第26話
翌日、陽だまりカフェの黒板に新しいメニューのお知らせを書き出した。
『新発売・祝福のパン~あなたの心に、幸せの花を咲かせませんか?~』
その不思議な名前に、お客さんたちは興味津々だった。
「まあ、祝福のパンですって? どんなパンなの、ユイさん?」
一番に食いついてきたのは、やはりエララさんだった。
「ふふ、このパンには特別な種が入っているんです。パンを食べた後、その種をお庭に植えてみてください。皆さんの幸せな気持ちが、きっと綺麗な花を咲かせてくれますよ」
私の説明に、カフェにいたお客さんたちは「へえ、面白い!」「うちでも咲かせてみたいわ!」と目を輝かせた。
その日の「祝福のパン」は、昼過ぎにはすべて売り切れるほどの大人気となった。
パンを買ってくれた人々は、それぞれ期待に胸を膨らませながら家に帰り種を植えた。
小さな子供を持つ母親は、子供の健やかな成長を願いながら。
新婚の夫婦は、二人の新しい生活の幸せを願いながら。
年老いた夫婦は、長年連れ添った穏やかな日々に感謝しながら。
町中の人々が、それぞれのささやかな幸せを、小さな一粒の種に託したのだ。
数日後、コリコの町に優しくて美しい奇跡が起こり始めた。
最初に知らせてくれたのは、ハーフリングの三つ子たちだった。
三人は息を切らしながら、満面の笑みでカフェに駆け込んでくる。
「お姉ちゃん、大変だよ! うちの庭に、すっごく変な花が咲いたんだ!」
「変なって、どんな花なの?」
「ええとね、なんだか、笑ってるみたいな花なんだよ!」
私は三人に案内され、彼らの家の庭を見せてもらうことにした。
そこには、本当に不思議な光景が広がっていた。
プランターの中に、小さな鈴のような形をした黄色い花がたくさん咲いている。
そしてその花は、風に揺れるたびに「からん、ころん」と、まるで子供たちの笑い声のような楽しげな音を立てていた。
「まあ、可愛い……! 本当に、笑っているみたいね」
「だろー! お母さんがね、僕たちが毎日元気に笑ってくれるのが一番の幸せだって言いながら、お水をあげてたんだ!」
三つ子の母親であるハーフリングの女性が、嬉しそうに微笑んでいる。
彼女の幸せな気持ちが、こんなにも素敵な花を咲かせたのだ。
その優しい音色を聞いているだけで、こちらの心まで明るくなってくるようだった。
その知らせを皮切りに、町中から「うちにも不思議な花が咲いた!」という報告が次々と届くようになった。
ボルギンさんの鍛冶屋の工房の隅。油と鉄の匂いが染み付いた土を突き破って、一輪の花が咲いた。
その花は金属のように力強い銀色の花びらを持ち、中心は溶鉱炉の炎のように温かいオレンジ色の光を放っている。
「へっ、なんだい、こいつは。俺の魂が咲いたってことか?」
ボルギンさんはぶっきらぼうに言いながらも、その花をとても愛おしそうに見つめている。
彼が仕事の後に飲む一杯のエールを、少しだけ花におすそ分けしている姿を私はこっそり見ていた。
エララさんの花屋の店先では、楽園のように色とりどりの花が咲き乱れた。
今まで誰も見たことのない、新しい種類の花ばかりだ。
虹色のグラデーションを持つ薔薇や、蝶のような形をした蘭。
夜になると優しい香りを放つ百合。
彼女の「すべての花を愛する」という博愛の心が、多様で美しい花々を生み出したのだ。
彼女の花屋は、他の町から噂を聞きつけた人々が見に来るほどの新しい名所になった。
フェンウィック先生の書斎の窓辺に置かれた鉢植えには、古い羊皮紙のようなクリーム色をした知的な花が咲いた。
花びらには、よく見ると古代文字のような繊細な模様が浮かび上がっている。
先生はその花を眺めながらお茶を飲むのが、新しい日課になったらしい。
町の畑では、農家の人たちの「豊かな収穫への感謝」が、太陽のように大きくて丸い、ひまわりのような花をたくさん咲かせた。
その花々はいつも太陽の方を向き、にこにこと笑っているようだった。
町全体が、人々の心の形をした色とりどりの「幸せの花」で彩られていく。
通りを歩けば、家々の窓辺や庭先で、個性豊かな花々が風に揺れていた。
鈴の音が聞こえたり、甘いお菓子のような香りがしたり、ほんのりと温かい光を放っていたり。
それは、そこに住む人々のささやかで温かい幸せの形そのものだった。
人々は自分の庭に咲いた花を自慢し合い、時にはお互いの花を交換したりもした。
「うちの庭には、パンの香りがする花が咲いたのよ」
「へえ、面白いねえ。うちのは、触ると少しだけふわふわするんだ」
町は、かつてないほどの幸福感と優しい一体感に包まれていた。
私の焼いた一つのパンが、こんなにもたくさんの笑顔と美しい光景を生み出してくれたのだ。
パン職人として、これ以上の喜びはない。
ある日の夕暮れ時、私はルゥフさんと一緒に町の東にある見晴らしの丘へ登っていた。
丘の上から見下ろすコリコの町は、言葉を失うほど美しい。
家々の窓から漏れる温かい明かりと、庭先で咲き誇る幸せの花々が放つ様々な色の優しい光。
町全体が、まるで宝石箱のようにきらきらと輝いている。
夕暮れの空のオレンジ色と家々の明かり、そして花々の光が混じり合い、幻想的な風景を作り出していた。
「綺麗……。本当に、夢みたいです」
私の隣で、ルゥフさんも静かにその光景を見つめている。
彼の金色の瞳に、町の美しい光が映り込んでいた。
「お前が、この光景を作ったんだ」
彼の低い声が、夕暮れの風に乗って優しく響く。
「いいえ、私じゃありません。この町に住むみんなの、温かい心が咲かせた光です。私は、ほんの少しだけお手伝いをしただけですよ」
私がそう言って微笑むと、彼は何も言わずに私の肩を大きな腕でそっと抱き寄せてくれた。
彼の体の温もりと、森の落ち着いた匂いが私を優しく包み込む。
私たちは言葉もなく、ただ静かに眼下に広がる美しい町の光景を眺めていた。
しばらくして、ルゥフさんがぽつりと呟いた。
「俺の故郷の連中にも、この光景を見せてやりたいもんだ」
彼の声には、どこか懐かしむような響きがあった。
彼が故郷を離れてから、もうずいぶん経つ。
彼の心の中にも、きっと大切にしまっている故郷の思い出があるのだろう。
私は彼の横顔を見上げた。
「いつか、ご家族にも会ってみたいです。ルゥフさんを育てた故郷は、きっと素敵な場所なんでしょうね」
私の言葉に、彼は少し驚いた顔をして、そしてふっと優しい笑みを浮かべた。
「……ああ。いつか、な」
その数日後、町の入り口に、立派な角を持つ銀狼の一団が姿を現した。
先頭に立っていたのは、ルゥ-フさんの兄であるガルフさん。
そして、彼の隣には威厳の中に深い優しさを湛えた、一人の美しい女性の姿があった。
ルゥフさんの、母親だった。
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