第25話
一年記念の特別な夜から数日後。
コリコの町には、すっかり夏の陽気が訪れていた。
陽だまりパン工房とカフェは相変わらずたくさんの人々で賑わい、町の誰もが気軽に立ち寄れる心の拠り所のような場所になっていた。
ボルギンさんは仕事の合間にライ麦パンを買いに来ては、カフェのカウンターで常連客と談笑する。
エララさんは季節の花をカフェに飾りながら、女性客たちと楽しそうにおしゃべりに花を咲かせている。
フェンウィック先生はテラス席で静かに読書を楽しみ、ハーフリングの子供たちは工房から漂う甘い香りに誘われて毎日顔を見せてくれた。
そして私の隣には、いつもと変わらず静かに私を見守ってくれるルゥフさんがいた。
この穏やかで温かい日常こそが、私がこの世界で手に入れた何よりの宝物だった。
私の力である「生命編み」も、この一年で穏やかにそして確実に成長を続けていた。
その変化は、カフェの裏庭に作った小さな家庭菜園にはっきりと現れている。
私が何気なく植えたハーブや果物の苗が普通の何倍も元気に育ち、時には少し不思議な実をつけるようになったのだ。
「まあ、ユイさん! このミント、なんだか普通のミントと香りが違うわ! 少しだけ蜂蜜のような甘い香りがするのよ!」
エララさんが目を丸くして驚いていた。
彼女の言う通り、私の庭で育ったミントは清涼感の中にほんのりとした甘い香りを隠し持っている。
「こっちの苺も見てください! なんだか、形が……」
私が指さした先には、可愛らしいハートの形をした真っ赤な苺がたくさん実っていた。
食べた人はなんだか優しい気持ちになれる、と評判になった。
私の「生命編み」の力が、ただ生命力を活性化させるだけでなく、私の「誰かを幸せにしたい」という気持ちに応えて植物たちに少しだけ特別な性質を与えているようだった。
そんな穏やかな日々が続いていた、ある午後のこと。
その日は特に日差しが暖かく、カフェのテラス席で帳簿をつけていた私はついうとうととまどろんでしまった。
柔らかな陽だまりと遠くで聞こえる子供たちの笑い声。
心地よい眠りに誘われるように、私の意識はゆっくりと夢の中へと沈んでいった。
そしてその夢の中に、懐かしいあの方が現れたのだ。
陽だまりのような温かい光と共に、私をこの世界に導いてくれた美しい女神様だった。
『ユイさん。お久しぶりですね』
その声は春のせせらぎのように心地よく、私の心に直接響いてくる。
「女神様……!」
『ええ。あなたのこと、ずっと見守っていましたよ。この一年、本当によく頑張りましたね。あなたの焼くパンは、たくさんの人々の心を温め、この町を、そしてこの世界を少しだけ豊かにしてくれました』
女神様は心からの優しい微笑みを浮かべていた。
その笑顔を見ているだけで、私の心も温かいもので満たされていく。
『あなたの力は、もう私が最初に授けたただの生命魔法ではありません』
女神様は私の両手をそっと包み込むように触れた。
すると私の手のひらから、今までになく強く清らかな金色の光が溢れ出す。
『その力は、あなた自身の優しさと人々からの感謝の気持ちを糧にして大きく成長しました。人々の心を繋ぎ、土地そのものを豊かにする……。それはもはや魔法というよりも、「祝福」と呼ぶべき尊い力です』
祝福の力。
その言葉の持つ温かくて大きな響きに、私は少しだけ戸惑った。
私なんかに、そんな大それた力が宿っているなんて。
私の心を見透かしたかのように、女神様は優しく続けた。
『あなたは、その力を誰かを支配するためでも、何かを強制するためでもなく、ただ誰かの笑顔のために自然と使ってきました。だからこそ、あなたの力はこんなにも清らかで温かいのです』
『これからも、あなたのペースであなたらしい幸せの種をこの世界に蒔いていきなさい。難しく考える必要はありません。あなたが心を込めてパンを焼き続けること。それがこの世界にとって、何よりの祝福となるのですから』
その言葉を最後に、女神様の姿はゆっくりと光の中へと溶けていった。
後には温かい陽だまりの感覚と、心に響く優しい言葉だけが残った。
「ん……」
私はゆっくりと目を覚ました。
頬に当たる風が心地よい。
どうやらテラス席で本当に眠ってしまっていたらしい。
けれど夢の中で聞いた女神様の言葉は、はっきりと私の心に刻まれていた。
「幸せの種を、蒔く……」
その言葉が頭の中で繰り返される。
その瞬間、私の頭の中に全く新しいパンのアイデアが稲妻のようにひらめいた。
ただ美味しいだけじゃない。
食べた人が幸せな気持ちになるだけじゃない。
その幸せが、さらに新しい幸せを生み出すようなパン。
「そうだ……!」
私はいてもたってもいられなくなり、工房へと駆け込んだ。
そして夢中でパンの試作に取り掛かる。
私の新しいパン。
それは食べた人がパンの中に残された特別な「種」を、自分の庭に植えることができるパンだ。
その種には私の「祝福」の力が込められている。
種を植えた人が幸せな気持ちで水をやり、太陽の光を浴びせてあげると、その人の心に応えるように小さな可愛らしい花が咲くのだ。
花の色や形は一つとして同じものはない。
植えた人のその時の幸せな気持ちが、そのまま花の姿になる。
子供の成長を喜ぶ母親が植えれば、太陽のような明るい黄色の花が咲くかもしれない。
恋する乙女が植えれば、ハートの形をしたピンク色の花が咲くかもしれない。
パンを食べた人の幸せが目に見える形となって、また新しい幸せを周りの人々に届ける。
そんな幸せの循環を生み出すパン。
「『祝福のパン』……!」
私はそのパンにそう名付けた。
生地には私の庭で採れたハート形の苺と、甘い香りのするミントを練り込む。
そして中心には女神様の祝福を込めた、光り輝く小麦の種を一粒そっと忍ばせた。
その日の夕方、私は試作で焼き上がったばかりの「祝福のパン」を手に、カフェのテラス席で夕日を眺めていたルゥフさんの元へ向かった。
彼は私のただならぬ興奮した様子に、少し驚いたようにこちらを見ている。
「ルゥフさん、聞いてください! 私、すごいパンを思いついたんです!」
私は昼間の夢のこと、女神様の言葉のこと、そしてこの「祝福のパン」のアイデアについて夢中で彼に話した。
食べた人が自分の手で幸せを育てられるパン。
私の拙い説明を、彼はいつものように黙って真剣に聞いてくれた。
すべて話し終えると、ルゥフさんは私が差し出したパンをそっと手に取った。
そして優しい手つきでそれを二つに割り、一口ゆっくりと味わう。
「……うん。美味い」
いつもの短い感想。
けれど、その後に続いた言葉は私の心をこの上なく温かいもので満たしてくれた。
「食べた者の心に、花を咲かせるパン、か。……ユイらしい、温かいパンだな」
そう言って彼は、今まで見たこともないくらい優しく、そして愛おしそうに微笑んだ。
その笑顔だけで、私の思いはすべて彼に伝わったのだとわかった。
工房の奥から、新しいパンの甘くて優しい香りが夕暮れの風に乗って漂ってくる。
私は隣にいるルゥフさんの顔を見上げ、自然と笑みがこぼれた。
彼がその大きな手で、私の頭を優しく撫でる。
その温かさが、私のすべてだった。
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