第8話

工房の空気は、甘い香りと、それとは違う焦げ付いたような匂いが混じり合っていた。こね台の上には、何度も試作しては失敗した生地の塊が、まるで小さな墓石のように並んでいる。パンコンテストに出場すると決めてから、私の毎日はこの繰り返しだった。


テーマは「森と陽だまりの循環」。この町で過ごしてきた日々の感謝を込めるには、ぴったりのテーマだと思った。森で採れる栗や胡桃、畑で育つ小麦や果物。それらを一つにまとめ、この町の豊かさを表現したかった。


けれど、現実はそう簡単ではなかった。頭の中に広がる理想のパンと、目の前にある現実との間には、あまりにも深い溝があった。


栗をペーストにして練り込むと、生地の水分が奪われてぱさぱさになる。焼き上がったパンは、口の中の水分をすべて持っていくような食感だった。刻んで入れると、今度は発酵の妨げになって、石のように硬いパンが焼き上がった。胡桃は香ばしいけれど、その油分が生地全体のまとまりを壊してしまう。蜂蜜で甘みを加えれば、すぐに窯の中で焦げて、苦い煙が立ち上った。


「うーん……どうしてだろう」


私はため息をつきながら、また一つ、焼き上がったパンを割ってみる。見た目は悪くない。こんがりとした焼き色がついている。けれど、断面は目が詰まっていて重そうだ。香りも、私が思い描く調和の取れたものではなく、素材それぞれがバラバラに主張しているだけだった。


「ホカちゃん、こっちの火、もう少しだけ弱めてくれる?」


かまどのそばでは、小さな粘土の人形、ホカちゃんが健気に働いてくれていた。私の力ない声にこくりと頷くと、短い手足で器用に空気窓を調整してくれる。彼のおかげで、窯の温度管理は完璧だ。自動こね鉢も、力仕事はすべて引き受けてくれる。道具も、環境も、これ以上ないくらい恵まれているのに。


足りないのは、私のアイデアそのものだった。私の腕が、この素晴らしい素材たちの声を聞けていないのだ。


「ユイ」


静かな声に振り返ると、工房の入り口にルゥフさんが立っていた。いつの間に来ていたのだろう。私が試作に没頭していると、彼はいつもこうして静かに様子を見に来てくれる。その手には、私が飲むためだろう、井戸から汲みたての冷たい水が入ったカップが握られていた。


「ルゥフさん……ごめんなさい、気づかなくて」


「気にするな。……また、夜を明かすつもりか」


彼の金色の瞳が、こね台の上の失敗作の山に向けられる。その視線は責めるようではなく、ただ私の体調を心配しているのが伝わってきた。


「だって、なかなかうまくいかなくて。素材は良いものばかりなのに、私がそれを活かしきれていないの」


私は悔しさを滲ませながら、手元のレシピノートに目を落とす。そこには、びっしりと書き込まれた配合の記録と、たくさんの訂正線が引かれていた。まるで私の迷いの軌跡そのものだった。


ルゥフさんは静かに私の隣に来ると、失敗したパンの一つを手に取った。そして、それをじっと見つめた後、ぽつりと呟いた。


「栗も、胡桃も、蜂蜜も、みんな自分の味を主張している。これでは、森の中でみんながバラバラに叫んでいるのと同じだ」


「……叫んでいる?」


彼の言葉は、いつも唐突で、けれど核心をついていた。


「お前は、素材の顔ばかり見ている。栗の甘さ、胡桃の食感。だが、それだけじゃない。森は、そうやって成り立っているわけじゃない」


私は顔を上げて、彼の真剣な瞳を見つめた。彼の瞳の奥には、私が知らない森の景色が広がっているような気がした。


「森の本当の声を聞いたことがあるか?」


「森の声……?」


「そうだ。木々が風に揺れる音、獣が土を踏む音、水が流れる音。それだけじゃない。もっと奥にある、静かな声だ」


ルゥフさんはカップをカウンターに置くと、私に向き直った。その大きな体からは、森そのもののような、深く落ち着いた匂いがした。


「気分転換も必要だ。明日、俺と一緒に森の奥へ行かないか。お前がまだ知らない、森の顔を見せてやる」


彼の提案は、行き詰まっていた私にとって、乾いた大地に染み込む水のように感じられた。一人で工房にこもっていても、新しい答えは見つからないだろう。


「はい……! 行きたいです!」


翌朝、私は店の営業をエララさんに少しだけお願いして、ルゥフさんと一緒に森へ向かった。彼が用意してくれた丈夫な革のブーツを履き、水と少しのパンをリュックに詰めて。


町から続く道を外れ、獣だけが知っているような細い道を進んでいく。空を覆う木々の葉が、太陽の光を和らげ、地面には緑色の優しい光がまだらに落ちていた。鳥の声と、私たちの足音だけが静かな森に響く。


「すごい……こんなに深い場所まで来たのは初めてです」


「町の近くの森は、人が手を入れているからな。だが、ここから先は、ありのままの森だ」


ルゥフさんは、私が歩きやすいように、先に立って邪魔な枝を払い、足場の悪い場所ではそっと手を差し伸べてくれる。彼の大きな背中を追いながら、私は森の空気を深く吸い込んだ。土の匂い、湿った苔の匂い、そして名前のわからない花の甘い香りが混じり合っている。


しばらく歩くと、ひらけた場所に出た。そこには、巨大な木が横たわっていた。おそらく、前の嵐で倒れてしまったのだろう。その幹は苔むし、たくさんのキノコが生え、根元からは新しい若木が何本も芽吹いていた。


