はなぐりじまのぼくとナナコ
@Aimei1012
はなぐりじまのぼくとナナコ
ハナグリ島にいる牛はむかしから、「くだん」を産むことで知られている。
産まれたくだんには、「良いくだん」と「悪いくだん」がいるから、気を付けなくてはいけないそうだ。ちなみに牛が産むのは「良いくだん」で、人間が産むのは「悪いくだん」だと、ハナグリ島ではそう決まっている。
ナナが産気づいて、呼びにいった獣医の多田先生はいつも、僕にこう言ってくれた。
悪いくだんなんか、本当はいないんだよ。
だから君は、決して悪い子なんかじゃないよ、と。
昨晩、牛小屋で産気づいたナナを見て、僕は急いで多田先生を呼びに行った。多田先生は、ハナグリ島にひとりしかいない獣医さんだ。とても忙しいことはわかっていたけれど、僕ひとりでは、どうしたらいいかわからなかったからだ。
何年かごとに、ハナグリ島に来る先生は変わるみたいだけれど、多田先生だけはずっといてくれている。この島が好きで、牛が好きで、長くいたいと偉い人にわがままを言って、そうさせてもらったらしい。
お腹が痛いのと、苦しいので、ナナはぐうう、ぐうと低い声で唸って、ふうふうと息をしている。
多田先生は聴診器をナナのお腹にあてながら、僕に訊いた。
「ナナは、顔役さんの種牛とはまだ何もないんだね?」
種牛は、いつも怖い顔で僕を睨んでくる牡牛のゴンタだ。
とがった角をいつも、牛小屋の柱にこすりつけて、磨いている。
僕のことが「わかっている」らしく、ゴンタが顔役に連れられて道を散歩しているときは、よだれをだらだらとたらしながら、向かってくる。
だから僕はびくびくしてうつむいて、隠れるか、通り過ぎるまでじっとしている。
ナナもこわがっていて、散歩しているときにゴンタを見かけると、どんなに手綱を引いても立ち止まって、ゴンタが通り過ぎるまで動かない。
そんな種牛に、ナナの相手なんかしてほしくなくて、僕も避けていた。
「ゴンタは嫌いだな、乱暴だから。ナナもすごく嫌っているもん。ゴンタのこと」
嫌い、嫌いと繰り返した僕の言い分を聞いて、多田先生は「これはたいへんな嫌われようだね」と笑って言った。
「もちろん、他の牛たちとも、何もないんだね?とはいえ島には、ゴンタしか牡牛はいないけれど……」
「うん、ナナはすごくこわがりだから」
「そうか、じゃあお腹の子どもは間違いなく、くだんだよ。幸次くん、よく先生を呼びに来てくれたね。さすがナナの相棒だ、ここまで走ってくるのもさぞ大変だっただろう」
ナナの様子を見ながら、多田先生は僕を「偉かったね」とほめてくれた。
ハナグリ島のなかで、僕のことをほめてくれるのは、多田先生だけだ。大人たちはいつも、僕のことをじろじろと、嫌な目で見る。
見ながらこそこそと、寄り集まって、内緒話までしている。
またあの子、出歩いているわ。
ああ嫌だ、けものくさい、服にうつるじゃない。
なんてあさましい顔をした子なのかしら、気持ち悪い。
歩き回らないで欲しいわね、島が汚れるじゃない。くだんが産まれなくなったらどうするのよ、まったく……消えてくれないかしら。
聞かないようにしても、大人たちの話している内容が、どうしても耳に入ってきてしまう。そんなとき僕はいつも、ナナの優しい眼を思い浮かべる。そうすると、心がだんだんと落ち着いてくる。
「ナナは初めてお産をするから、痛みと苦しみに、耐えられるといいんだが……。幸次くん、ナナにいちばん信頼されているのは、幸次くんだよ。手伝ってくれるね?」
多田先生に声をかけられ、僕は我にかえり、目の前に横倒れして苦しそうにふうふうと息をして、眼を潤ませるナナの顔を見た。
そうだ、大人たちや、ゴンタのことなんか、考えちゃいられない。
今はお産をする、ナナのことだけ考えなくちゃ。
僕はいつも、ナナと一緒にいたんだ。
ナナはいつも、僕に優しくしてくれた。父さんや、母さん、そして兄さんよりも。
悲しい時だって、辛かった時だって、ナナはいつも、僕の側にいて、なぐさめてくれた。
「先生、手伝うよ。ナナは、ナナは僕の牛だ!」
「よし、さすが幸次くんだ。牛の気持ち、いや、ナナの気持ちがいちばんわかるのは幸次くんだからね」
ナナが、くだんを産んだあとどうなるか、僕も多田先生もちゃんとわかっている。
くだんを産んだ雌牛は、必ず死ぬ。
どんなに丈夫でも、病気ひとつしたことがないぐらい元気でも、安産でも、必ず死ぬと決まっている。
それが、くだんを産んだ雌牛の運命だから。
僕は苦しそうな、ナナの背中をなでたり、多田先生の手伝いもして、くるくると動いた。ぎゅおおおおお、ぐぅうううと唸って、下腹に力を入れるナナの頭や背中をなでて「がんばれ、がんばれ、ナナ、がんばれ」とたくさん声をかけたり、産まれてくるくだんのために新しい干し草をしいたり、僕がいつも使っているたった一枚しかないバスタオルも用意した。くだんが使うなら、別に汚れたって、破けたって、惜しくなんかない。
「手際がいいね、驚いたよ。さあナナ、あと少しだからな。頑張れよ」
多田先生が、大きな手でやさしくナナのお腹をさすったり、声をかけて、銀色の道具をナナのお腹に入れたりしていた。おでこにびっしょりと汗をかいていたから、僕は多田先生が持ってきていたガーゼで、何度もおでこを拭いてあげた。
空がだんだんと明るくなってきて、ゴンタを飼っている顔役の家から鶏の泣き声が聞こえてきたときだった。
うなったり、鳴き声を挙げるナナのお腹から、ぷるぷるとした薄い膜につつまれて、ぬるぬる、ぬるりと滑り落ちるようにくだんが出てきてくれた。
「ようし、よくやった。ナナ、お疲れさん」
多田先生が、お産を終えたナナに優しく声をかけて、持ってきていた鋏で、薄い膜をちょきちょきと切った。
「これは胎盤といって、お腹に仔牛がいるとき、母牛の身体とつなげる役目をしているんだよ。栄養や、酸素を運ぶ大事なものなんだ」
胎盤は、おそるおそる触ってみるとなまあたたかくて、細かい血管がもわもわとたくさん広がっていて、ぐにゃりと柔らかかった。ねばっこい、透明な液体が指についたので、牛小屋の柱にこすりつけた。柱が、ぬらぬらと光った。
「さあ、胎盤をはがそう。くだんと挨拶だ」
多田先生が胎盤をゆっくりと、ていねいにはがすと、ナナと同じ茶色い毛で覆われたくだんが、ひょっこりと顔を出した。
「おはようございます、ようこそ」
「きみが……くだんなんだね?」
多田先生と、僕の呼びかけに、くだんはにっこりと微笑み「はい」と答えた。
くだんの身体をよく拭いて、立ち上がったところを見届けたあと、僕と多田先生は家に戻ってナナが産気づいたこと、そしてくだんが産まれたことを家族へ報告しにいった。
ふたりとも、ナナがお産の時に流した血で足元が赤黒く汚れてしまっていた。
こうなると、洗っても落ちないんだって、多田先生は苦笑いして言った。
「ごめんください、獣医の多田です」
ドアをがらがらと開けて、多田先生が呼びかけると、「はあい」と、眠そうな父さんの声が聞こえてきた。どうやら、起きたばかりなようだ。
「ああ、多田先生……?おはようございます。幸次も一緒なのか、どうしました?」
どうしました、と訊かれて多田先生は呆れたように目を見張った。
さっきまで、僕がナナのお産につきそっていたことも知らないようだった父さんに、「家族はもちろん大事ですが、幸次くんも、ナナも、牛小屋も、ちゃんと見ないといけませんよ」と、多田先生は低い声で、イライラしたように告げた。
「すいません、ナナのことは……幸次に……。すいません」
ちらり、と父さんが僕を見た。
お前のせいだ、とも言いたげに、唇をちょっとだけゆがめていた。
「任せていたなら、一応ご報告だけさせていただきましょう。ナナはお腹に子供がいまして、昨晩産気づいたんです。明け方、無事に仔牛が生まれました」
「そんな、ナナはまだ、ゴンタにも……先生まさか、その仔牛って……」
そのまさかです、と多田先生が答える。
「ナナが、くだんを産みました。白く柔らかい肌をした、能面みたいな顔を持つくだんです。ハナグリ島で牛たちを診るようになってから、あんなにきれいなくだんは初めて見ました。幸次くんが、一生懸命にナナの世話をしてくれたおかげですよ。ああ、幸一くんもおはよう。君もあとで牛小屋に来なさい、あれは良いくだんだ、幸次くんがいつもナナを見てくれたおかげだ」
興奮して話している多田先生を前にし、兄さんがパジャマのままでふらふらとやってきて、寝癖だらけの長めに伸ばした髪の毛をわしわし搔き毟りながら、ふわぁと大あくびをした。
そして、僕を見るなりスリッパを脱ぎ、それを投げつけた。
「こら、幸一、やめなさい!」
「臭え、幸次きたねえんだよ、見るなよ、家に入るなよ。くだんとか、ナナとか、牛ばっかり……みんなみんな、むかつくんだよ」
