しか見えない。そして、その一人は、腹を押さえて苦悶の表情を浮かべ、今にも建物の中に駆け込もうとしているところだった。


「……くそっ、さっき食った牡蠣か……! おい、マルコ! すまんが、少しだけ代わってくれ!」


 男は、もう一人の仲間に声をかけたが、建物の中から返事はなかった。


「ちっ、聞こえてねえのか! もう我慢ならん!」


 番人の男は、悪態をつきながら、慌てて建物の中へと姿を消した。

 ―――好機。

 ノワールは、影から飛び出すと、音もなくレストランの裏口へと滑り込んだ。

 心臓が、早鐘のように打っている。だが、それは恐怖からではなかった。自分の予測が、そして、奪った力が、完璧に機能していることへの、冷たい興奮からだった。


 彼女は、巨大なゴミ箱へと駆け寄る。

 次の幸運が、彼女を待っていた。

 いつもは、南京錠で固く施錠されているはずのゴミ箱の蓋が、なぜか半開きのままになっている。慌てていた番人が、鍵をかけ忘れたのだろう。

 ノワールは、躊躇なく蓋を開けた。

 鼻をつく生ゴミの匂い。しかし、今の彼女にとって、それは不快なものではなかった。その悪臭の奥に、確かな「食料」の気配が感じられたからだ。


 そして、彼女はそれを見つけた。

 ゴミの山の一番上に、ほとんど手付かずのまま捨てられている、大きなパンの塊。おそらく、客が予約をキャンセルでもしたのだろう。まだ、ほんのりと温かささえ残っている。

 それは、ノワールにとって、何日も飢えを凌ぐことができる、金塊にも等しい宝物だった。

 彼女は、素早くパンをぼろ布に包むと、誰にも見つかる前に、再び裏路地の闇の中へと姿を消した。


​ 自分の縄張り《テリトリー》まで戻ったノワールは、壁に背を預け、貪るように、手に入れたパンにかじりついた。

 もちろん、味はしない。

 けれど、空っぽだった胃袋が、確かな質量で満たされていく感覚は、何物にも代えがたい、生の実感を与えてくれた。


 彼女は、パンを咀嚼そしゃくしながら、先ほどの少女のことを、ぼんやりと思い浮かべていた。

 今頃、どうしているだろうか。

 泣いているだろうか。それとも、怒っているだろうか。

 ほんの少しだけ、罪悪感に似た、ちくりとした痛みが胸を刺す。

 だが、ノワールは、その感傷を、冷たい理屈で即座に塗り潰した。


​「……ごめんね」


​ 誰に言うでもなく、彼女は、ぽつりと呟いた。


​「でも、これが私が生きる方法なの。あなたの『幸福』、ほんの少しもらっただけ。あなたはまだ、たくさん持っているでしょう?」


​ そう、ほんの少し。

 あの少女が持っていた、あまりにも膨大で、輝かしい幸福の総量からすれば、自分が奪ったものなど、大海の一滴にも満たないはずだ。


 たとえ、あのマカロンが砕け散っていたとしても。

 たとえ、コンテストに失敗したとしても。

 あの少女には、まだ、温かい家も、優しい両親も、未来の夢も、全てが残されている。


 自分とは、違う。

 このパンが尽きれば、また、飢えがやってくる。

 だから、奪うしかないのだ。

 持てる者から、持たざる者が。

 それが、この甘く、残酷な世界の、唯一にして絶対のルールなのだから。


 パンの最後の一片を飲み込み、ノワールは、ほんの束の間だけ訪れた満腹感に、静かに目を閉じていた。

 次に食料を手に入れられるのは、いつになるだろうか。

 明日か、明後日か。あるいは、このまま何も見つけられずに、再び飢えにさいなまれる日々が戻ってくるのか。

 そんな、いつも通りの、希望のない未来を予測していた、その時だった。


​ ふと、影が差した。

​ 自分の縄張り《テリトリー》に、自分以外の気配がある。

 ノワールの全身が、瞬時に緊張した。まるで、追いつめられた野良猫のように、全身の毛が逆立つ。いつでも逃げ出せるように、身を低くして、ゆっくりと気配の主へと視線を向けた。


