聴診器と動物園

雪⛄️だるま

聴診器と動物園


翔太は回診のために、雑多にかけられた聴診器からひとつを手にした。ふと目にしたのはあかりが紛失したはずの黄緑色の聴診器だった。あかりと別れてから2ヶ月、新しい彼氏ができたと言われてから1ヶ月が経過していた。それを届けることを口実に、仕事終わりにあかりの転勤先の北央病院へ向かった。

守衛さんからの連絡を受けて驚いた彼女が階段を降りてきた。久しぶりに見るあかりは明らかに怒った様子だった。口実にした聴診器を手渡すと、迷惑そうな顔をしている彼女に、


「明日、すこしだけ時間をください。」と翔太は懇願した。少しのためらいのあと、彼女は頷いた。その頷きがあきらめからくるものであったとしても、翔太は嬉しかった。



翌朝、北央病院から程近い春日駅前へ自転車で向かった。夜勤明けの彼女が現れたら、何を話そうか。昨晩からずっと考えていた。昨日の感じだと、一緒に食事に行っても関係改善は全くもって望めないだろう。食事に行くのは中止しよう。彼女は早く切り上げる気だろう。なるべく長く一緒に居られる場所。少し遠いが動物園にしよう。あそこならある程度の時間一緒に居られるだろう。

約束の九時半を過ぎた。

──やっぱり、来ないか。そう思った瞬間、携帯が震えた。


《仕事が長引いた。ごめん。》


翔太は安堵した。

あかりが現れた。茶色のワンピースに薄化粧。無表情のその横顔にもう手の届かないところに彼女が行ってしまった雰囲気を感じる。

「ごめんなさい!」翔太は土下座をしていた。昨日アポ無しで直撃したことのなのか、この2ヶ月彼女を放置したことのなのか。


「やめて、そういうの。」

と言って、彼女は軽く後ずさった。


まばらな通行人がなにごとかと訝しげに通り過ぎる駅前のタイル張りの歩道から翔太はゆっくりと立ち上がった。



動物園へ向かうタクシーの窓越しに、初夏の日差しを浴びた街路樹の緑が濃さを増していた。

「離婚したんだ。いまは息子と二人で暮らしている。」続けて言った。

「やり直したい。あかりと。」


「無理だよ。」

あかりは窓の外を見たまま言った。


「どうして?」


「遅すぎるよ。いまさら。」

あかりは視線を変えずに呟いた。


翔太はなりふり構ってなどいられなかった。

「あかりが一番大事なんだ。やり直したい。」自然に声が大きくなっていた。タクシーの運転手がバックミラー越しに二人をのぞいているのがわかった。


「無理だよ。」

あかりは、その一言を繰り返した。



週末の動物園は、家族連れで賑わっていた。子どもの笑い声が響く中、二人だけが孤立していた。動物を見るのが目的ではない動物園は初めてだ。鳥類の檻を左右にして、無言で歩いた。さる山に近づくとなんとなく二人は立ち止まった。


「君とやり直すために、離婚したんだ。」

それは事実だった。離婚するときにあかりと付き合っていることが判明すると慰謝料が発生してあかりに迷惑がかかる可能性があった。だから離婚することをあかりに告げずに別れたのだ。私にとっては一時的な別れだったが、あかりにとっては本当の別れだったかもしれない。だが、17年連れ添った妻に離婚を切り出すのは難しい。決断を先送りにしていたとき、新しい彼氏ができたと知った。あかりを取られたくなくなって、それから焦って離婚したのだ。まさかこんなにはやくあかりが誰かのものになるなんて、思いもしなかった。しかし、すぐに新しい彼氏ができるほど寂しく辛い思いをさせたのは、他でもない翔太なのだ。


「無理。その気はない。」


それでも、翔太は必死に言葉を探した。

「俺は君を大事にしてるつもりだった。本気で好きになってしまったから、あかりに迷惑がかからないように、連絡を絶っていたんだ。」


「そんなこと言われても、あなたとやり直すことはできない。」


猛獣舘でもゾウの前でも、ひたすら話し続けた。時折他愛もない話を織り交ぜつつ1時間以上も夢中になって話し続けた。普段は行かないであろう奥のシロクマ館まで時間稼ぎのために歩き回った。ウォンバットの前に来たとき、わずかにあかりの表情はほぐれてきた。それが余計に、気持ちが微塵も動いていないことの表れであるような気がした。


翔太は話題を変えて聞いてみた。

「彼氏とうまくいってるの?」


「うん。」


「そうか、」

うまくいっているのか、いい彼氏なんだろうな。いや、不倫の次の恋は、そりゃあいいに決まってる。彼氏には自分に感謝して欲しいくらいだ。人混みを堂々と手を繋いで歩けるわけだし、常に一緒にいられることに大きな喜びを味わうことができるのだから。