「やめなさい!幸一!すいません、寝起きが悪くて……先生、ありがとうございました。幸次もよく頑張った、疲れただろう」
父さんが、何度も多田先生に向かっておじぎをした。
僕の方はちっとも、見ないで兄さんを気にするようにしながら。
母さんは、台所にいるようだ。玄関の戸を開けるとすぐに、じゅわっという音とおいしそうな、玉子焼きのにおいがしていたから。
あれは父さんと母さんと、兄さんのぶんだ。僕には関係ない。でも、悔しいけれど、いいにおいだ。
ぐう、とお腹が鳴ったので、僕は慌ててぐっと、手のひらでおさえつける。
「すいません、ウチの奴、朝飯の支度で忙しいらしくって……」
「いえ、構いませんよ。皆さん、それぞれご都合があるでしょうから」
「先生も臭ぇよ、幸次がうつったんだ、くだんがうつったんだ、くだん菌だ」
兄さんが鼻をつまんだり、わざと咳をしたり、吐く真似をしたり、壁をけったり、叩いたりしている。
機嫌が悪い時や眠い時、自分が注目されていない時、兄さんは赤ん坊のようにぐずったり、暴れたり、叫んだりして注目されようとする。
父さんがなだめて、やめるように言っても、聞いてくれない。
そのせいで、家の壁はへこんでいたり、大きな傷がついたりしている。
僕が死んだおじいちゃんからもらった、動物の図鑑も表紙がない。
大事に読んでいた、牛や馬のところは全部、兄さんがページを破いて、切り刻んで捨ててしまった。臭いから、嫌だから、なんかムカつくからとか、そんなどうしようもない理由で。
母さんは、どんなにひどいことをしても、兄さんを叱ってはくれない。
幸次が図鑑を読むなんて、生意気だからだ、お前が悪いからだと言うばかり。
家の中で、優しかったのは死んだじいちゃんだけだった。
牛が好きなじいちゃんは、ナナにすっかり気に入られた僕を、「心が優しい、とてもいい子だ」と、いつもかわいがってくれた。兄さんや、母さんに内緒でおもちゃやお菓子を買って、自分の部屋に隠してくれた。ナナの世話を僕に任せてくれたのも、じいちゃんだった。牛の飼い方も、牛がかかる病気とか、お産についてもぜんぶ教えてくれた。
幸一より、お前のほうが牛に好かれるだろう。早く一人前になれよ。
じいちゃんの言葉があったおかげで、僕はナナを大事にすることができた。
母さんは「父さんは見る目がないのよ、あんな出来が悪い子、気に入るなんて頭がおかしいんだ」と、じいちゃんがいないところで近所に言いふらしていた。自分の子どもなのにね、という声もあったようだけれど、母さんには届かなかったようだ。
そんなこと、僕にはたいしたことじゃない。
ナナは自分のお産を手伝うほど信用してくれて、産まれてくるくだんも託してくれたことのほうが、僕には大事なことだった。
「ママぁ、ママぁ、幸次のやつが来たあ、追い出してよ!ママぁ!ママぁ!ママぁ!!」
台所から、ぎゃあぎゃあと叫ぶ兄さんの声を聞いて、母さんがエプロンで手をふきながら、慌ててやってくる。玄関に立っている僕を一瞬だけ、キッと睨んだが、隣に多田先生が立っていたからすぐ、普通の顔に戻った。
「あの、多田先生……どうかしましたか?」
「おはようございます、お母さん。ナナが子供を産みましたよ」
「ナナが?でも、ナナはまだ……先生、その子牛はまさか……」
「ええ、くだんです。良いくだんです。よかったですねお母さん」
にこにこと微笑みながら言う多田先生に向かって、兄さんがもう片方のスリッパを投げつけて、「うるせえ!」と叫んだ。
スリッパは多田せんせいのぽよんと丸く出っ張ったお腹にあたって、ぽふんという音をたてて、足元に転がった。多田先生はびくともせずに「元気だねえ、幸一くんは」とにこにこしてスリッパを両手で持ち、穏やかに言った。
「うるせぇ!うるせぇ!なんだよ、なんでだよ!なんで倒れねえんだよ!」
兄さんはますます怒りだして、声が大きくなっていく。
「なんだよ、くだんくだんって、そればっかり。ママぁ、ママぁ!どうにかしてよぉ!くだんなんか嫌いだ、捨てちゃえよ!嫌いだ嫌いだ嫌いだ、大っ嫌いだ!幸次と一緒で、臭いし、キモくて、嫌いだ!ママぁ、ママぁ、くだんなんか捨ててきてよ!焼いちゃえよ!ママぁー!」
「幸一、なんてことを……!」
父さんにおさえられながら、兄さんはバタバタと手足を動かして、割り込むように言った。
母さんは、「本当に……ナナが?」と、僕と多田先生の顔を交互に見ながら訊いた。
「ええ、まるで能面のような涼やかな顔をした、きれいなくだんです。ちゃんと言葉も話しますし、受け答えもきちんとできるでしょうね」
多田先生は、父さんへの説明と同じようなことを言って、また僕の頭をこれ見よがしに優しくなでてくれた。
「幸次くんは、よくナナに付き添って、私の手伝いもちゃんとしてくれました。幸次くんとナナちゃんのことをたくさんほめてあげてください、幸次くんは本当に、お手柄ですよ」
「むかつくんだよ!黙れよ!幸次、幸次って、幸次ばっかり!こいつなんか化け物と同じくせに!幸次なんかいなくなっちゃえ!多田先生も出ていけ!帰れよ!帰れ!くだんも捨てろ!バラバラにしちゃえよ!」
「幸一、やめなさい!いい加減にしろ!すいません先生、ちょっと、失礼します」
「ママぁ!ママぁ!助けてよぉ、ママぁ!離せよ、くそ!くそ親父!だめ親父!」
兄さんは、父さんに「こっちへ来なさい」と、抱きかかえられたまま、ずるずると引きずられるように連れていかれた。
「お母さんは、どうやら幸一くんのほうが気になるんですね。どうぞ、朝の準備など続けてください。お邪魔しましたね」
「い、いえそんなこと……。あ、まあ、よくやったわね幸次、お疲れ様……」
よそよそしい感じで、母さんは僕に言うと、さっさと台所へ戻ってしまった。
「朝飯ぐらい、作ってあげてもいいと思うんだがなあ……」
部屋から兄さんが叫んだりする声と、暴れてなにかを壊している音がする。
父さんがやめなさい、と怒鳴っても続いていた。
「先生、もう戻ろう。ナナが心配だから」
「そうだね、ナナにはお別れを言わなくてはいけないね。先生も、幸次くんも」
くだんが生まれたことも、多田先生の手伝いをできたことも、僕としてはよくやったなあとは思うけれども、寂しいことのほうが大きい。
父さんや、母さん、兄さんよりも僕はナナのことが気になって仕方がなかった。早く牛小屋に戻りたいと、そればかり考えていた。
だって、くだんを産んだ雌牛はすぐに死んでしまうから。
僕は、ナナとお別れしなくてはいけないから。
あんなにそばにいて、僕が泣いたときも、なぐさめてくれた優しいナナは、もういなくなってしまうから。
くだんを産んだあと、ナナは口からたくさん血を吐いて、冷たい汗をどっと出して目をつぶり、動かなくなってしまった。自分が果たすべき役目はすべて果たした、ともいいたげに、静かに、おとなしく。
牛小屋へ戻ると、ナナはすでに冷たく、固くなっていた。
両目もぎゅっと固く閉じられていて、鼻の先に手を当ててみたけれど、かさかさに乾いていて、もう息はしていなかった。
「念のため、ナナを診させてくれないか、幸次くん」
先生がナナの前に来て、座り込み、聴診器を脇腹にあてたり、なでたりする。
その間くだんは、ぺろぺろと舌を出して、ナナの顔をなめていた。
「ごめんなさい、母様。私みたいな子供を、産んだせいで、母様が、ああ、母様が……」
くだんの声は、静かで澄んでいて、耳に心地よかった。
「母様……母様……」
黒い、細長い目からぽろぽろと涙を流し、くだんはナナの顔にすりよった。
「ナナ……ありがとう、ナナ……」
母さんに怒られたり、兄さんにいじめられたり、つねられたりすると僕はいつもナナがいる牛小屋へ逃げていた。
この家に、僕がいる場所なんかどこにもなかった。
母さんは僕のご飯だけ作ってくれないし、父さんは新聞を読んだり、煙草をふかしたりして、お腹がすいても我慢している僕のことなど見てくれない。
知らないふりをして「寄合があるのを思い出した」とか「たばこを買ってくる」なんてぼそぼ言って、外へ出てしまう。その間、僕は母さんと兄さんにばかにされたり、蹴られたり、突き飛ばされたりする。
兄さんにはしょっちゅう「お前はしょせん、悪いくだんの片割れだろうが」って、鼻をかんだティッシュを丸めて、投げられたり、叩かれたりする。
だから、まともなご飯なんか食べたことがない。
給食も、給食費を僕のぶんだけ母さんが出してくれないせいで、僕だけ食べられない。
食べようとすると、先生が「ちょっと、給食を片づけて」と当番に言って取り上げられてしまう。わけてくれる奴なんかいないし、先生がそんな感じだからみんなわざとおいしそうに、僕の前で給食を食べたり、おかわりしたりする。
