第3話 砕け散る世界
意識が、重たい泥の底から無理やり引きずり上げられるような、不快な感覚と共に浮上した。
アンが目を開けると、昨日と同じ、
――昨日の路地裏。
夢だったのだろうか。
ぼろ布をまとった銀髪の少女。石のように冷たい手。そして、全てを吸い込むかのような、空っぽの瞳。
あの
(……変な夢……)
きっと、そうだ。コンテスト前の緊張で、疲れているだけ。
アンは、気を取り直すように、ベッドサイドのテーブルに置かれた目覚まし時計に目をやった。それは、このシュガーティアで最も有名な
「…………え?」
アンの思考が、凍り付いた。
時計の針が、真夜中を少し過ぎた時刻で、ぴたりと止まっている。元気に飛び回っているはずの小鳥は、扉の奥で固く口を閉ざしたままだ。
――動いて、いない。
心臓が、どくん、と嫌な音を立てる。
アンは、恐る恐る、壁にかけられたリビングの時計に視線を移した。
そこに示された時刻は、彼女の思考を、そして血の気を、一瞬で奪い去るには十分すぎるものだった。
「うそ……」
かすれた声が、喉から漏れる。
コンテストの受付開始時刻を、とうに過ぎている。
寝坊、という二文字が、巨大な
「どうして!? なんで、時計が……!」
パニックに陥ったアンは、ベッドから転げ落ちるようにして、服を着替え始める。昨日、あれほど丁寧に準備したコンテスト用のドレスを、焦りから乱暴に引き寄せる。指がもつれて、背中のリボンが上手く結べない。いつもなら、数秒でできるはずのことが、今は永遠に続くかのように感じられた。
「アン! 大変よ、もうこんな時間!」
階下から聞こえてくる母マリーの切羽詰まった声が、さらに彼女の
アンは、ほとんど泣きそうになりながら、なんとか身支度を終えると、バスケットをひっつかんで階段を駆け下りた。
リビングのテーブルには、昨日と同じように朝食が並べられている。しかし、それはもうすっかり冷めており、湯気一つ立っていなかった。
「ごめんなさい! 私、時計が……!」
「わかっているわ。でも、もう時間がないの。とにかくこれを……!」
マリーが、バスケットに詰めようと用意していた、最後の飾り付け用のチョコレート細工を差し出す。アンはそれを受け取ろうとしたが、焦った彼女の手が滑り、繊細なチョコレートは、ぱりんと音を立てて床に砕け散った。
「あ……」
昨日まで、アンの世界ではありえなかった光景。
彼女の周りでは、いつだって、物事は完璧に、滑らかに進んでいたはずだった。
小さなミス。小さな不運。
しかし、その小さな亀裂は、確実に、アンの完璧だった世界を、内側から
「もういい! 行ってきます!」
母の制止の声も聞かず、アンは店の扉へと走る。
昨日、あれほど輝いて見えたはずのシュガーロードは、今の彼女の目には、ただ、自分を責め立てるように、眩しすぎるだけの、残酷な場所にしか映っていなかった。
店の扉を乱暴に開け放ち、アンはシュガーロードの眩しい光の中へと飛び出した。
焦りだけが、彼女の足を前に動かしている。心臓は、まるで
昨日、あれほど優雅に見えたチョコレートの石畳は、今はただ、彼女の行く手を阻む
(間に合わない、間に合わない、間に合わない……!)
頭の中で、同じ言葉が、壊れたレコードのようにぐるぐると回り続ける。
店の角を曲がろうとした、まさにその時だった。
「アン! 待ってたよ!」
陽気な声と共に、角の向こうから、一人の少女が飛び出してくる。
アンの、一番の親友であるクララだった。その手には、幸運をもたらすとされる、星の形をした砂糖菓子が握られている。
「わっ!?」
「きゃっ!」
思考がパニックに支配されていたアンは、クララの姿に気づくのが一瞬遅れた。避けようとするが、もつれた足が言うことを聞かない。
ごつん、と鈍い音がして、二人の体は激しくぶつかり合った。
「いっ……!」
アンは、なんとか転倒だけは免れたが、その衝撃で、クララの手から、星の砂糖菓子が宙を舞った。
ぱりん、と。
あまりにも儚く、そして、決定的な音が、アンの耳に突き刺さる。
見ると、チョコレートの石畳の上で、幸運のお守りは、粉々に砕け散っていた。
「あ……」
クララの顔から、血の気が引いていく。
「ご、ごめん、アン……私、アンを応援しようと思って、これ、昨日から徹夜で……」
震える声で謝る親友の姿に、しかし、今のアンは、優しい言葉をかけてやれるだけの余裕を、どこにも持ち合わせていなかった。
焦りと、自己嫌悪と、そして、どうしようもない八つ当たりの感情が、彼女の中で黒い渦となって膨れ上がる。
「……なんで、こんなところにいるのよ!」
アンの口から飛び出したのは、自分でも信じられないほど、冷たく、
「え……?」
「急いでるって、わかってるでしょ!? クララのせいで、もっと遅れちゃったじゃない! もう、知らない!」
自分が、どれほど酷いことを言っているのか、アン自身にもわかっていた。けれど、一度吐き出してしまった毒は、もう止めることができない。
クララの大きな瞳に、みるみるうちに涙の膜が張っていく。
「……アンの、ばか……! もう、知らない!」
親友の、泣きじゃくる声が背中に突き刺さる。走り去っていく足音が、どんどん遠ざかっていく。
謝らなければ。
そう思うのに、アンの足は、コンテスト会場へと向かって、ただひたすらに走り続けていた。
昨日、あれほど優しかったはずの世界が、今は、まるでアンに対して、明確な敵意を向けているかのようだった。
通り過ぎる馬車が跳ね上げた水たまりの泥水が、自慢のドレスに黒い染みを作る。
宝石のなる
昨日、笑顔で「頑張ってね!」と声をかけてくれた街の住人たちも、今は、泥だらけで、鬼気迫る
誰も、助けてはくれない。
誰も、声をかけてはくれない。
シュガーティアという、幸福に満ちた街の真ん中で、アンは、生まれて初めて、絶対的な「孤独」を感じていた。
その孤独感が、さらに彼女から冷静さを奪っていく。
親友を傷つけてしまった罪悪感と、うまくいかない現実への苛立ちが、彼女の心を、じわじわと、しかし確実に、蝕んでいった。
◇
コンテスト会場は、甘い香りと人々の熱気で、はちきれんばかりに膨れ上がっていた。
きらびやかな照明、華やかに飾り付けられた各参加者のブース、審査員たちの真剣な
その全てが、今のアンにとっては、あまりにも眩しく、あまりにも遠い世界の出来事のように感じられた。
息を切らし、汗と泥と、そして涙でぐちゃぐちゃになった顔で、アンは会場の隅に立ち尽くす。遅刻寸前で滑り込んだ彼女を、受付係は咎めるような、それでいて哀れむような目で見ていた。
(……まだ、間に合う)
アンは、かろうじて自分にそう言い聞かせた。
(マカロンは、無事。これさえあれば、まだ、挽回できるはず……!)
彼女は、割り当てられた自分のブースへと、ふらつく足で向かう。そこは、まだ何も飾られていない、がらんとした小さなテーブルがあるだけだった。
アンは、震える手で、大切に抱えてきたバスケットをテーブルの上に置いた。
大丈夫。
このバスケットの中には、私の全てが詰まっている。
彼女は、一度、ぎゅっと目を閉じて、大きく息を吸った。落ち着くのよ、アン。これから、最高のプレゼンテーションをするんだから。
そう、彼女が、再び目を開けて、バスケットの留め金に手をかけようとした、まさにその時だった。
「危ないっ!」
誰かの、焦ったような声が聞こえた。
アンが顔を上げるより早く、隣のブースの準備をしていたらしい参加者が、山積みの機材に足を滑らせ、バランスを崩して、アンのテーブルに激しく倒れ込んできた。
―――がっしゃん。
世界から、音が消えた。
アンの目の前で、スローモーションのように、テーブルが傾ぎ、バスケットが宙を舞う。
そして、全ての希望が叩きつけられる、絶望的な破壊の音が響き渡った。
バスケットは無残にひっくり返り、蓋が開いて、中身が全て床の上にぶちまけられる。
赤。黄色。緑。紫。
七色のクリームが、まるで悲鳴を上げるかのように床に飛び散り、真珠のように輝いていたマカロンのコックは、粉々に砕け散って、ただの色のついた砂糖の
昨日、彼女が人生の全てを懸けて作り上げた、虹色マカロン《レインボー・マカロン》。
その、見るも無残な残骸。
それは、まるで、アンの砕け散った夢そのものだった。
「あ…………あ……」
声が出ない。呼吸の仕方も、忘れてしまった。
アンは、ただ、床に広がったその悲劇的な染みを、見つめることしかできなかった。
周囲のざわめきが、遠くに聞こえる。誰かが、「大丈夫かい?」と声をかけてくれている気もする。
けれど、アンの耳には、もう何も届いていなかった。
その、虚無に閉ざされた彼女の聴覚を、しかし、一つの声だけが、残酷なまでにクリアに貫いた。
聞き間違えるはずのない、大好きな声。
「大丈夫だよ。君のお菓子が、この会場で一番だよ」
レオの声だった。
アンは、呪縛が解けたように、ゆっくりと声のした方へと顔を向けた。
レオがいた。すぐ近くだ。
しかし、彼は、アンの方を見てはいなかった。
彼の優しい笑顔と、温かい言葉が向けられていたのは、アンのライバルである、隣町のパティスリーの娘だった。不安そうな顔をする彼女を、レオが、心から励ましている。
昨日、アンに向けられるはずだった笑顔。
昨日、アンが交わしたはずの約束。
その全てが、今、別の少女に与えられている。
彼は、アンの悲劇に、気づいてすらいない。床に
その瞬間、アンの心の中で、何かが、ぷつりと、完全に切れた。
◇
どれくらいの時間が、経ったのだろうか。
アンが気づいた時、窓の外は、もうとっぷりと暮れていた。
コンテスト会場の
彼女は、いつの間にか、自室のベッドの上に倒れ込んでいた。コンテストのために着ていたはずの、お気に入りのドレスは、泥とクリームの染みで汚れ、見る影もない。綺麗に結ったはずの髪も、今は乱れ、力なく枕に散らばっている。
けれど、そんなことは、もう、どうでもよかった。
部屋の中は、しんと静まり返っている。
朝、あれほど温かい
壁に貼られた、数えきれないほどのお菓子のデザイン画。リボンの飾り。未来の夢を書き留めたノート。
昨日まで、その全てが、希望に満ちてキラキラと輝いて見えていた。
しかし、今のアンの目には、それらはただの、
彼女は、ただ、虚ろな瞳で、天井の木目をじっと見つめていた。
涙は、もう出なかった。
悲しいとか、悔しいとか、そんなはっきりとした感情さえ、もうどこかへ消えてしまった。
心の中に広がっているのは、ただ、だだっ広い、空っぽの空間だけ。
寝坊したこと。
親友と喧嘩したこと。
マカロンが砕け散ったこと。
レオが、別の女の子に微笑みかけていたこと。
一つひとつの出来事が、まるで他人事のように、頭の中をゆっくりと漂っては、消えていく。
なぜ、あんなことが起きたのだろう。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
考えても、考えても、答えは見つからない。昨日までの完璧な世界と、今日の絶望的な世界が、どうしても、繋がらない。
ただ、わかることが一つだけあった。
もう、何もかも、元には戻らない。
アンの輝かしい未来は、今日、終わってしまったのだ。
静寂の中、彼女の心の中でだけ、一つの問いが、壊れたおもちゃのように、何度も、何度も、繰り返される。
どうして……?
私が、何をしたっていうの……?
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