 そこに立っていたのは、一人の男だった。

 年の頃は四十代だろうか。小太りで、少し着古したツイードのジャケットを着ている。柔和な目元に、手入れのされていないひげ。その風貌は、まるで、子供部屋に置かれたテディベアのように、人懐っこく、そして、どこか頼りなくさえ見えた。

 だが、ノワールは、騙されなかった。

 その、柔和な皮を被った男の瞳の奥に、獲物を品定めするような、鋭く、冷たい光が宿っているのを、彼女は見逃さなかった。


「……何の用?」


 ノワールは、警戒を最大限に高めながら、威嚇するように低い声を出す。

 男は、そんな彼女の様子を面白そうに眺めると、にこり、と人の良い笑みを浮かべた。


「いやいや、大した用じゃねえんだ。ただ、嬢ちゃんが、随分と『幸運』の持ち主だと思ってな」

「……何のこと」

「とぼけるなよ」


 男は、楽しそうに言葉を続ける。


「俺は見てたんだぜ。大通りで、パン屋の小娘がお前に触れたところをな。そして、その直後、お前があの『マーブルパレス』の裏口で、奇跡みたいにパンを手に入れるところも、全部な」


 ノワールの心臓が、冷たく跳ねた。

 この男、見ていた。自分の能力の、その一端を。


「偶然だ。あいつは関係ない」

「偶然、ねえ。パン屋の小娘が、お前に触れてから、急に不幸に見舞われ始めたのも、偶然か? お前が、あいつの『幸運』を吸い取ったんじゃねえのか?」


 見抜かれている。

 この男は、自分の能力の正体を、ほとんど正確に理解している。

 ノワールは、後ずさった。逃げなければ。この男は、危険だ。これまで出会った、どんな大人たちよりも――。


「まあ、待てよ。なにも、お前さんをどうこうしようって話じゃねえ」


 男は、両手を広げて、敵意がないことを示す。


「俺は、お前のその祝福ギフトに惚れたんだ」


 祝福ギフト

 呪いではない。化け物の力でもない。祝福ギフトと、この男は言った。

 ノワールが、戸惑いに動きを止める。

 男は、その隙を見逃さなかった。彼は、懐から一つの包みを取り出すと、ノワールの目の前に、そっと置いた。

 包みを開けると、中から、まだ湯気の立つ、温かいスープの匂いが立ち上った。


「俺は、弱小マフィア『ガレット・ファミリー』のボスをやっている、サブレというもんだ」


 男は、初めて名乗った。


「嬢ちゃん。お前のその力、このまま路地裏で腐らせておくのは、あまりにも勿体ない。俺のところに来い。そうすりゃ、毎日、腹一杯、こんな温かいメシを食わせてやる。雨風をしのげる、ベッドも用意してやろう」


 温かい、食事。

 ベッド。

 それは、ノワールが、生まれてから一度も、手にしたことのないものだった。


「……その代わり?」

「ああ、もちろん」


 サブレは、満足そうに頷いた。


「お前のその力、俺のために使ってもらう。誰もがお前を『呪い』だと恐れるこの街で、唯一、お前の力を『価値あるもの』として使ってやれるのは、俺たちみたいな裏社会の人間だけだぜ?」