だから僕はいつも図書室へいって、腹が減ったのをがまんしながら動物の本を読む。いつも読むのは決まっていて、動物の図鑑だ。牛がのっているページばかり眺めて、中身をおぼえてしまったぐらいだ。
教室だって、どこだって、僕はいつもひとりぼっちだけれど寂しくなかtった。
ナナだけが、僕の友達で、仲間だった。それでじゅうぶん、満足していた。
ナナも僕のために、りんごやにんじん、小松菜の切れ端なんかをいつも、干し草に隠してとっておいてくれた。食べかすだって、朝からなにも食べていない僕にとっては、おいしいおいしいごちそうだった。
もちろん、お腹が空いて我慢ができなくて、真夜中に冷蔵庫からパンとかヨーグルトとか、もらって食べたことがある。
兄さんにばれて、大騒ぎされて、母さんに告げ口されて、ものすごく怒られた。
お前は汚いって、たくさん蹴られて、ほうきの柄で叩かれた。
幸一だけがうちの子よ、あんたなんかおまけだって怒鳴る母さんは、怒ると僕の顔に向かってつばを吐く。兄さんもまねして、顔にかかると「当たりだー!」と大喜びする。
怒って、僕を傷つけている母さんはまるで、鬼みたいだ。
角はないけれど、真っ赤な顔で、口元がぎゅうっと吊り上がって、鬼にしか見えなかった。
青あざを作る僕を見て、兄さんはいつも、母さんの後ろに隠れてにやにやと嗤っていた。
一緒に僕を叩いたり、庭に放り出したりすることもしょっちゅうだった。
そのたびに、僕はけがをしたり、頭を打ってくらくらしたり大変だった。
牛小屋へ逃げたときだって、追いかけて、石ころを投げつけてきたぐらいだ。
学校では、気持ち悪いぐらいに大人しい。自分より強い奴がたくさんいて、叫んでも泣いても暴れても、バカにされて小突かれて、僕みたいにいじめられるから。
そんな兄さんだから、弱い者いじめが大好きだ。わがままも大好きだ。勉強もできないし、忘れ物が多いからいつも、母さんが体操服や教科書を学校まで持ってくる。
そのたびに同級生にはばかにされて、学校じゃいつも泣いて、鼻水をたらしている。
弱虫、忘れん坊、のろま。
つっつかれて、泣いて、「もう帰る!帰る!ママぁ、ママぁ!」と叫びながらごろごろと廊下に転がっている兄さんを、僕は学校で、よく見かけた。目が合って、助けてほしいという、顔をしていても知らないふりをした。
学校じゃ自分より強い奴がいくらでもいて、兄さんは大変なようだ。
お前の弟は、悪いくだんだから、お前もだめな奴だって。
だからといって、兄さんが僕を好きなだけ叩いたりしていいなんて、おかしい。
母さんは、そんな兄さんをいい子だと言う。僕は、どんなに頑張っても、ほめてくれない。むしろ、化け物扱いだ。
父さんは、いつも臆病だ。僕が牛小屋にこもっても、叩かれても、気づかなかったふりをするばかり。
あんな家より、僕は牛小屋のほうが、だんぜん好きだった。
ナナがいる牛小屋だけが、安心できる場所だったから。
ナナだけが、僕を優しく守ってくれたから。
母さんが「近所にばれたら、恥ずかしい」って、真夜中に、寝ている僕を無理やり起こして、家に連れ戻そうとすれば、ナナは大きく一声鳴いたあと、どすどすと足踏みをして、後ろ足で蹴る真似をして追い払ってくれた。
そのたびに、母さんは「なんて嫌な牛」と、干し草を拾い上げ、ナナの顔に向かって投げつける。ナナは驚きも、怖がりもせずその干し草をおいしそうに舌に巻き付けてもしゃもしゃと、食べてしまう。
僕を見る目は、「大丈夫?私がいるよ」といつも、優しく呼びかけてくれていた。
牛小屋で眠るときはいつもよりそってくれて、時々甘えたくなるのだろう、僕の頬を分厚い、長い舌でべろりと舐めることもあった。くすぐったくて、嬉しかった。
いつも、いつも僕に優しくしてくれて、考えてくれていたナナ。
そのナナがもう、動いてくれない。
目の前で冷たく、かたくなっていく。
多田先生が、ふるふると首を、左右に振った。
「幸次くんには悲しいだろうが、仕方がない。これが、ハナグリ島にいる雌牛の運命だ。ナナは本当によくやった。こんなにきれいな顔をしたくだんを産んでくれたんだから、先生と幸次くん、ふたりで送り出してあげよう」
「ナナ……」
鼻の奥がつんと痛くなり、目の前がじんわりとぼやけていった。
優しくて、柔らかくて、あたたかいナナは、もう戻ってきてくれない。
くだんも「母様、母様」と呼びながら、ぼろぼろと涙を流していた。
「幸次くん、君ならわかるだろう。お産は人間も動物も、とても大変なことなんだ。ナナのように、牡牛と合わせたこともなければ、お産をしたこともない場合は身体にはもちろん、心にも負担が大きい。それに、くだんを産んだ雌は産んだあとにすぐ死んでしまう。私はこのハナグリ島にきて、くだんを産み、死んでいった雌牛を数えきれないほど見てきた。別れはつらいが、ナナを送ってやるのも、私たちとくだんの役目だよ」
「先生、先生、私も母様を見送るわ。いいでしょう?」
くだんが、すっくと立ち上がり、多田先生を見上げて頼みはじめた。
「もちろん、君はナナの子どもなんだから」
「ああ、ありがとうございます。これからは、私が幸次くんを守らなくちゃ」
「頼もしいね、よろしく」
君もよくがんばったな、と多田先生は僕と同じようにくだんの額を優しくなでた。
「ナナは偉かった、お産の痛みも耐えて、幸次くんを信じてすべてを任せてくれたんだから」
僕は「ナナ、ありがとう」と鼻水をすすったり、涙を流したりしながら、すっかり冷たくなった、ナナの脇腹を何度もなでた。
それから先生は、病院からトラックを出してくれて、荷台へナナを積み、僕とくだんを乗せてくれると、業者のところまで連れて行ってくれた。
死んでしまった牛を回収してくれる業者は、島のいちばん日が当たらない暗い入り江の近くに灰色の、大きなビルをたてている。
そこで死んでしまった牛を引き取ってもらい、骨が粉々になるまで焼く。
粉々になった骨が、どこへ行くかは知らない。多田先生も、父さんも、教えてくれない。
だから、ナナとの思い出はなにも残らない。本当にお別れだ。
多田先生が手続きをしてくれている間、僕は車の中で、多田先生の奥さんが作ってくれたお弁当を食べた。梅干しが入った大きなおにぎりに、唐揚げと卵焼きが入っていた。僕にとっては、ものすごく素敵なごちそうだったので、あっというまに食べた。
食べるとおなかいっぱいになり、ぐっすりと眠ることができた。
くだんも、僕によりそって眠った。あたたかくて、心地よかった。
寝ている間も、くだんは「母様、母様」と寝言でナナを呼んで、切れ長の目からするすると、涙を流していた。ふわふわとやわらかな、毛布みたいなにおいをさせて。
牛小屋は、ナナを見送って、いなくなった分だけ広くなり、僕はここでナナの子どもである、くだんを育てることになる。
ハナグリ島という、くだんを産む牛を飼う、特別な島で。
本州からフェリーで二時間ほど渡った海の上にある島、「ハナグリ島」に住む人はみんな、牛小屋を持ち、雌牛を飼っている。
顔役の家だけは、種牛のゴンタがいる。ゴンタだけが雄牛だ。
島に吹いてくる潮風の影響で、雌牛はくだんを産みやすいと偉い人がどこかで発表したらしい。それで、みんながいっせいに雌牛ばかり飼うようになったそうだ。
雌牛は、ゴンタと合わせれば仔牛を産む。合わせないときは、くだんを産む。
ゴンタと合わせた雌牛は、何度か仔牛を産んだあとで、くだんを産む。。
仔牛を産んだことがない雌牛のほうが、良いくだんが産まれると言われていた。
確かに、ナナが産んだくだんはきれいな顔をしている。
他の家でくだんを見たことがあるけれど、ごつごつした浅黒い顔をしていて、てかてかと皮脂が浮いていて眉毛が濃く、髭もぼうぼうに生えていて、黄色い歯を見せてにやにやとしていた。
いいやつだったけれど、いつも臭かったし、身体も弱かったから、わずか二日で死んでしまった。
ナナが産んだくだんは、ナナと同じ栗色の毛並みをした身体に、お面みたいな顔をしている。白くて面長で、肌がつるりとして唇が赤い。
頬をなでると、もちもちと柔らかくて、しっとりとしていて、とても気持ちがいい。声は子どもみたいな、女の人みたいな、高くてよく聞こえる声で話しかけてくれる。母さんみたいに、甲高くて、鋭い声じゃない。
切れ長の目は、まるでいつも笑っているようで、多田先生は「高級な能面みたいだね」と言っていた。
能面を図鑑で調べたら、確かに、ナナの産んだくだんの顔に似ていたものがあった。小面という、女の人の顔をしたお面だ。白くて面長で、切れ長の目や、赤い小さな唇がそっくりだった。
くだんは、普通の牛みたいに長く一緒にいられるわけじゃない。
