第27話
町の入り口に現れた銀狼族の一団は、静かながら圧倒的な存在感を放っていた。
その中心に立つルゥフさんの母親は、シルヴァと名乗った。
彼女の毛並みはルゥフさんやガルフさんと同じ美しい銀色だが、月光を浴びた新雪のように、より一層白く輝いている。
その立ち姿は気高く、一族の長老としての威厳に満ちていた。しかし、ルゥフさんを見つめる金色の瞳は、息子を深く愛する母親そのものの優しい光を湛えている。
「ルゥフ。……息災であったか」
シルヴァさんの声は、静かで芯のある美しい声だった。
「母さん……。それに、兄さんまで。どうして、ここに」
ルゥフさんの声には、驚きと戸惑いが隠せないようだった。
「お前が戻らぬのなら、私が行くまでだ。お前がどのような場所で、どのように暮らしているのか。この目で見届けねば、安心できぬ」
シルヴァさんはそう言うと、ルゥフさんの体を隅々まで見るように鋭い瞳を動かした。そして、彼の隣に立つ私へと視線を移す。
その視線に射抜かれ、私は思わず背筋を伸ばした。
「あなたが、ユイ殿か。息子が世話になっていると聞いている」
「は、はい! はじめまして、ユイと申します。こちらこそ、ルゥフさんにはいつも助けていただいて……」
私が慌てて挨拶をすると、シルヴァさんは私の言葉を遮るように、ふん、と静かに鼻を鳴らした。
その少しばかり張り詰めた空気を和らげたのは、兄であるガルフさんの落ち着いた声だった。
「母上。まずは旅の疲れを癒やすのが先決でしょう。ユイ殿、我らを彼の言う陽だまりのカフェとやらに案内していただけるかな」
「は、はい! もちろんです!」
私はシルヴァさんたちを、陽だまりカフェへと案内した。
カフェの中に入ると、シルヴァさんは興味深そうに、しかし厳しい目で店内を見渡している。
ボルギンさんが作った頑丈な家具、エララさんが飾った美しい花、そして店内に満ちるパンの温かい香り。
彼女の目に、この場所はどう映っているのだろうか。
「皆様、どうぞこちらへ」
私は一番日当たりの良い大きなテーブルへと彼らを案内し、すぐに工房へと向かった。
ルゥフさんの大切な家族だ。最高のパンと飲み物で歓迎したい。
特に、シルヴァさんのために特別なパンを焼こうと決めた。
私はルゥフさんに、彼の故郷の森についてこっそりと尋ねる。
子供の頃に食べた懐かしい木の実や、母親がよく使っていた薬草のこと。
彼は最初少し戸惑いながらも、私の真剣な眼差しに根負けしたのか、ぽつりぽつりと故郷の思い出を語ってくれた。
北の森にだけ生える、少し酸味のある赤い実「月影ベリー」。
そして、飲むと心が落ち着くという、白い花の香りがする「静寂のハーブ」。
それを聞いて、私の頭の中にははっきりとパンのイメージが浮かび上がった。
ささやき小麦の生地に、静寂のハーブを細かく刻んで練り込む。
生地全体が、故郷の森の清らかな香りに包まれていく。
そして、甘く煮詰めた月影ベリーをフィリングとして中にたっぷりと包んだ。
パンの形は、銀狼族の誇りを象徴する美しい三日月の形に。
仕上げに、故郷の森に降る新雪をイメージして、真っ白な粉糖を優しく振りかけた。
これはただのパンじゃない。ルゥフさんの故郷への思いと、母親への感謝の気持ちを込めた特別なパンだ。
私は自分の持てるすべての生命魔法をパンに注ぎ込んだ。
焼き上げると、工房中に懐かしくて優しい故郷の森の香りが満ち溢れた。
私はそのパンを温かいハーブティーと共に、シルヴァさんたちのテーブルへと運ぶ。
「これは……?」
シルヴァさんが、三日月の形をしたパンを見て少しだけ目を見開いた。
「ルゥフさんからお聞きした、故郷の森の恵みを使って焼いてみました。月影ベリーと、静寂のハーブのパンです。お口に合うと嬉しいのですが」
私の言葉に、シルヴァさんは何も言わずにパンを手に取った。
そして、その香りを確かめるように静かに目を閉じる。
彼女の厳しい表情が、ほんの少しだけ和らいだように見えた。
彼女はパンをゆっくりと一口、口に運ぶ。
その瞬間、彼女の瞳から一筋の涙が静かに頬を伝った。
「……この味は……。あの子がまだ小さかった頃……。よく森で摘んできてくれた、あのベリーの味だ……」
その呟きは、誰に聞かせるでもなく、彼女自身の心に語りかけるようだった。
パンから伝わる故郷の懐かしい味と、私の込めた温かい心が彼女の心を優しく開いたのだ。
彼女は涙を拭うこともせず、一口、また一口とパンをゆっくりと味わっている。
その姿を、ルゥフさんとガルフさんは静かに見守っていた。
ちょうどその時、カフェのドアが開き、町の仲間たちが次々と顔を見せた。
ルゥフさんの家族が来たと聞いて、挨拶をしに来てくれたのだ。
「おお、こちらがルゥフの母御殿か! 息子さんはこの町一番の働き者ですぜ! こいつがいなけりゃ、このカフェも完成しなかったでしょうな!」
ボルギンさんが豪快に笑いながら言った。
「シルヴァ様、はじめまして。息子のルゥフさんには、いつも森の珍しい植物のことで助けていただいているんですの。とても博識で、優しい方ですわ」
エララさんも、にこやかに微笑む。
「ルゥフ殿の森の知識はこの町の宝です。そして何より、彼の誠実な人柄は誰もが認めるところですぞ」