曇り空からパラパラと小雨が降ってきたので、小さな売店の入った体験型学習施設で雨宿りをした。休憩用の椅子に座り、世間話をしながらお茶で喉を癒していたとき、翔太は不意に言った、

「あかりはもっと自己主張したほうがいいよ。」


「それってアドバイス?」


「うん。俺はあかりのことが好きだったから、」(主張しなくてもあかりの気持ちがわかったけど、)と言いたかったが、言葉のかわりに涙がこぼれた。


「なんで泣くの?」


手のかかる子供をあやすように、あかりはティッシュを差し出した。

「だっで、ずぎだっだがら、」翔太は鼻水を啜りながら言葉を続けた。

「もう、あかりの『ふっ』っていう感じの独特の笑い方が見れないのか。残念、」と言うと、


「『ふっ』」

と、あかりが笑った。


「また見れた。」鼻水を拭きながら翔太は笑った。

翔太はゾウの綱引きを体験できるコーナーへ行った。ひとりじゃゾウに太刀打ちできず、彼女が一緒に綱を握ってくれてゾウを倒すことができた。にわか雨が止んで動物園を出る時、翔太の心も僅かに晴れ渡っていた。



「少し歩こうか。」動物園を出て翔太は言った。


「うん。いいよ。」

と、あかりが答えた。


二人は右手の散策路に入った。原生林に囲まれた遊歩道はひんやりとしていた。

「あかり。幸せにならないと許さないよ。」と翔太は言った。


「大丈夫だよ。」

とあかりは応えた。


歩きながら他愛もない話をした。昔に戻ったような感覚だった。このまま時間が止まればいいのにと本気で考えながら。

白鷺公園の入り口で、翔太は立ち止まり言った。


「一緒に写真が撮りたい。ほとんど写真が残ってないから、」

気乗りのしないあかりを横目に、通行人の老夫婦にお願いして公園の入り口で二人の写真を撮ってもらった。二人で外出しても、記念写真も堂々と撮ることができなかった。そんな歪な関係だった。



彼女が予定していた時間はとっくに過ぎていた。白鷺公園からタクシーを拾った。終始無言で翔太は彼女の横顔を眺めていた。あかりの頬がわずかに震えていた。

タクシーを降りると、数時間前に土下座をしたまさに春日駅前のその場所で、翔太は立ち止まり深々と頭を下げた。

「今日はありがとう。」と、右手を差し出した。

握手をしたあかりの瞳がうっすらと光っていた。すかさず翔太は、

「泣いてるだろ。」とツッコんだ。


「泣いてないよ!」

とあかりは強がって言った。


翔太は笑いながら、最後の挨拶をした。

「元気でね。さようなら。」


「翔太も元気でね。」

そう言ってあかりは振り返らずに春日駅の中へ消えていった。



帰り道、自転車を立ち漕ぎする翔太の頬を涙が伝った。あかりに聴診器を届けに行ったのはストーキング以外のなにものでもなかった。こいつは何をしでかすかわからんから、最後に一回だけ言うことを聞いてあげたほうがいいと判断したのかもしれない。いや、きっとそうに違いない。しかし、そんなことは置いといたとしても、自分で行動した結果の、最初で最後の動物園だった。



〜エピローグ〜

翔太はあかりに連日長文ラインを送りつづけた。諦めきれず、でも別れを受け入れなければならなくて。夜は眠れず、早朝は泣きながら目が覚めてしまう。生きている意味がないなぁと思いながら、仕事に向かう。明るく振る舞っていても、それを心の中で遠くから冷ややかに見つめる自分がいた。食事はのどを通らず、体重が1ヶ月で10キロ減った。周りからは、悪い病気にかかったのではないかと噂された。


返信はほとんどなかったが、既読になるだけで、心が満たされるという変態の境地に達した。

しばらくすると、既読になることを喜んでいるのに、既読にするなと、お願いをした。

数日経っても既読がつかないと、今度は既読にしてくれとお願いをした。

それが既読になると、心は狂喜乱舞した。


1ヶ月と少しが経過した頃、憔悴した翔太はあかりに「ブロックしてくれ」とお願いをした。


既読がつかなくなった。

念願のブロックが達成された。


翔太もあかりをブロックした。


数日ごとにブロックを解除して、既読が付いているか確認した。

1週間経っても、2週間経っても既読がつくことはなかった。


ブロックを解除してくれとお願いしても、もう既読が付くことはなかった。

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聴診器と動物園 雪⛄️だるま @mishina_taijiro

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