ちゃんと世話しなくちゃすぐに病気になるし、時には血を吐いたり、熱を出して産まれたその日に死んでしまったりする。
好かれた人間は、ずっと、守るようにして、生活しなくちゃいけない。家族が引き離すことなんか、絶対にできない。
それが、ハナグリ島の決まりだ。
なのに母さんは、兄さんに世話をさせようとさっそく牛小屋から、僕を追い出そうとした。
くだんが、くだんの世話をするなんて。
ああ、考えただけで縁起が悪いわ。
役目は幸一のほうが、きっと似合うはず。
かわりなさい、幸次。
ナナを送ってきた僕の帰りを待って母さんは牛小屋の前で嫌味を言い、突き飛ばし、兄さんを牛小屋へ入れようとした。
しりもちをついた僕に、母さんはふんと鼻を鳴らして、くだんの首につないでいた手綱を取り上げてしっかりと握った。
けれど、くだんは一歩も動かずじっとして、牛小屋に入ろうとはしなかった。
「ほら、入れよ、僕の言うことを聞けよ!化け物!」
尻尾を掴んで、ぐいぐい引っ張る兄さんにも、くだんは静かに「やめてください」と言って、がばっと口を開けた。
「げっ」
口の中には、ナナが産んだとは思えないような、鋭い歯がずらりと生えていた。
「離さないと、あなたの手を噛みます。お母さん、あなたの手もですよ」
母さんは、あわてて手綱を離した。
「大丈夫ですか、幸次くん。立てますか?」
優しく僕を見下ろし、くだんが声をかける。僕は「うん」と答えて、そろりそろりと立ち上がった。泥や草を、手のひらでぱんぱんとはたき落としていると、くだんは「手伝いましょう」と優しく頭をなでつけて、きれいにしてくれた。
「行きましょう、幸次くん。牛小屋はあたたかいですよ、まだ母様のぬくもりが残っていますからね」
くだんは、母さんと兄さんなど気にしないそぶりで、牛小屋へ入るように、僕によりそい、冷たくなってしまった手をやんわりとあたためてくれた。
くだんに寄り添い、また守られている人間には、たとえ家族でも手がだせない。
ましてや、ナナが産んだくだんはとても良いくだんだから、けがをさせるわけにもいかない。けがをすれば、たちまち弱ってしまう。
「どきなさい、どきなさい幸次。世話は幸一と、母さんがやってあげるから」
母さんは懲りずに、僕と寄り添ってくれたくだんを遠ざけようとする。
「やめて、やめてください」
くだんが呼びかけ、キッと母さんを睨みつけた。
「そちらの乱暴で、野蛮なお子さんが私の世話をするとなれば、いっさいの予言はいたしません。食事もいたしません。この島で、もしくだんを不注意で死なせてしまったらどうなるか……あなただって、ご存知でしょう?」
澄んだ声で、くだんが言った。兄さんが、憎々しげにくだんを睨んだ。
「行きましょう、幸次くん。私も疲れましたから」
ぐいぐいと押されるようにして、くだんが僕を牛小屋まで連れて行こうとした。
僕は無言で手綱を母さんから取り上げ、くだんを連れて、牛小屋に戻った。
澄んだ声で、ぴしっと言うくだんの気迫におされたのか、母さんも兄さんもかたまって、動けなくなっていた。
兄さんには、ナナみたいなふつうの牛はもちろん、くだんを世話することなんて絶対に、無理にきまっている。
面倒くさいこと、汚いこと、格好悪いことはみんな僕におしつけて、大人たちにいい子を演じようとして、失敗ばかりして悔しがって、壁や床を蹴ったり叩いたりして、穴を開ける。そのたびに、父さんが修理をさせられている。
僕の手柄を奪おうとしてしくじって、やけくそに家のものを壊したりして、勝手に泣いて、仰向けに寝転がって、わあわあ叫んでいたりする。
手伝いも、ナナの世話も、自分がやってみたいと思うことしかしない兄さんは、機嫌が悪いときに頼まれるとたとえ母さんでも蹴ったり、叩いたり、時には噛みついたりする。
もし、くだんにも同じことをするとしたら、とてもじゃないけれど任せられないし、任せたくない。
いいくだんを死なせてしまったとか、傷つけたということになれば、家族はみんなハナグリ島にいられなくなってしまう。
どうせ死ぬくせに、くさい、くさいと兄さんはすぐに言う。くだんは「嫌な子、顔を見れば臭いだなんて。自分だって汗臭いし、服には食べこぼしがたくさんついているくせにね」と冷ややかに、ひとりごちていた。
兄さんが言うとおり、くだんは確かに産まれてから二、三日で死んでしまう。
だからといって、僕たちがくだんを死なせてもよい、ということにはならない。
だって、ハナグリ島を豊かにしてくれるものは、くだんしかいないのだから。
ちいさい田んぼや畑じゃ、家族が食べるだけの量しかできないし、物価はどんどん高くなっていく。くだんが産まれれば、家は本土から予言を聞きに来る、偉いお客さんが払うお金でしばらくは生活に困らない。
だからこそ、世話を投げ出したり、気分によってひどいあつかいをしているとわかれば、たちまち島を追い出されるだろうし、本州に行っても噂がすぐに広がる世界になってしまったから、仕事なんかないうえに、どこでも「くだんを死なせた家」と、噂が広がって住みづらくて、後悔しか残らない。
近くに住んでいた、祐二の家がそうだった。くだんに予言をさせるだけさせて、具合が悪くなったら、庭に生き埋めにしてしまった。噂が広がって、顔役が来て、庭に埋まったくだんの死体をみつけたあと、すぐに島から追い出された。
祐二はいま、どうしているかわからない。仕事が見つからなくて、借りていた部屋も追い出されそうだから、金を貸してほしいという電話が夜中にかかってきたことがある。
父さんが断ったようだけれど、それでも諦められないらしく何度もかかってきていて、「馬鹿な家族だ、頼られても困る」とこぼしていたのを、思いだした。
くだんだって、雌牛が少なくなってきているから、産まれる数も少なくなっている。
久々に、良いくだんが産まれたと喜んでいたら、兄さんが無理やりに僕と世話をかわったせいで、なにもかもぶち壊されたなんていう結果になったら、島にもいられないし、ナナにもどう謝ったらいいか、考えるだけでつらくなる。
牛小屋の鍵をかけ、干し草の上に寝転がると、くだんがそっと側で横たわる。
母さんと兄さんは、牛小屋の壁を二、三度蹴って、「化け物」と言うと家に戻っていった。
私がいますよ、と優しい声でくだんは言った。
「片割れらしく、おとなしく、従えばいいのに。なんて生意気なのかしら、やっぱり始末すればよかったのよ」
「ママぁ、ママぁ、幸次のやつ早く追い出してよ!嫌いだ!片割れのくせに!」
外から聞こえる兄さんの言葉にひりひりと、胸が痛くなった。
片割れ。
僕にずっと、ついて回る言葉だ。
良いくだんが産まれれば、悪いくだんも産まれる。
悪いくだんは、ハナグリ島にある山が噴火したときに、避難所で生まれた。
とりあげてくれた、ハナグリ島でたった一人の助産師だったトメばあさんは腰を抜かして、寝たきりになってすぐ亡くなった。
トメばあさんが、腰を抜かした理由はひとつしかない。
母さんのお腹から出てきた双子は、ひとりが僕、ひとりが悪いくだんだったから。
悪いくだんは、双子のもうひとりとして、僕の片割れとして産まれた弟だ。
父さんとは違う相手との間に産まれた、片割れの子どもとして。
牛から生まれる「いいくだん」は、人間の顔に、牛の身体を持って産まれる。
でも、人間が産む「悪いくだん」は身体は人間の赤ん坊と変わらないけれども、顔が赤黒い、レンガのような色の毛をした牛の頭がついている。
目は血走っていて、鋭い牙が生えていると、話ではきいたことがある。
育てようとすれば、悪いことが起きると言われている。
だから、僕と一緒に産まれた悪いくだんは、へその緒を切ってすぐ、父さんが、噴火でできた湖へ、布にくるんで投げ込んだらしい。
その時から、湖は真っ赤な水をためるようになったと、父さんが話してくれた。
もう一人である僕は、普通の赤ん坊だった。
父さんは、それだけが救いだったそうだ。
もし双子ともくだんであったなら、母さんと別れなくちゃいけないからだった。
どうしてと訊いたら「古臭いかもしれないが、島の決まりだ」と、悲しそうに答えた。
母さんも、自分のお腹に「悪いくだん」が入っていたとわかったときは、ひっそりと、誰にも言わずに始末しようと決めていた。
けれど、双子ならひとりはまともな人間かもしれないからと、そう父さんが諭し、病院で始末することを禁じた。そして、産むようにと母さんに頼んだそうだ。
父親が違っていても、幸一には弟になるんだから育ててほしいと。
母さんはしぶしぶ頷いたが、そうやって産まれた僕の世話はほとんど父さんと、じいちゃんがしてくれた。
だから僕は母さんより、じいちゃんが好きだ。父さんも、頼りないけれど母さんよりはましな気がする。
兄さんは、誰よりも嫌いだ。大嫌いだ。