フェンウィック先生も、穏やかに頷いた。
町の人々が口々にルゥフさんのことを褒め、彼がどれだけこの町で頼りにされ、愛されているかを自分のことのようにシルヴァさんに語ってくれた。
シルヴァさんは最初驚いたように人々を見ていたが、彼らの言葉に嘘偽りがないこと、そして息子がこんなにも温かい場所で確かな居場所を見つけていることを知り、その表情はどんどん穏やかなものへと変わっていった。
彼女は、自分の息子が種族の垣根を越えて、たくさんの人々に慕われていることを誇らしく思ったに違いない。
すべてのパンを食べ終えたシルヴァさんは、静かにカップを置くと私に向き直った。
その瞳には、もう私に対する警戒の色はない。
「ユイ殿。……素晴らしいパンだった。そして、素晴らしい仲間たちだ。息子は、良い場所を見つけたのだな」
その言葉は、彼女がルゥフの選んだ生き方を心から認めてくれた証だった。
私の胸に温かいものがこみ上げてくる。
「息子は昔から不器用で、自分の気持ちを言葉にするのが下手な子だった。そして、その強すぎる力と優しすぎる心のせいで、ずっと苦しんできた。じゃが……」
シルヴァさんは隣に座るルゥフさんの大きな手を、そっと握った。
「お前は、もう一人ではないのだな。お前の隣には、その心を理解し力を信じてくれる素晴らしい伴侶がいる。この町には、お前を家族として受け入れてくれる温かい者たちがいる」
「母さん……」
ルゥフさんが、照れたように、けれど嬉しそうに呟いた。
「ユイ殿。私の、もう一人の娘になってはくれぬか」
シルヴァさんの突然の言葉に、私だけでなくカフェにいた全員が息を飲んだ。
「え……?」
「この不器用な息子のことを、これからもどうかよろしく頼む。お前さんのような娘が息子の隣にいてくれるなら、私ももう何も心配はない」
そう言って、シルヴァさんは今まで見せたこともないくらい、優しくて美しい笑顔を私に向けてくれた。
それは、私をルゥフのパートナーとして、そして新しい家族として心から受け入れてくれた何よりの証だった。
嬉しくて、私は「はい……!」と頷くのが精一杯だった。
その夜、陽だまりカフェでは彼らの歓迎と私たちの門出を祝う、ささやかな宴が開かれた。
わだかまりが解け、ルゥフとシルヴァさん、ガルフさんは穏やかな表情で積もる話を語り合っている。
昔の思い出話に笑い合ったり、これからの未来について真剣に話したり。
その光景は、どこにでもある温かい家族の姿そのものだった。
私はそんな彼らのために、心を込めてパンを焼き料理を運んだ。
私の隣では、エララさんや町の人たちが楽しそうに宴の準備を手伝ってくれている。
シルヴァさんとガルフさんは、その後数日間コリコの町に滞在した。
彼らはルゥフに案内されてこの町の美しい風景を見て回り、町の人々と心温まる交流を深めていった。
シルヴァさんは特に私の家庭菜園に興味を持ったようだ。
彼女は私の生命編みの力が宿った不思議なハーブや野菜を手に取り、「お前の力は、本当に優しくて温かいのだな」と何度も感心していた。
そしてガルフさんは、私のパンとこの町の豊かな農産物にすっかり魅了され、銀狼族の住む北の森とコリコの町との間で正式な交易を始めたいと提案してくれた。
北の森でしか採れない貴重な鉱石や薬草と、私たちの町のパンや野菜を交換する。
それは、両方の土地をさらに豊かにする素晴らしい提案だった。
別れの日の朝、シルヴァさんは私に一つの小さな包みを差し出した。
「これは、我ら銀狼族の女に代々受け継がれてきたお守りだ。月の光を宿した銀で作られておる。きっと、お前を守ってくれるだろう」
包みを開けると、中には繊細な銀細工で作られた、美しい狼の横顔の髪飾りが入っていた。
その瞳には小さな青い宝石が埋め込まれている。
「ありがとうございます……! 大切にします!」
その美しい贈り物を、私は震える手で受け取った。
シルヴァさんは私の髪に、その飾りを優しくつけてくれる。
「ルゥフ。ユイ殿を、生涯かけて守るのだぞ」
「……ああ。わかっている」
ルゥフさんの力強い返事に、シルヴァさんは満足そうに頷いた。
町の入り口で、私たちは彼らを見送った。
もう彼らの顔に心配の色はない。そこには新しい家族の絆を確かめ合った、晴れやかな笑顔だけがあった。
遠ざかっていく彼らの背中に、私たちはいつまでも手を振り続けた。
隣に立つルゥフさんの手が、私の手を優しく、そして力強く握りしめる。
その温もりを感じていると、町の広場の方から何やら騒がしい声が聞こえてきた。
何事だろうかと目を向けると、一人の見慣れない身なりの商人が大きな荷車を引いて人々に囲まれている。
その荷車には、見たこともないきらびやかな布や香辛料が山のように積まれていた。
どうやら遠い東の国から来た、珍しい品を扱う行商人らしい。
町の人々は初めて見る品々に、興味津々で集まっていた。
その賑やかな光景に、私も自然と心が弾む。
新しい出会いは、いつも新しいパンのアイデアを運んできてくれるからだ。
ルゥフさんと顔を見合わせ、私たちは微笑みながらその人だかりの方へと歩き始めた。
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