俺のアップデートは終わらない~異世界転生した少年は進化し続けて無双する~

心赫 漆

第1話

「――お前は出来損ないだ。常に自分をアップデートしろ」


 冷たく響く声が、中学生の相川海斗(あいかわかいと)の存在価値を定義していた。父親の言葉は絶対だ。まるで呪いのように、海斗の思考を、行動を、その全てを縛り付けていた。


 机の上に置かれた答案用紙には、赤いインクで「100」という数字が踊っている。だが、父親はそれを一瞥しただけで、褒めることなど決してない。


「今日のスケジュールは全てこなしたのか。1秒でも無駄にするな。後退は死と同義だ」


 父親が作り上げた完璧なスケジュール。そこに海斗の意思が入り込む余地はない。食べるもの、学ぶもの、眠る時間まで、全てが管理されている。学校は、その延長線上にある地獄だった。


 休み時間、教室の隅で息を潜めていると、クラスの主犯格がニヤニヤと笑いながら近づいてきた。 真面目で根暗、勉強し続ける存在を周囲の人間は異物と認識するらしい。


「よぉ、相川。お前の教科書、アップデートしてやろうか?」


 三者面談の際に父が発した言葉が、中学生の男子には面白く映った。


 有無を言わさず、机の上から歴史の教科書が奪われる。抵抗などできない。すれば、倍になって返ってくるだけだ。


 ビリビリと、ページが破れる乾いた音が教室に響く。それは、海斗の心が引き裂かれる音でもあった。


「ほらよ、最新版だぜ」


 破り取られたページが、紙吹雪のように頭上から降り注ぐ。周囲からクスクスと嘲笑が漏れる。誰も助けてはくれない。見て見ぬふりをする教師の姿が、視界の端に映った。父親の「アップデートしろ」という言葉だけが、意味もなく頭の中をこだまする。


(止まっちゃダメだ、進み続けなきゃ……)


 その日、海斗はたった一つのミスを犯した。テストの点数が、99点だったのだ。


「後退するなと言ったはずだ! 進化できない人間に価値はない!」


 初めて振るわれた暴力が、熱い痛みと共に海斗の頬を抉る。その瞬間、彼の心の中で何かがぷつりと、完全に途切れた。


(そうか……自由になればいいんだ)


 後退は死だ。


 ならば、この歩みを止めるのではない。この息苦しいだけの世界から、自分という存在を消去する。それこそが、唯一残された最後の「アップデート」ではないのか。


 ふいに、心が凪いでいくのを感じた。


(そうか……こうすれば自由になれたんだ)


 それが、彼が見つけ出した唯一の答えだった。


 ふらりと自室に戻った海斗は、吸い寄せられるようにベランダの窓を開ける。眼下に広がるきらびやかな夜景は、まるで自分とは無関係な世界の光のようだった。誰も彼の苦しみなど知りもしない。


「これで、僕は……自由になれる」


 父親の呪縛から。終わらないアップデートの強迫観念から。


 誰に聞かせると もない呟きと共に、彼は夜の闇へと、静かにその身を投げた。


 ◇


 温かい光に包まれている。優しい歌声が聞こえる。


 次に目覚めた時、少年はリオンという名の赤ん坊として、異世界に生を受けていた。


(死んだはずじゃ……? ここは、どこだ?)


 思考はクリアなのに、体は赤ん坊のそれだからか、思うように動かない。見える世界もぼんやりとしている。だが、自分を覗き込む男女の温かい眼差しと、優しい声だけははっきりと伝わってきた。


「あらあら、リオン。お腹が空いたのかしら」


「よしよし、大きくなれよ」


(ああ、そうか。僕は……生まれ変わったんだ)


 その事実に気づいた瞬間、涙が溢れてきた。悲しみではない。安堵と、そして今まで感じたことのない喜びの涙だった。もうあの地獄に戻らなくていい。父親の呪縛から、いじめの日々から、本当に「自由」になれたのだ。


 農民である父と母は、前世の父親とはまるで違った。惜しみない愛情を、その腕いっぱいの温もりを、リオンに与えてくれた。失っていた人間らしい感情が、陽だまりの雪のように、少しずつ溶けていくのを、少年は感じていた。


 十歳になったリオンは、村の外れで木剣を振るのが日課になっていた。


 誰にも縛られず、理不尽から自由でいられる存在――「冒険者」。それが、リオンの新たな夢だった。


「リオン、休憩にしない? クッキー焼いてきたんだ」


 息を弾ませて駆け寄ってきたのは、幼馴染のセリアだ。亜麻色の髪を揺らし、太陽のような笑顔を向けてくれる。彼女が差し出す少し不格好なクッキーは、どんなご馳走よりも甘く、リオンの心を温かさで満たした。


「……うん、ありがとう。美味しいよ」


 はにかみながら礼を言うと、セリアは嬉しそうに頬を緩める。内向的なリオンも、彼女の前では自然な笑顔を見せることができた。この穏やかな時間が、永遠に続けばいい。そう、思っていたのに。