青白い顔をして、ぽっちゃりしていて、いつも力づくで僕の持ち物を奪おうとしているけれど、学校ではいじめにあっていて、泣いてばかりいる。
父さんは、僕が産まれたことで兄さんが、少しでもたくましくなってくれるようにと願っていたけれど、かなわなかった。
たくましくなったのは、むしろ、僕のほうだった。
兄さんは、わがままで弱い者いじめが好きなまま、変わらない。
母さんも、僕を片割れとか、化け物と言って、叩いて、ご飯も作ってくれない。
うまくいかないことがあれば、いつも僕のせいにしてくる。
隠れて嫌がらせすることも、ふたりの得意技だ。
多田先生みたいに、僕を守ってくれる大人がいないとき、母さんは僕がいる牛小屋まで来てナナのご飯にする野菜の切れ端を踏みつけたり、泥をかけたりしながら、同じ言葉を繰り返していた。
あんたのせいで、幸一がいじめにあっても、あいつらの親に怒れないんだ。
あんたがいなかったら、幸一だって、いじめにあわなかった。
あんたも、あの片割れと一緒に、捨てればよかった。
ナナみたいな牛、可愛くないから売ったっていいんだ。大人には力があるんだよ。
そう言っている、母さんの目は、いつも、赤くてどろどろと濁っていた。
赤ん坊だったころ、兄さんが僕の右腕に鉛筆を突き刺してできた、黒い跡を母さんにぎゅっとつねられると、いつも腕じゃなくて、胸の奥が痛くなった。
思い出していた僕を、薄目を開けて、くだんが話しかけてきた。
「幸次くん、仲良くしましょう。私がいるから大丈夫ですよ、どうかよろしくね。楽しく、愉快に、過ごしましょうね」
くだんがなぐさめてくれて、僕は、じんわりと涙をためた目をぎゅっと閉じて、寝ているふりをした。
翌日、僕はまだ夜が明けきらないうちに、つまり母さんたちが寝ている間に、台所にある冷蔵庫から牛乳と砂糖、卵を出した。あと、食パンを一枚。
くだんは、食事をしないとすぐにやつれて、弱って死んでしまう。それは良いくだんも、悪いくだんも変わらない。悪いくだんはそのまま捨てられてしまうけれど、良いくだんは母牛と最も親しかった人間が心を込めて世話をして、はじめて食事もするし、甘えてもくれるし、力を見せてくれる。
兄さんみたいなわがままで、自分より弱い相手や、自分にやりかえさない相手に牛や、くだんが甘えてくれるわけがない。信用するわけがない。
牛小屋へ戻り、僕はナナに水を飲ませるときに使っていた洗面器の中へ牛乳を注ぎ、卵を割って混ぜて、食パンをひたした。
砂糖もいれて、甘くしてみる。
焼けばフレンチトーストになるし、焼かなければふやけて柔らかくなって、くだんの餌
になる。
すうすう、すやすやと眠るくだんに優しく触れて、さすりながら声をかける。
「おい、朝ごはんだよ。昨日は、なにも食ってないだろ。ちゃんと食べたほうがいいぞ」
「ああ、もう朝ですか?まだ暗いですよ」
のんきそうに、くだんは「ふわあ」とあくびをして、ぐうっと伸びをすると、きゅううっとないたお腹の音で照れ臭そうに舌を出した。
「おはよう、幸次くん。君も、昨日はお疲れ様」
「これ、食パンと牛乳と卵、砂糖をまぜたんだ。ほかに食べたいもの、ほしいものがあったらなんでも言ってよ。どうにかして、向こうへ取りに行くから」
「ありがとう、じゃあ早速いただきます。幸次くんも、どうか気を遣わずにちゃんとおあがりなさい。朝ごはん、できているんでしょう?お家で」
「僕はいいんだ、ここで一緒に食べるよ」
「でも、お母様が用意してくださるんじゃないの?」
「いいんだ、本当に」
「……そう、ですか」
なにかを察したように、くだんはそれ以上、僕に訊こうとはしなかった。
「僕はパンじゃなくて、こっち。うまそうだろ?」
腹が減ると、夜中でも母さんをたたき起こす兄さんのために、夜食で作っていたらしい握り飯がテーブルの上に置いてあった。
そいつに味噌を塗って、オーブントースターで焼いて、アルミホイルに包んで持ってきたのを見せると、くだんは「これはいい香りですね」と鼻をひくひくさせた。
「よかったら、少し食べる?」
「いいえ、幸次くんのぶんがなくなりますから。どうぞおあがりなさい。私はこちらでじゅうぶん。さあ、いただきましょう」
ぺろぺろ、くちゃくちゃとナナが使っていた洗面器に顔をつけて、くだんは柔らかくふやけた食パンを「おいしいですね」と夢中で食べた。
僕もその近くに座って、握り飯にかじりつく。冷蔵庫にあった、父さんのものらしき、麦茶のペットボトルも持ってきていた。
お腹がすいていたので、喉につまりそうになりながら、くだんの隣で、時々麦茶で流しこみながら食べた。
ハナグリ島では、くだんが生まれると、良いくだんだった場合は世話をしなくてはいけないので、学校も休んでよいということになっている。
兄さんもだけれど、僕にも友達はいない。
お金を奪われたり、水を頭からかけられたりはしないけれども、みんな、僕を避けるようにして動いている。
悪いくだんの双子なんて、最悪。
お前なんかもともと牛なんだから、雑草でも食えよ。
こいつの母ちゃん、親父より若い男と子ども作ったんだって、姉ちゃんから聞いた。
くだんの双子、くだんの双子。
はやしたてる声と、くだんがうつるって、仲間外れとひそひそ話だらけ。
先生は、面倒そうに見ているだけ。誰も僕なんか、助けてくれない。
学校なんか、行かなくたって平気だ。教科書だってないし、買ってもらえなかった。
兄さんのお古で代用したから、汚れていて、色とかが違うから、みんなは馬鹿にして「幸次の教科書、ニセモノじゃん」とか笑われ、捨てられた。母さんは買ってくれなかったし、父さんは後ろを向いて「畑仕事がある」と出て行った。
畑なんか小さいやつしかないし、夕方だったのに。
「幸次くん、学校は?時間は平気なんですか?」
すっかり食べ終わり、口の周りをペロペロとなめて、くだんが訊いた。
「そうだ、言うのを忘れてた。くだんの世話をするから僕はしばらく、学校に行かなくてもいいんだ。この島では、そう決まっているんだよ」
「本当ですか?でも、お勉強とか大丈夫なの?」
「うん、いいんだ。僕は……僕は、そのほうが気楽だから」
「そうですか、幸次くんがそう言うなら……。じゃあ、しばらくはお世話になります。よろしく」
「うん、よろしく」
くだんは、ぺこり、と頭をさげて「おいしくいただきました」とからっぽになった洗面器を、前足でつついた。おかわりを作ろうか、と訊くと「もうじゅうぶんですよ、ありがとう」と断られた。
僕も、お腹がいっぱいになって干し草の上に寝転がった。
くだんの名前は、ナナの子どもだから「ナナコ」とつけた。
ナナコは朝になると、僕の顔をなめて起こしてくれる。おはよう、朝ですよときれいな声で呼びかけてくれる。
勝手に布団をはぎ取られ、投げ出されるようにして起こされて、腹をすかしたまま学校に行く家での毎日より、牛小屋での時間はあたたかい。
それに、ナナコは普通の仔牛とは違う。くだんだ。
少しでも、僕が手抜きすればたちまち身体を悪くして、死んでしまう。母親であるナナはもういないから、僕はナナのかわりもしなくてはいけない。大忙しだ。
できるだけ、長く生きてほしい。
ハナグリ島のためにも、僕のためにも。
そう思って、僕はいつも、ナナコと一緒にいるようにした。
くだんを見かけると、または近くまで来ると、ハナグリ島にいる牛たちは暴れ出して、低い声を出したり、牛小屋に体当たりしたりする。
自分たちに似ているけれど、違う生き物だからと警戒し、ひどく嫌う。
だから、ナナコが動ける場所は牛小屋の中と、そのまわりを行ったり来たりするだけだ。
兄さんが来ると、僕は牛小屋に隠してしまう。見せろ、俺が世話してやる、ママも許してくれたと、牛小屋の壁に石をぶつけたり、蹴ったりするので、ナナコを抱きながらじっとして、何も言わずにがまんした。
父さんがやってきて、兄さんを連れて行くのを待ちながら。
良いくだんであるナナコは、生まれたらすぐに島の役所に届けを出さなきゃいけない。
多田先生に手伝ってもらって、届を出した二日後ぐらいから、黒くて大きな車が、本州から来るフェリーに乗って、ぞろぞろと家にやってきた。
「君がくだんを世話しているんだね、子どもなのに立派なもんだ、これはおみやげだよ」
偉い人は、みんなスーツに長靴を履いていて、丸い金色をしたバッジをつけていた。先生、先生と呼ばれて島では歓迎されるその人たちは、いつも目つきが悪い、背の高い男の人に囲まれてやってくる。
僕はお菓子をもらって、おなかがすいたら、それを食べる。
お金は、母さんのほうにいく。
偉い人の前では「いい母親」を演じている母さんが、「これは少ないけれど」と言われて渡される、分厚い、細長い包みを受け取り、にやにやしている。
「じゃあ、くだんに会わせてくれるかな」