「この木は、もう死んでしまったの?」


「死んだ、というのとは少し違う。役目を終えた、と言うべきか」


ルゥフさんは倒木の幹にそっと手を触れた。


「この木は、何百年もこの森で生きて、たくさんの実をつけ、動物たちに住処を与えてきた。そして今、こうして倒れることで、自分の体を土に還し、次の世代の命を育んでいる。キノコも、若木も、小さな虫たちも、みんなこの木から養分をもらって生きているんだ」


彼の言葉に、私ははっとした。私は今まで、栗や胡桃を、ただ「材料」としてしか見ていなかった。けれど、それらはすべて、こうやって森の中で、他の命と繋がりながら生まれてきたものなのだ。


「森は、すべてが繋がって、巡っている。それが循環だ。動物たちは木の実を食べ、その種を遠くまで運ぶ。そうして、新しい森が生まれる。一つの命が終わり、それがまた新しい命の糧になる。無駄なものなんて、何一つない」


ルゥフさんは、森全体を見渡すように言った。彼の目には、深い敬意の色が浮かんでいる。


私たちはさらに森の奥へと進んだ。彼は、シカがつけたばかりの足跡を指さし、あの木の洞にはフクロウの親子が住んでいると教えてくれた。彼の知識は、本で読んだものとは違う、森と共に生きている者だけが持つ、生きた知識だった。


「あっ、見てください、ルゥフさん! すごく綺麗な花!」


私が指さした先には、岩陰でひっそりと咲く、青い小さな花があった。


「それは月光草だ。夜になると、淡く光る。薬にもなるが、それだけじゃない。この花の蜜を吸いに来る特別な蝶がいて、その蝶は、特定の木の花粉を運ぶ役割を持っているんだ」


一つの小さな花でさえ、森という大きな繋がりの中で、大切な役割を持っている。個々の素材を活かすだけじゃない。その繋がりや、背景にある物語ごと、パンで表現すること。それこそが、「森と陽だまりの循環」というテーマにふさわしいのかもしれない。


私の頭の中に、新しいパンのイメージが、少しずつ形を結び始めていた。


「もう少しだ。お前に見せたい特別な場所がある」


ルゥフさんに導かれ、私たちは小さな沢を渡り、苔むした岩々を登っていった。息が切れ始めた頃、目の前がぱっと明るく開けた。


そこは、まるで森の中にぽっかりと空いた、陽だまりの空間だった。周りを高い木々に囲まれた小さな窪地で、柔らかな太陽の光が、まるで祝福のように降り注いでいる。そして、その中心に、一本の不思議な木が生えていた。


それほど大きくはないけれど、その枝には、ルビーのように赤く輝く、小さな果実がたくさん実っていた。


「これは……?」


「森の心臓、と俺たちの一族が呼んでいる木だ。この実は、他のどんな果実よりも、生命の力が強い。そして、強い発酵の力を持っている」


ルゥフさんは、その実を一つ、そっと摘み取って私に手渡してくれた。手のひらに乗せると、ほんのりと温かい。まるで、小さな生き物が宿っているかのようだった。


「この実から酵母を起こせば、お前のパンは、きっと森の香りを一つに束ねてくれるはずだ。それぞれの素材の声を、美しい歌に変えてくれる」


これが、ルゥフさんが言っていた「森の声」を束ねる鍵。私は、その赤い実を大切に握りしめた。これがあれば、私のパンはきっと完成する。


帰り道、夕暮れの光が森をオレンジ色に染めていた。今日一日で、私は森のたくさんのことを学んだ。そして、ルゥフさんのことも、少しだけ、前よりも深く知ることができた気がした。


「ルゥフさんは、どうしてそんなに森のことをよく知っているんですか?」


私の問いに、彼は少しだけ足を止め、遠くの山々を見つめた。


「昔……まだ若かった頃、俺は自分の力をうまく制御できなかった。獣としての力が強すぎて、森の木を何本も、意図せず傷つけてしまったことがある」


彼の声には、静かな痛みが滲んでいた。


「俺は、森に育てられたのに、森を壊してしまった。それが、たまらなく悲しくて……。それ以来、俺は森の声を聞くように努めてきたんだ。何を欲しているのか、どこが痛むのか。償い、というわけじゃない。ただ、もう二度と、この大切な場所を傷つけたくないだけだ」


彼の不器用な優しさの理由が、わかった気がした。見た目の強さとは裏腹に、彼の心はとても繊細で、優しいのだ。私をこの場所に連れてきてくれたのも、パン作りに悩む私を助けたいという、彼の優しさからだった。


「ありがとうございます、ルゥフさん。今日、ここに連れてきてもらえて、本当によかったです。パンだけじゃなくて、もっと大切なことを教えてもらいました」


私が心からの感謝を伝えると、彼は少し照れたように、ふいっと顔を背けた。


「……礼を言われるようなことじゃない」


工房に戻ったのは、もう夜も更けた頃だった。私は疲れているのも忘れ、早速、ルゥフさんがくれた赤い実で酵母を起こし始めた。ガラス瓶の中で、赤い実と清らかな水が混じり合う。


私はその瓶に、そっと生命魔法を注ぎ込んだ。


(お願い。森の優しい歌を、私に聞かせて)


祈りを込めて魔法をかけると、瓶の中の水が、きらきらと金色の光を放ち始めた。やがて、ぷつ、ぷつ、と小さな泡が生まれ、生きているかのように、元気に活動を始める。


その様子を眺めていると、私の胸は期待でいっぱいになった。この酵母が育てば、私のパンはきっと、今までのものとは全く違う、新しいパンになる。森の命の循環を、そのまま閉じ込めたような、特別なパンに。


コンテストまで、あと二週間。最高のパンを、必ず焼き上げてみせる。私は静かに発酵を始めた酵母の瓶を、工房の一番温かい場所に置いた。

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