第2話
ぞろり、と。
暗闇の奥から、無数の赤い瞳がこちらを覗いていた。
「キシャアァァ!」
甲高い、耳障りな鳴き声が洞窟に反響する。一歩、また一歩と間合いを詰められるたびに、腐った肉と獣の糞尿が混じったような、吐き気を催す悪臭が鼻をついた。
ゴブリン。冒険者ギルドの依頼で最も多く討伐対象に上がる、最下級の魔物。しかし、それはあくまで装備の整った冒険者が、一対一で戦う場合の話だ。
目の前にいるのは、ゆうに二十体は超えるであろう群れ。対するリオンは、十歳の子供に過ぎない。武器は、運良く足元に転がっていた、刃こぼれした錆びた剣が一本だけ。
「……っ」
心臓が鷲掴みにされたように痛む。奥歯がガチガチと鳴り、恐怖で全身の血が凍りつく感覚に襲われた。手足の先から急速に熱が引いていく。
――また、同じだ。
教室の隅で、息を殺して暴力から逃れようとしていたあの時と同じ。無力で、矮小な自分。
絶望的な状況に膝が笑い、立っていることすらままならない。
脳裏をよぎるのは、新しい世界で出会った父と母の優しい笑顔。そして、涙ながらに「ありがとう」と言ってくれたセリアの顔。
前世では、自ら死を選んだ。だが今は違う。守りたいものがある。手に入れたい未来がある。
(ここで死んだら、また同じじゃないか。理不尽に奪われるだけの人生は、もうごめんだ!)
リオンは奥歯を強く噛み締め、震える両手で錆びた剣を握り直す。その瞳に、恐怖を塗り潰すほどの強い意志の光が宿った。
「うおおおおっ!」
恐怖を振り払うように叫び、我武者羅に剣を振るう。だが、木剣を振るうのとは訳が違う。重い鉄の塊は、リオンの意図を無視して空を切るばかりだ。
「キヒッ!」
嘲笑うかのような甲高い声と共に、リオンの脇腹を鋭い痛みが走った。ゴブリンが持つ、骨を削り出したような粗末なナイフが、服を裂き、皮膚を浅く切り裂いていた。
「ぐっ……ぁっ!」
熱い痛みが全身に広がる。一撃の重さはない。だが、数の暴力がリオンの体力を着実に削っていく。
一体を斬りつければ、死角から別の個体が襲いかかる。汚れた爪が腕を裂き、石斧が肩を掠める。
浅い傷からじわりと滲み出す血の匂いが、ゴブリンたちの濁った瞳に、いやらしい光を灯した。
「ニクダ!」
「新鮮ナ匂イ!」
「コレハ、ウマソウダ!」
涎を垂らしながら発せられる片言の言葉が、リオンの心をさらに絶望の淵へと叩き落とす。彼らはリオンを敵ではなく、ただの「餌」としか見ていない。
痛みと出血で思考が霞み、焦りだけが募って動きがさらに鈍くなる。その、一瞬の隙を、一体のゴブリンが見逃さなかった。
ひときわ体の大きな個体が、棍棒を大きく振りかぶる。リオンは咄嗟に剣で受けようとするが、腕が鉛のように重い。
ゴシャッ!
生々しい音と共に、リオンの右腕に凄まじい衝撃が走った。骨が内側から砕け散る、焼け付くような激痛。視界が真っ赤に染まり、声にならない悲鳴が口から漏れた。
「ああ……っ!」
力なく垂れ下がった右腕。その光景に、前世の記憶が鮮明に蘇る。
何もできずに教科書を破られた、あの教室。
何もできずに父に殴られた、あの部屋。
まただ。また自分は、何もできずに、ただ奪われるだけなのか。
腰を抜かし、後ずさることしかできないリオンを見て、ゴブリンたちが下卑た笑い声を上げた。
「……死にたくない」
ぽつりと、乾いた唇から言葉が漏れた。
前世では、あれほど焦がれたはずの「死」。
だが、今はどうだ。脳裏に浮かぶのは、自分を抱きしめてくれた母の温もり。無骨な手で頭を撫でてくれた父の優しさ。そして、涙で潤んだ瞳のまま、頬を真っ赤に染めて「す、すごく、かっこよかったよ……」と伝えてくれた、セリアのいじらしい表情。
この温かい光を、失いたくない。
ここで死んだら、結局何も変わらないじゃないか。いじめに耐えきれず命を絶った相川海斗と、ゴブリンに食い殺されるリオンと、何が違う? 理不尽に、ただ奪われるだけの人生。
――そんなのは、もうごめんだ!