「牛小屋にいます、質問は一回までだから、守ってくださいね」
包みからお金を出して、数えながら、母さんはさっさと家に戻る。
僕は、偉い人をナナコのいる牛小屋まで案内する。
牛小屋で、ナナコと偉い人はちょっと話して、偉い人だけが外に出る。そして急いで車に乗り、本州に戻るフェリーで帰っていく。
多田先生と決めて、ナナコには長く生きてほしいから、会いにくる人はどんなに偉くても、二人までにしてもらった。
それを聞いた母さんが「もっと金がもらえるはず、人数を増やせ」と反対したけれど、多田先生と相談したと言ったら、悔しそうに黙ってしまった。
じゃあ、幸一が世話をしているということにしろと懲りずに何度もしつこく、兄さんと二人でおどすように命令されたが、それはもっとできない。
ハナグリ島の決まりで、偉い人をいいくだんに会わせたり、約束をしたりするのは、牛小屋で世話をする人間と決まっている。つまり、今回は僕だ。僕以外がすると、くだんが弱ってしまうんだと、ハナグリ島では信じられている。
「幸一が取り上げていたら、本州でいい学校に通わせる足がかりになったのに。あんたって、本当に気が利かないんだから。みすぼらしくて、偉い人に会わせるのも恥ずかしい」
なんて、母さんが僕を見るたびに言う。
兄さんは、母さんがくれた小遣いをぜんぶ、同じ学年のいじめっ子に取り上げられて、僕の分もよこせとやってくる。
偉い人が来てからは、優しい兄さんを演じているけれど、普段は汚いとか、臭いとか石を投げたり蹴ったりして、正反対だ。
くだんを学校に連れて行くんだって、ナナコを無理やり引っ張り出したときだって、ナナコに噛まれて、驚いて、しりもちをついておしっこをもらして、大泣きしたじゃないか。
暴れて、手足をばたばたさせて、化け物だとか、お前なんか嫌いだなんて叫んで、どっちが動物なんだかわからない。呆れたナナコが笑うと、ますます泣いた。
ナナコも、様子を見に来た兄さんと、母さんの前では黙っている。
兄さんが有名な私立の高校に行けるかどうか、国立の大学に進んで、官僚になれるかどうか、兄さんが、兄さんが、兄さんがばかりな母さんに「欲深いんですね」とひとこと返し、切れ長の目をますます、細くして、黙っている。
「母さん、ナナコは今日疲れているみたいだから」
いつも、僕が母さんを追い出す。
「けちくさい、誰に産んでもらって、育ててもらったと思っているんだ、片割れが」
母さんの言葉はだんだんと汚くなり、ナナコは僕によりそって、じっと、母さんを切れ長の黒い瞳で睨むようになった。
「化け物が、力さえなけりゃとっくに、首を斬りおとして、山に住む野犬の餌にでもしてやれるのに」
ナナコは蹴られながらも、じっと、母さんを睨んでいた。
「なんだいその目は、どうせ長く生きられないくせに。ふん、あんたの父親が誰かってことだって、知っているんだろう?幸次に訊かれたくなきゃ、あたしの言う通りにしたほうが、ナナコ、あんたのためだからね」
脅されるように、母さんに言われても、ナナコは動じずにゆっくりとした口調で答える。「知っていますよ。でも、あなたがどうしてくだんを産んだか、幸次くんを産んだかも私はきちんとわかっています。お互いに、ばらされたくはないでしょう、お母さま」
母さんが、ぐっとひるんだ。
「幸次くん、私は、この人たちが嫌いです。それにあなたは、偉い方からお金さえもらえたら満足なのでしょう?私たちのことはどうぞ、勝手にさせてください。ああそれから、身の丈を考えたほうが、よろしいかと思いますよ」
母さんのお尻をぐいぐいと押しながら、ナナコは牛小屋から追い出した。
足元に、痰が吐かれた。
ナナコの父親が、ゴンタでないことは確かだ。
牡牛にあわせたことがない雌牛が産む仔牛は、くだんになる。
じゃあ、母さんが言っていた「ナナコの父親」とはいったい、なんなんだろう。
なかなか眠れず、僕は牛小屋の隅にそっと座って、小さい窓から星を眺めた。
ナナがいたときも、学校でいじめられ、母さんや兄さんに怒られてさんざんだった夜はいつも、こうして過ごした。
濃い紺色みたいな、藍色みたいな空がちかちか、きらきらしているのを見上げて、ナナの背中に寄りかかって、寝息を聞きながらぼんやりすると、色々なことがどうでもよくなり、学校も同級生も、家族も僕も、本当はとっても弱くて、ちっぽけで、小さいんじゃないかな、なんて、ちょっと生意気なことを考えてみたりした。
多田先生に話したとき、「君はまだ小さいのに、物事を広くきちんと見ているね」と感心していた。嬉しかった。ほめられたことなんて、数えるほどしかない。母さんはあらさがしをして、父さんはそそくさと逃げて、兄さんは告げ口、学校はみんなが僕をじろじろ見て、なにかすれば「幸次がまた変なことをしている」と、先生を呼びにいく。
来てくれないほうが、教室のためにも、平和なんだけどね。
だから、なるべく、くだんを長生きさせてくれよ。
ナナコの世話でしばらく、学校へ行かれないと話した僕に対して、担任の先生は嬉しそうにそう言っていた。早退してもよいとすすめられたので、本当に帰った。
くだんが産まれたからって、幸次の奴はずるい。
あいつの兄ちゃん、まともに九九もできないんだって。なのに、私立の学校に行かせたいって、母ちゃんがはりきってるらしいよ。
母ちゃんだって、本当は、ハナグリ島から追い出されるはずだったんだ。
そうだ、幸次のせいだ。
幸次が産まれたからだ、悪いくだんを、産むようなことしたからだ。
牛の子、牛の子、くだんの子。
はやしたてる奴らの顔は、にたにたして、同じ顔がたくさん並んでいるように見えた。
僕は別に、なんでもいいやと思った。ナナコがいる間は教科書に落書きされたり、消しごむのかすを投げられたり、上履きが牛糞まみれになることもない。
ナナコの側にさえいれば、偉い人がお菓子や食べ物や、果物をくれる。
気前のいい人だと、洋服だってプレゼントしてくれる。ちゃんと、きれいな箱に入っていて、高そうなきちんとした服だ。
サイズが違うから、兄さんは着られない。母さんは「偉い人って、意外と気が利かないのね。金は貰えるからいいけれど、もうすこし、値段を高くしたっていいんじゃないの?」とお札ばかり数えて、家のことはしなくなった。かわりに、役場から帰ってきた父さんがいろいろやって、母さんに内緒で食事を届けてきてくれる。
兄さんは「幸次の奴が、残飯食ってる」なんて言いながら、フライドチキン片手に見に来る。
どんどん太っていく兄さんは、ナナコを脂っこい手でなでようとするので、いつも逃げられる。
私がいなくなったら、幸次くんは、どうなるのかしら。
目をふせて、悲しそうに、ナナコはそう言うようになった。
検診にと、ほぼ毎日、多田先生はナナコの様子を見にやってくる。
他の家で飼っている牛を診たあとだから、ナナコは「いろんな牛のにおいがするわ、今日はゴンタですね、とても強そう」と鼻をひくひくさせる。
「大当たりだ、今日はゴンタの診察に行ったよ。大きな身体をしているのに、予防注射が苦手でね。大変だったんだ」
「先生、いつもお忙しいなか、来てくださってありがとうございます」
ぺこり、と頭を下げたナナコを見て、多田先生は「どういたしまして」と恥ずかしそうに答えると、「ここまで元気にすごしているくだんは、見たことがないよ。幸次くんはすごいね」とまた僕を褒めてくれた。
「先生、あなたはきっと本土に帰れますよ。幸次くんはいい助手になりますね」
「ははは、そいつは予言のつもりかい?幸次くんが助手なら、僕も大助かりだよ。真面目だし、生き物の気持ちがわかる子だ」
「私もそう思いますよ、この家で信じられるのは、幸次くんだけです」
「人の口に戸は立てられぬ、と言うが本当だね」
実は、と多田先生が暗い顔をして僕を見た。
「予防接種で、ゴンタのところへ行ったんだが、色々な噂を耳にしてしまってね。幸次くんのお母さんは、ナナコと幸次は金になるから、もっと仕事を受けてほしいとか、幸一くんと仲良くしてほしいからと、同級生のお母さんにお金を渡したり、ナナコがいなくなったら幸次は用済みだから、引き取る場所を探している、どこかないかと話して回っているそうだ。今はナナコが生きていて、偉い人がひっきりなしにここに来てくれるからいいけれど、幸次くん、きみはどうしたい?この島にいたいかい?それとも、外に出るかい?」
「……わかんないよ、先生」
「そうですよ、多田先生。今は私の世話や偉いお客様のご案内で幸次くんはとても忙しいんです、すぐに答えが出るような話ではありません」
確かにね、と多田先生はため息まじりに言う。
