第34話 束の間の現世

視界が安定すると同時に、懐かしい埃の匂いが鼻をくすぐった。

——間違いない、ここは俺の部屋だ。

散らかった机、止まったままの時計、壁に貼られたカレンダー。

時間そのものが、あの日で止まっているようだった。


「時間は三十分……急がないと」


腕の転送デバイスに表示されたカウントが無情に減っていく。

俺は過去の記録を頼りに机の引き出しを開けた。

中から出てきたのは、一枚のメモと一枚のDVD。

妹——瑠璃が俺宛に残した、思い出のDVDだ。


『お兄ちゃんへ』

瑠璃の丸っこい可愛らしい文字。

この文字を見るだけで、あの日の笑顔が鮮明に蘇る。


といっても、中身は見ていない。

難病に侵され全身の筋肉が弱っていく中で近い将来、自分の声が出せなくなると悟った瑠璃は、事前に遺言のような形で俺宛のメッセージをDVDに収録していた。


「私が亡くなった時に見てね」

そう言われて渡されたDVDだが、気持ちの整理がつかず、俺は見る勇気が出ずに引き出しの中にずっと仕舞ったままだった。


「……これにしよう。内容を確認する時間はないが、仕方ない」


DVDを慎重にバッグへ入れる。

次は部屋の片隅——仏壇へ向かった。


瑠璃の遺影と共に小さな骨瓶。

手を合わせ、しばらく黙祷を捧げる。


「瑠璃……遺骨を少しだけもらう」

小瓶に遺骨の一部を収め、そっと布で包む。

胸の奥が痛む。だが、止まっていられない。


「残り……五分か」


部屋を見渡す。

ふと、目に留まったのは洋服タンス。

瑠璃は高校の制服のデザインが大好きだった。

「もう少し着ていたかったな」と笑っていた姿が思い浮かぶ。


「これも……持っていくか」

制服をそっと手に取った瞬間、止まっていた部屋の時計が音を立てて動き始めた。

——まるで、瑠璃が背中を押してくれたかのような気がした。


その時だった。

机の上にある、小さな小箱に視線が向かった。


「危うく忘れるところだったな……」


中に入っていたのは、瑠璃が俺に贈ってくれたタンザナイトのペンダント。

俺が四十歳になる頃「お兄ちゃんに似合うから」と自分の小遣いで買ってくれたんだよな。

淡い青紫の石が、部屋の光を受けて静かに輝いている。

「お兄ちゃん、知ってる? タンザナイトの石言葉は『希望』なんだよ」

そのやり取りが脳裏に浮かんだ。


そっと首にかけ、冷たい感触を確かめる。

「……これで、もう迷わない」


「瑠璃……行ってくるよ」

呟いた瞬間、転送デバイスの時間がゼロになり、淡い光を帯び脈動を始めた。

部屋全体が光に包まれ、空気が反転する感覚に襲われる。


ノイズ混じりの映像の中で、瑠璃がもう一度笑ったような気がした。

「頑張って——お兄ちゃん」

その声が、確かに俺の耳に届いた。


視界が白に染まり、現世の景色が霧のように消えていく。

次に目を開けた時、俺は再び白い無機質な部屋に倒れていた。

瑠璃の遺骨の入った小瓶にわずかな熱がこもっていた。

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