 罠だ。

 ノワールの頭の中で、警鐘が鳴り響く。

 この男の甘い言葉に乗ってはいけない。利用されて、もっと酷い目に遭うだけだ。

 だが。

 目の前のスープから立ち上る、温かい湯気。

 明日も、明後日も、この温かい食事にありつけるという、悪魔のような誘惑。


 終わりのない飢えと、凍えるような孤独に比べれば、未知の危険の方が、まだ、ましなのではないだろうか。

 ノワールは、唇を噛み締めた。

 彼女には、もう、選べる道など、残されてはいなかった。


 ノワールの視線が、目の前に置かれた温かいスープと、サブレの顔とを、数回往復した。

 男の瞳の奥には変わらず、底知れない計算の色が浮かんでいる。

 この手を取れば、きっとろくなことにはならないだろう。この男は、自分を、ただの便利な道具としてしか見ていない。それは、痛いほどにわかっていた。


 だが。

 道具でもいい。

 利用されるだけでもかまわない。

 明日も、飢えに苦しむという、わかりきった絶望に比べれば。

 誰かに必要とされ、その対価として「生存」が保証されるという現実の方が、今の彼女にとっては、遥かに魅力的だった。


 ノワールは、ゆっくりと、スープの器に手を伸ばした。

 そして、まだ温かいそれを、一滴も残さず、静かに飲み干した。

 それは、彼女が交わした、無言の契約だった。


「……話に乗る」


 空になった器を置き、ノワールは初めて、自分の意志でサブレの目を見て言った。


「賢い判断だ、嬢ちゃん」


 サブレは、満足そうに頷くと、きびすを返した。


「ついてきな」


​ 二人は、裏路地の迷宮を、さらに奥深くへと進んでいく。

 ノワールは、サブレの数歩後ろを、警戒を解かずに歩き続けた。彼女の頭は、冷静に、周囲の地形、逃走経路、そして、前を歩く男の隙を分析している。

 サブレに連れてこられたのは、シュガーロードの輝きからは完全に見捨てられた、寂れた地区だった。建物の壁からはジンジャークッキーが剥がれ落ち、チョコレートの石畳は、ここではもうひび割れて色褪せた、ただの泥道に変わっている。


 やがて、サブレは、一軒の古びたパン屋の前で足を止めた。

 店の看板には、インクが掠れた文字で、かろうじて『ソレイユ』と読める。それは、昨日、あの幸福な少女が言っていた、彼女の実家の名前ではなかった。ただの、偶然の一致だろう。だが、その名前は、ノワールの胸に、小さなとげのように、ちくりと刺さった。


「ここが、俺たちのアジトだ」


 サブレは、ぎぃ、と音を立てる扉を開けて、中へと入っていく。

 店内には、古いパンの、どこか物悲しい匂いが、薄暗く残っているだけだった。

 サブレは、店のカウンターの奥にある、地下へと続く扉の前に立つと、分厚い鍵束の中から一本を選び、錠前を外した。


 扉が開かれた、瞬間。

 ごう、と。

 地下から、全く異質な世界の空気が、濁流のように吹き上げてきた。

 安物の酒と、この街の裏社会の人間だけが好んで吸う、シナモンスティックを巻いた煙草の、むせ返るような匂い。

 荒々しい男たちの、がなり立てるような賭け声。

 品のない笑い声と、グラスがぶつかり合う音。

 それは、ノワールがこれまで生きてきた、孤独な闇とも、そして、アンが生きていた、輝かしい光とも違う、第三の世界。

 欲望と暴力が渦巻く、シュガーティアの裏側――ビタールートの匂いだった。


 サブレは、地下へと続く、暗い階段を顎でしゃくりながら、ノワールに向かって、にやりと笑った。


​「ようこそ、ガレット・ファミリーへ。ここがお前の新しいステージだ」


​ ノワールは、その階段の入り口に立った。

 上からは、色褪せたパン屋を通して、偽物の光が差している。

 下からは、本物の欲望が渦巻く、生々しい闇が手招きをしていた。

 彼女は、もう、振り返らなかった。


​「…やってやる。やってるんだ。」


​ その呟きは、誰の耳にも届かない。

 少女は、ただ、静かに、その闇の中へと、第一歩を踏み出したのだった。

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