「幸次くんと、ナナコのことを見ていて、君たちはこのままハナグリ島にいてもよいのかどうか、と考えてしまうんだ。お金はぜんぶお母さんが持って行ってしまうし、学校でも孤立しているうえに、幸一くんはまるで赤ん坊のようだし頼りない。お父さんは、厳しく雷を落とすようなタイプでもない。これでは、幸次くんに嫌なしわ寄せが全部、やってくるような気がしてね」
「私は、どちらでも構いません。幸次くんと一緒なら、きっとどこでだって、大丈夫です。でも、幸次くんが遺される時がくると思うと、それが心配でなりません。幸次くんは、母様のお腹にいたときから、とても優しい男の子だとわかっていましたから。片割れだなんて馬鹿にする方は、みんな噛みついてやりたいぐらいです」
「頼もしいね、ナナコは。幸次くんを信じているんだ。幸次くん、くだんとここまで信頼関係を作り出した人間は、非常に稀だよ。いいコンビじゃないか。金づるとしてではなく、相棒として、仲間としてナナコに接している。当たり前なことかもしれないけれど、金が絡むと人間は変わってしまう。幸次くんは、なかなかできないことをしているんだ。立派だよ。本当に、本当に立派だ」
ナナコと、多田先生が交互に褒めるので、僕は照れ臭くなってしまった。
多田先生が言うには、ナナコは極めて健康で、今までハナグリ島でうまれた良いくだんは、みな身体が弱く、生まれて二、三日ですぐに弱って食べ物をうけつけなくなり、足腰が立たなくなってしまうけれど、ナナコは丈夫でよく動くから、長生きできるかもしれないとのことだった。
食パンとたまご、砂糖に牛乳を合わせたものだけでここまで元気でいられるナナコは、もともと丈夫なのかもしれない。
だって、ナナは朝早くから夜遅くまで、どんなに大変な畑仕事や、力仕事でも手伝ってくれた。嫌がって、牛小屋から出たくないからとうずくまったり、不満があるからと後ろ足で家族を蹴ったりもしなかった。
「顔色も、毛の艶もいいね。健康そのものだ」
「まあ先生、ありがとうございます。幸次くんは、朝と夜、お客様からいただいたお菓子や果物、あとはお父様が持ってきてくださる残り物を食べているんです。私と半分ずつ、いっしょにいただくんですよ。今は幸い、母様といたときよりも、いくぶん良いとは思いますが私がいなくなったら、幸次くんはまた……」
ナナコがふと、悲し気に睫毛を伏せた。
「だめだよ、ナナコ。そんなこと考えないでよ、僕は僕で、どうにかするからさ」
失礼、と聴診器をナナコの身体にあてながら、多田先生が問いかける。
「それは、君がいずれ、いなくなるということを予言しているのかな?」
「先生もご存知なとおり、私みたいな生き物は、長く生きるといっても限りがあります。私もきっと、元気な姿を、お客様に見せられるのもあと一週間ぐらいでしょう。それまでに、どうか、幸次くんを、この家から出してあげてくださいませんか?」
「ナナコ、何言ってんだよ!」
胸がぎゅうっと苦しくなって、僕は思わず、声を荒らげる。
「それも、ナナコの予言ということかい?」
多田先生は、ナナコに問い詰めようとしたが、ナナコは寝たふりをして答えてくれはしなかった。僕は、なんだか息苦しくなって、ナナコの頭をずっとなでていた。やわらかくて、あたたかい毛は、母牛であるナナと、本当にそっくりだった。
本土に集中豪雨が降り、大きな被害が出ること、スポーツの大きな大会で、優勝する選手がたくさん出ること、夏が今までにない暑さのため病気にかかる人が増えたから、外出時間に規制が出てしまうこと、それから偉い人たちどうしが喧嘩して、辞めてしまう人が出ること、その他いろいろな、ナナコが予言したことが次々と現実のものになって、やがてナナコが産まれて、一か月になった。
ナナコをたずねてハナグリ島にやってくる偉い人はだんだんと増え、母さんに渡されるお金も多くなり、僕がもらえる服や靴、いろんな学用品みたいなものも、いいものになっていった。
兄さんのぶんも用意してくれている人がいるが、兄さんは、ほとんど牛小屋に寄り付かなくなった。
だから、偉い人たちが帰ったあと、玄関前に僕はそっと、兄さんのぶんを置いた。
母さんが派手な服を着て、本土にいくフェリーの最終便に乗って、朝方に帰ってくる姿を見たと、噂になってからは兄さんは学校にも行かなくなって、部屋でごろごろして、母さんが買ってくれたゲームばかりしているようになったからだ。
いったい、どこへ出かけたか、大人たちはひそひそ噂をしているようだけれど、多田先生に訊いても「幸次くんは、気にしないでナナコと一緒に過ごしなさい」と答えられてしまい、わからないまま、僕だけ取り残された。
兄さんにぶたれたり、蹴られたりすることが少なくなったことは嬉しかった。
一度、様子を見に行ったとき、兄さんは僕が知っていた時よりも、なんだか生白くて、ぶくぶくに太っていた。目が合っても、くるりと背中を向けて、大きなおならをひとつするぐらい。出ていけとか、臭いとか、怒鳴ったりしない。静かで、のろのろしている。
母さんは、兄さんを本州にある有名で、お金がかかる私立の中学校へ行かせたいようだ。机の上に、いろんな問題集が積まれている。
「兄さん、読まないの?」
「……別に、俺には必要ないし」
「どうして?」
「うるせえな」
がん、と寝ころんだまま、兄さんが壁を蹴る。
問題集をぱらぱらとめくってみたら、なんだかおもしろそうだったから、兄さんが背中を向けていて、ばれないうちに牛小屋へ持って行ってしまった。
ナナコと多田先生に教えてもらって、問題を解いた。ナナコは物知りで、わかりやすく教えてくれた。
牛小屋のなかだけは、外とちがって、ゆっくりとした時間が流れた。
家から、たまに父さんと母さんの言い合いが聞こえてくるようになっても、ナナコだけは変わらず、僕に優しかった。
噂が広まってから、父さんと母さんが大声で怒鳴り合う声は、毎晩続いた。
「遊ぶためなんかじゃないわよ、あたしは、幸一のために、夜じゃないと話を聞いていただけないから、偉い人へ会いにいっただけよ!」
「だったら、俺も一緒に行く。幸一を世話してくれる相手なら、父親だって、会う権利があるはずだ」
「馬鹿じゃないの?あんたみたいな役場勤めなんか、恥ずかしくて、会わせたくなんかないわ。それとも、あたしを疑っているの?」
「噂になるということは、疑わないわけに、いかないってことだろ?お前はどうかしている、あれは、幸次がナナコを世話して、予言の報酬にもらった金じゃないか。どうして、お前や幸一が無駄使いするんだ?」
「いいじゃない、あの子のせいであたしと幸一は苦労したんだ。幸一だって、ナナコのところに来たお偉いさんに、中学に通わせてくれる約束とりつけたんだから、あたしが幸一のためにしたことなんか、知らないくせに!」
「お前……母親として、自分がしたことで幸一がどんな気持ちか、わかっているのか?」
「いいのよ、幸一はいい学校に通わせて、あたしはその付き添いで向こうに行くんだから、どんな噂が出たって、構うもんですか。ねえ、それよりナナコにもっと客を取るように、父さんから言ってよ。あたしだときかないのよ、ねえ」
「客を取るなんて、はしたない言葉使って、お前は自分の立場を忘れたのか?幸次の父親が誰かも、俺はみんな知っているんだ!知っていて、育てようと決めて、別れずにいようとしたのに、なんだその言い方は!幸次の父親は……」
父さんが、僕の本当の父親らしき人の名を叫んだ。
僕もよく、知っている人だった。
ナナコも、寝たふりをしながら、耳をひくひくさせて、僕にそっと寄り添った。
寝言のつもりで「大丈夫ですよ」と囁いてくれたので、ナナコをぎゅっと抱きしめて眠った。
最近、額の両端が痛い。触れてみるとごつごつとしている。にきびでもないし、鏡を見るとそこが、ちょっとだけだけれどもとがっているのがわかる。
やっぱり、僕は片割れなんだ。
触りながら、僕と一緒に産まれたけれどすぐ死んでしまった、悪いくだんのことを考えた。
予言は、良いことも悪いことも、くだんならすべて当たる。
ハナグリ島の言い伝えは、本当だったらしい。
多田先生に、予言みたいなものを言った後から二、三日してナナコは食欲がなくなり、牛乳と卵、砂糖にひたした食パンを半分ぐらい、残すようになってしまった。
果物をあげても、一口かじるだけで、あとはふうふうと息を荒くさせ、横になり、眠っていることが多くなった。
「これでは、偉い人に会わせることはもちろん、予言なんかできない。とにかく、安静にしてもらうほかないな。幸次くんのご両親には、先生から説明しておこう」
「先生、幸次くんを、幸次くんをどうか……」
汗をかき、つらそうに薄目を開けながら、ナナコが多田先生に頼むようになってから、僕は偉い人に会わせるのをやめた。