 不意に、彼らの上に影が落ちた。


「何やら楽しそうだな、下民ども」


 傲慢な声と共に現れたのは、領主の息子ジークとその取り巻きたちだった。蔑むような視線が、リオンとセリアに突き刺さる。


「なんだその汚ねぇ菓子は。そんなもん粗末な物よく食えるな」


 ジークはセリアの手から乱暴にクッキーの入ったカゴをひったくる。


「返して!」


 セリアがか細い声で抗議するが、ジークは鼻で笑うだけだ。彼はカゴからクッキーを一つまみ上げると、まるで汚物でも見るかのように顔をしかめ、指先で粉々に砕いた。


「ヒャハハ、ジーク様の言う通りだぜ!」

「そんなゴミ、捨てちまいましょう!」


 取り巻きたちの下卑た笑い声が響く。そして、ジークは土の上に落ちたクッキーの残骸を、ブーツの裏でぐりぐりと踏みつけた。


「ひどい……」


 セリアの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。


 その光景が、リオンの中で忌まわしい記憶の引き金を引いた。


 ジークの嘲笑が、前世のいじめっ子の顔に重なる。


 砕かれたクッキーが、破り捨てられた教科書に変わる。


 取り巻きたちの声が、教室に響いていた悪意に満ちた笑い声と溶け合う。


 ――また、同じだ。


 体の芯が冷えていく。手足が鉛のように重くなる。また、何もできずに、大切なものが目の前で奪われていく。諦めろ、と心のどこかで声がする。お前ごときが何かしたって、何も変わらない、と。


 だが。


 涙を流すセリアの姿が、かつて誰にも助けてもらえず、一人で唇を噛み締めていた自分の姿と重なった。


 ――本当に、それでいいのか?


(嫌だ)


 ――また、奪われるままでいいのか?


(もう、ごめんだ)


 心の奥底から、今まで抑え込んできたマグマのような感情が噴き出した。


「やめろっ!!」


 それは、自分でも驚くほど大きな声だった。


 気づけば、リオンは叫びながら、震える足で一歩踏み出し、セリアの前に立ちはだかっていた。その瞳には、今まで誰も見たことのない、燃えるような怒りの光が宿っていた。


 突然の気迫に、ジークも取り巻きたちも、一瞬たじろぐ。


 守るべき存在を前に、リオンは初めて理不尽に牙を剥いた。それは、何もできなかった過去の自分と完全に決別するための、魂の叫びだった。


 ジークは忌々し気に舌打ちすると、「覚えてろよ」と捨て台詞を残して去っていく。


「リオン……ありがとう」


 涙ながらに感謝するセリアが、潤んだ瞳でリオンを見つめる。


「ごめんね、クッキーダメにしちゃって……」


 リオンは地面で粉々になったクッキーを見つめた。


「ううん、リオンす、すごくかっこよかったよ……?」


 真っ赤に染まった頬。胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。リオンは、彼女を守ることを固く、固く誓った。


 ◇


 翌日、セリアから手紙が届いた。


『森の奥で珍しい薬草を見つけたから、一緒に来てほしいな』


 リオンは眉をひそめた。指定された場所は、村の大人たちから「決して一人で入ってはいけない」と固く禁じられている『魔の森』の奥深く。ゴブリンなどの魔物が出没するという危険な場所だ。セリアがそんなところに一人で行くなんて、ありえない。それに、いつもは丸っこくて可愛らしい彼女の字が、どこかぎこちなく見える。


(……おかしい。何かの危険な事に巻き込まれているのか?)


 胸騒ぎがする。昨日のジークの捨て台詞が脳裏をよぎる。しかし、万が一、本当にセリアがそこにいて、危険な目に遭っていたら? そう思うと、じっとしてはいられなかった。彼女を守ると、固く誓ったばかりなのだから。


 リオンは狩り用の剣を強く握りしめ、覚悟を決めて『魔の森』へと足を踏み入れた。


 森の中は、昼間だというのに薄暗い。高く生い茂った木々が太陽の光を遮り、不気味な静寂が支配していた。時折、聞いたこともない獣の声が遠くで響き、背筋を冷たいものが走る。


 手紙に記された場所へたどり着くと、そこにはぽっかりと、巨大な穴が口を開けていた。


(セリアはどこにもいない……やっぱり!)


 リオンが罠だと確信し、踵を返そうとした、その瞬間。


「――っ!」


 背中に強烈な衝撃が走り、リオンの体は為す術もなく、暗い穴の底へと突き落とされた。


 受け身も取れずに転がり落ち、全身を強打する。


「ガハハハ! 見ろよ、無様に落ちてやがるぜ!」

「冒険者になりたいんだろ? 良い修行の場だぜ、ゴブリンの巣っていうな!」

「平民ごときが逆らうからだ!」


 穴の上から、聞き慣れた嘲笑が降ってくる。見上げると、ジークとその取り巻きたちが、憎々しい笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。


「せいぜい、ゴブリンに可愛がってもらえよ!」


 助けを呼ぶ声は、暗い穴の中に虚しく響くだけ。


 そして、暗闇のさらに奥から。


 ぞろり、と。


 無数の赤い瞳が、静かに、飢えた光をたたえてリオンへと近づいてくるのが見えた。

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