「死にたくないッ!」
それは、かつて自ら死を選んだ少年が、心の底から絞り出した、初めての生の渇望だった。
もがくように逃げようとしたリオンの左足に、鋭い痛みが走る。ゴブリンが放った弓矢が、深く突き刺さっていた。これで、完全に動きを封じられた。
「あああ! いやだ! いやだ!」
とどめを刺そうと、一体のゴブリンが汚れた刃をゆっくりと振り上げる。その濁った瞳が、リオンをただの肉塊として捉えているのがわかった。
――どうして……僕の人生はいつも。
リオンが完全に諦め、目を閉じかけた、その時。
【ピロン♪】
不意に、場違いなほど軽やかな電子音が鼓膜を揺らした。リオンの目の前に、青白く光る半透明のウィンドウが、何もない空間からすっと浮かび上がったのだ。
『アップデートしますか? [Y/N]』
「……アップデート?」
その単語を目にした瞬間、リオンの脳裏に、冷たい声が響き渡る。
『――お前は出来損ないだ。常に自分をアップデートしろ』
前世で自分を縛り、追い詰め、死へと追いやった父の言葉。呪いそのものだ。なぜ、今になって、こんな場所で? これは、死の間際に見る悪夢の続きなのか?
混乱するリオンを嘲笑うかのように、ゴブリンの刃がきらりと光り、振り下ろされる。
世界が、スローモーションになる。
迫り来る刃の軌道が、ゴブリンの醜悪な笑みが、はっきりと見えた。
死の恐怖が全身を貫く。だが、それと同時に、腹の底から燃え上がるような、強烈な感情が突き上げてきた。
(うるさいッ! ふざけるな! お前の言葉のせいで、僕は一度死んだんだ!)
心のなかで、彼は絶叫した。
(僕はもう、お前の操り人形じゃない! )
『アップデートしますか? [Y/N]』
父の声が全身を駆け抜ける。
今この瞬間、自分を変えなければ待つのは死。 前世と同じ事を繰り返すだけ。
それなら。
(この力が呪いなら、その呪いですら利用して、僕は僕の望むままにアップデートしてやる!)
それは、父の呪縛からの、完全な決別を意味する魂の叫びだった。
「――アップデートだッ!」
選択した瞬間、凄まじい光がリオンの体を包み込んだ。
砕かれた右腕の骨が組み上がり、全身の傷が瞬く間に塞がっていく。
力が、体の奥底からみなぎってくる。それだけではない。新たな情報が、洪水のように頭の中へ流れ込んできた。
『スキル:身体強化 Lv.1 を獲得しました』
リオンはすぐさまゴブリンの攻撃を回避し、自分の身に何が起きたのか確かめる。
「腕が……治ってる。 それどころか、筋肉がついてる!」
リオンの目には、辺り一面の世界でさえまるで違って見えていた。
洞窟の湿った空気、滴り落ちる水滴の音、そしてゴブリンどもの心臓の鼓動まで、五感から流れ込む情報が、恐ろしいほど鮮明に感じ取れる。
目の前のゴブリンたちの動きが、まるでスローモーションのように、その一挙手一投足まで完璧に捉えられた。
(これが、アップデート……これが、僕の力……!)
先ほどまでの嘲笑を浮かべていたゴブリンたちが、リオンから放たれる尋常ではない気配に気圧され、明らかに戸惑いの声を上げる。
「ギィ…?」
「ナンダ、コイツ…?」
リオンは地面に落ちていた剣を拾い、その刀身に映る自分の顔を見る。
そこにいたのは、怯えていたかつての少年ではなかった。氷のように冷たい瞳をした、一人の戦士だ。さっきまであれほど重く感じた剣が、まるで体の一部のように、しっくりと手に馴染む。
「さあ、第二ラウンドだ」
リオンが地を蹴った。先ほどまでとは比べ物にならないほどの速度で、ゴブリンの群れに突っ込む。
一閃。彼が振るった剣は、寸分の狂いもなく一体目のゴブリンの首を刎ねた。
噴き出した血を浴びても、心は不思議なほど冷静だった。
恐怖も、罪悪感も、何もない。ただ、生き残るための最適な行動を、体が勝手に選択しているような感覚だった。
「ギィギィ!」
仲間が殺されたことで逆上したのか、数体のゴブリンが同時に襲いかかってくる。
だが、リオンはその全てを冷静に見切り、最小限の動きでいなしていく。
しかし、死角からの攻撃までは避けきれない。背中に、焼けるような痛みが走った。
『アップデートしますか? [Y/N]』
「――当然!」
リオンは痛みすらも歓迎するように、即座に肯定する。
背中の傷が瞬時に塞がり、さらなる力が漲ってくる。傷は力に、痛みは糧に。
このサイクルを理解した瞬間、リオンの心から恐怖は完全に消え失せた。
「さあ、もっとだ! もっと僕をアップデートさせろ!」
狂気にも似た笑みを浮かべたリオンは、無限に湧いてくるゴブリンの群れへと、再びその身を躍らせた。
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