「客なんてものは残酷だ、先日、ナナコ以外にもう一頭、くだんが産まれた。やはり、ゴンタとまだ合わせていない雌牛のお腹に宿っていた。ナナコさんよりも、はっきりした顔立ちで、よくしゃべるから偉い人は、向こうへ行くようになったよ。様子を見に来てほしいと、しょっちゅう呼び出されるようになった。そちらのくだんも、ナナコさんと同じ、きれいな白くて柔らかい顔をしていた。でも、ナナコさんのほうが美人かな?」
「先生ったら……ご冗談はやめてください。本当にごめんなさい、お忙しいのに……」
「いいんだ、ナナコさん。気にする必要はない。ゆっくり過ごして、幸次くんとの時間を大事にしたほうがいい。今まで、よく動いてくれたね」
「大丈夫です。ああ、幸次くん。私はあと数日ぐらいだと思いますが、あなたの幸せだけは保証しますよ」
「そんな予言、いらないよ。僕はナナコが元気でいてくれたら、じゅうぶんだよ」
「そうだよ、ナナコさん。今は薬を飲んで、ゆっくり休むんだ。栄養の注射を打っておくから、あとは果物とかでビタミンもとりなさい。幸次くん、頼んだよ」
大きな、がっしりした手で多田先生は、僕の頭をなでてくれた。
久しぶりだったので、とてもとても、懐かしかった。
夜に聞こえてくる、父さんと母さんの言い合いよりも、ナナコが元気になれるように、もし元気になれなくても、少しでも長く、ナナコと一緒にいるほうが僕には大事だった。
毎晩ナナコを抱きしめて、おしゃべりしながら眠った。
朝になり、僕を起こすナナコの顔を見ると、心から安心した。
多田先生が言っていた通り、ナナコのところへ偉い人が来る回数はめっきりと、少なくなっていった。
一方で、新しく産まれたくだんのほうへ、偉い人が押し寄せてきている。
苦しそうに横たわるナナコに無理を強いて、予言をさせるほど、僕はひどい奴なんかじゃない。
「幸次くんが、心配です。私はもう……」
「僕はどうにかなるから、ナナコはちゃんと食べて、薬を飲むんだ。僕は大丈夫、ちゃんとひとりでも、どうにかするよ?」
「……そうですね」
ナナコは、にっこりと微笑んだ。
「あなたは、幸次くん、あなたはハナグリ島を出ることになるでしょうから。決して、追い出されるわけではなく、必要とされて……」
そこまで言って、すうと軽く息を吐いて、ナナコは気を失うように眠り始めた。
僕は、予言なんかどうでもよくて、ナナコの胸に耳をあてて、心臓が動いているかどうか、確かめた。弱いけれども、とくん、とくとくんと、音が聞こえてほっとした。
牛小屋でずっと、ナナコと僕が寄り添うようにして過ごしていたころ、外ではちょっとした騒ぎが、母さんによって起こされていた。
元気で、はつらつな、良いくだんが産まれた家に押し掛けた偉い人たちを母さんが捕まえ、「我が家にもおりますので、ぜひこちらに」と呼び込みをして、追い出されたから腹いせに、車に傷をつけたりした。
兄さんは兄さんで、どこにそんな体力があったのか、夜中に元気なくだんの牛小屋へ忍びこんで、家まで連れて帰ろうとしたところを、多田先生に見つかって、くだんを置いて逃げ回る途中転んで足をねん挫した。ちなみに、くだんは無事だった。
父さんは母さんと、兄さんを連れてあちこちの家へ謝りに行き、役場も辞めることになった。
だけど、兄さんにはなにも通じないみたいだった。
みんなが寝静まった夜中になるとのそのそ起き上がって、こっそり出歩くようになり、うろうろと、ハナグリ島にある牛小屋をまわって歩いて、牛にいたずらをしかけるようになった。
牛なんか汚い、牛なんか臭い、大嫌いだと、大きな声で繰り返し、自分をいじめていた奴の家まで行き、牛小屋につないでいた牛に傷をつけたりした。
「やけになるといのは、母さんや、幸一みたいな者を言うんだろうね。幸次、お前にまで嫌なことばかり背負わせて、本当にすまない」
父さんがはじめて、僕に謝ったころ、ナナコはほとんど寝てばかりで、立ち上がることさえ、できなくなってきていた。
「お兄さんは、大変な秘密が、ばれることになります。そして、お母さんも」
ちらりと目を開け、ナナコが言った。
それが、ナナコの発した最後の予言だった。
兄さんが、ナナにしたことを僕が知ったのは、そのすぐあとだった。
別の牛小屋で、産まれたばかりの仔牛を起こし、兄さんが身体をぴったりとくっつけていたそうだ。
ズボンを脱いで、仔牛に覆いかぶさるように。
止められて暴れたので、駐在さんが来てくれて、父さんが迎えにいった。
いいじゃない、男の子なんだから。
ナナみたいに大きいと、うまくいかないのよ。
私も、おさえつけるのに苦労したんだから。
言い合いする声のなかで、ナナコの父親が誰なのかがわかって、両手で耳をふさいだ。
背中を丸めて、干し草の上でぎゅっとかたまる僕の額の、ごつごつしたところをナナコがそっとなめてくれた。
押し込んでいたものが、一気にあふれ出るような感じになって、僕はわあわあと、大きな声で泣いた。
大丈夫、幸次くんはきっと、助かります。
ハナグリ島を出ます、私も一緒に。
本当のお父さんが、きっと、どうにかしてくれますよ。
なだめるように、ナナコは何度も、僕に予言を繰り返してくれた。
連休が始まって、僕は真っ青な顔で、咳をするナナコを抱いて多田先生のところへ行った。
本州にある、くだんを保護する施設でナナコと暮らせるよう、多田先生が偉い人に話してくれたから、僕はもうハナグリ島にいる必要はなくなってしまったからだ。
額がじんじん、きりきりと痛む。そろそろ本当に、角が生えてくるかもしれない。
僕の片割れで、産まれてすぐに死んでしまった、牛の顔をした、悪いくだんみたいに。
健康的に生きていて、普通の人間と変わらない生活をしている、珍しいくだんとして僕は施設へ行くことになる。
そのかわり、ナナコも一緒だ。
ナナコだけおいて、ハナグリ島を出るなんてこと、僕にはできない。
僕が、多田先生を通して偉い人達に出した条件だった。
やってきた僕を見て、多田先生は「そうか、今日だったか」と言うと「まさか、ナナコの父親が……」と、悲しそうにして、僕の頭をそっと、大きな手でなでてくれた。
「わからなかった先生にも、責任はある。君は本土でしっかり、自分と向き合いながら、いろいろなことを学んで、暮らすほうがいい。大丈夫、偉い人からもらったお金は、お母さんからしっかり取り返したよ。先生が君に対してできることは、これしかない。責任をとれない大人で、本当に、申し訳ないことをした」
頭を下げて、謝る多田先生に何も答えることが、できなかった。
お母さんには、他に好きな人がいた。
僕と、悪いくだんはその人との間にできた子どもだったそうだ。
父さんは、それでも僕を自分の子どもとして接してくれた。
過ちというには、あまりにも、大きいことだったと多田先生は低い声でつぶやいた。
でも僕は多田先生が大好きだから、すごく嬉しかった。
父さんよりも、学校の先生よりも、多田先生は誰よりも、ハナグリ島のなかで信じられる大人だったから。
「ナナコは、僕が世話するより、兄さんがしたほうが幸せだったのかな」
だって、自分の「お父さん」だもの。
多田先生は「それは違うよ」と首を横に振った。
「ナナが一番信じていたのは、幸次くん、君のことだ。業者に引き取られ、本土へ運ばれる前に一応解剖して、ナナの身体をしらべたが、目立たないところにたくさんの傷がついていた。おそらく、動かさないようにお母さんと、幸一くんがつけた傷だろう。こんなことを、君のような子どもに言うことになるとは……」
「ナナコは、僕が抱いて、本土に連れて行くよ。ハナグリ島じゃ、僕もナナコもきっと、幸せになれないから」
「それは、私の予言ですよ」
ぎゅっと、抱きしめたナナコはひっそりと僕の腕の中で笑った。
元気でな。
フェリー乗り場まで、見送りに来てくれたのは多田先生だけだった。父さんは朝早くから、顔役に話があると呼ばれた。
母さんは兄さんと一緒に、駐在さんのところで取り調べを受けている。乗り場まで行く途中でも、大人たちはナナコを抱いた僕をちらちらと見ながら、ひそひそと集まって、なにか話をしていた。
「先生も、診療所を今月いっぱいで、出ていくことになった。後任にはちゃんとした、いい先生がくるだろうから、ハナグリ島も心配いらないだろう。研究所はここより広いし、ナナコに必要な設備もそろっている。心配せず、幸次くんは自分の将来を考えなさい」
がしがしと、温かい手で、多田先生は頭をなでてくれた。ナナコのこともそっと、指先でやさしく、なでてくれた。
ありがとう。
ありがとう、お父さん。
甲板の上で、僕はナナコを抱きながら、先生をじっと見つめていた。
はなぐりじまのぼくとナナコ @Aimei1012
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます