第9話

収穫祭が近づくにつれてコリコの町は日に日に活気を増していった。広場には色とりどりの旗が飾られ、夜になると提灯に明かりが灯る。まるでおとぎ話の世界のようだ。子供たちは飾り付けを手伝いながら楽しそうに歌を歌っていた。町を歩くだけで心が浮き立つような雰囲気が満ちている。


私の店「陽だまり」にも収穫祭の賑わいはしっかり届いていた。


「ユイさん、パンコンテスト頑張ってね。応援してるわ」

「あんたのパンなら優勝間違いなしだぜ。俺たちが保証する」


お客さんたちはパンを買いに来るたびに温かい励ましの言葉をかけてくれる。その期待が嬉しくもあり、少しだけプレッシャーにも感じられた。みんなの笑顔に応えられるような最高のパンを焼きたい。その思いが私の背中を押していた。


工房では新しい天然酵母が驚くほど元気に育ってくれた。森の心臓の実から生まれた酵母は工房中に甘く爽やかな香りを漂わせる。まるで森の澄んだ空気をそのまま閉じ込めたかのようだ。この酵母を使えばきっと素晴らしいパンが焼けるはずだ。


私は店の営業が終わると毎日コンテスト用のパンの試作に没頭した。テーマは「森と陽だまりの循環」。森で得たひらめきを形にするために試行錯誤を繰り返す。


ある日、市場へ材料の仕入れに行くと周りの人たちが何やら噂話をしているのが聞こえてきた。


「聞いたかい。今年のパンコンテスト、あの『石窯のドワーフ』のガンツさんも出るらしいぜ」

「本当かい。あの頑固なじいさんが。そりゃあ面白くなってきたな」


「石窯のドワーフ」。それはこの町で何代も続いている老舗のパン屋の名前だった。屈強なドワーフの職人が昔ながらの製法でどっしりとした力強いパンを焼いていると聞く。私もその噂は耳にしていた。


「陽だまりのパン屋のお嬢さんも出るんだろ。魔法のパンと伝統のパン。どっちに軍配が上がるか見ものだな」


人々の興味津々な視線を感じて私は少しだけ身が引き締まる思いがした。ガンツさん。会ったことはないけれどきっとすごい職人さんに違いない。


その数日後のことだった。店のドアベルがいつもより重々しい音を立てて鳴った。見るとそこに立っていたのは噂に聞いていた通りのいかにも頑固そうなドワーフの老人だった。白く長い髭をたくわえその腕は丸太のように太い。厳しい目が店内をぐるりと見渡している。


彼がガンツさんに違いなかった。


「……ここが魔法のパン屋か」


低く響くような声だった。私は少し緊張しながらも笑顔で挨拶する。


「はい、いらっしゃいませ」


ガンツさんは私の挨拶には答えずゆっくりと棚に並んだパンを吟味し始めた。その目はまるで値踏みをするかのように鋭い。一つ一つのパンの焼き色、形、大きさをじろじろと見ている。パンの表面だけでなくその奥にある生地の状態まで見透かしているかのようだ。店の中には緊張した空気が流れた。


やがて彼は一番素朴な「陽だまりロール」を太い指で指さした。


「これを一つ」


私は丁寧にパンを紙袋に入れると彼に手渡した。彼は代金をカウンターに無言で置くとそのままくるりと背を向け店から出て行ってしまった。結局最後まで一言も口を利かなかった。


「……なんだか怖そうな人だったね」


ちょうど店に来ていたエララさんが心配そうに言った。


「ええ……。でもパン職人としての目は本物だと思いました。私のパン、お口に合うといいんですけど」


ガンツさんが買って行ったパンのことが少しだけ気になった。


その日の午後、今度はエララさんが一人の女性を連れて店にやってきた。


「ユイさん、紹介するわ。こちらはリリアさん。この町で、お菓子や装飾パンを作っている職人さんなの。彼女もパンコンテストに出場するのよ」


紹介されたのは息をのむほど美しいエルフの女性だった。長くしなやかな手足に透き通るような白い肌。穏やかな微笑みをたたえている。


「はじめましてユイさん。あなたのお店の噂はいつもエララから聞いていました。パンの香りがお店の外まで優しく香ってきてとても素敵ですね」


リリアさんの声はまるで楽器のように心地よく響いた。


「リリアさんの作るパンは本当に芸術品なのよ。今度ユイさんも工房に遊びに行ってみたらどうかしら」


エララさんの提案で私はリリアさんの工房を見せてもらうことになった。彼女の工房は私の店からそう遠くない蔦の絡まる可愛らしい建物だった。


中に入るとそこは甘い香りに満ちた別世界だった。壁にはドライフラワーが飾られ棚には宝石のように輝く砂糖菓子や繊細なアイシングが施されたクッキーが並んでいる。


そして工房の中央には彼女がコンテストのために試作しているというパンが置かれていた。


「わあ……」


思わず声が漏れた。それはパンというよりも花の彫刻のようだった。何層にも重なった生地が薔薇の花びらのように開かれその中心には飴細工の蝶が止まっている。生地にはハーブが練り込まれているのか見た目だけでなく香りまで華やかだった。


「すごい……。食べるのがもったいないくらい綺麗です」


「ありがとう。私はパンは味だけでなく目でも楽しむものだと思っているの。物語を語りかけるようなそんなパンを作りたいんです」


リリアさんはそう言って優雅に微笑んだ。彼女のパン作りには私とは全く違う哲学がある。それを目の当たりにして私は強い感銘を受けた。


翌日、不思議な偶然が重なった。ガンツさんが再び私の店にやってきたのだ。そしてまた無言でパンを一つ買うと今度は小さな布包みをカウンターに置いていった。


「……うちのだ。食ってみろ」


それだけ言うと彼はまたさっさと店を出て行ってしまった。


包みを開けてみると中から出てきたのはずっしりと重い黒パンだった。飾り気は一切ないけれど焼き色は均一で見るからに力強い。


その日の昼、今度はリリアさんが昨日のお返しだと言って彼女のパンを届けに来てくれた。エディブルフラワーが飾られた美しいブリオッシュだった。


私の手元に二人のライバルのパンが揃った。私はルゥフさんと一緒にそのパンを食べてみることにした。彼はちょうど森から戻ってきたところだった。


まずガンツさんの黒パンから。ナイフを入れるとずっしりとした手応えがある。一口食べると口の中に小麦の力強い風味がこれでもかというほど広がった。ライ麦の酸味と穀物の香ばしさ。噛めば噛むほど深い味わいが染み出してくる。


「すごい……。これは大地の味がします。何百年もかけて培われてきたドワーフの歴史そのものみたいなパンです」


「……ああ。力強いパンだ。一本気なあの爺さんの顔が目に浮かぶ」


ルゥフさんも感心したように頷いている。このパンには魔法のような派手さはない。けれど素材と実直に向き合い続けた職人にしか出せない揺るぎない説得力があった。


次にリリアさんのブリオッシュをいただいた。こちらはふんわりと柔らかくバターと花の甘い香りが優しく鼻をくすぐる。口に入れるとしっとりとした生地がはらりと解けていく。花の香りと蜂蜜の優しい甘さがまるで夢を見ているかのような幸福感を与えてくれた。


「綺麗で美味しい……。食べる人の心をぱっと明るくしてくれるような華やかなパンですね」


「ああ。エルフらしい繊細な仕事だ。森の陽だまりで蝶と戯れているような気分になる」


二人のパンはどちらも本当に素晴らしかった。それぞれに確固たる哲学とパンへの愛情が込められているのがひしひしと伝わってくる。


それに比べて私のパンはどうだろう。ガンツさんのような力強さもリリアさんのような芸術性もない。私は一体何で勝負すればいいんだろう。一瞬、不安が胸をよぎった。


けれど二人のパンを食べた後、不思議と心は落ち着いていた。


そうだ。私は私にしか作れないパンを作ればいいんだ。


私のパンの個性は食べた人の心と体を優しく癒す「温かさ」にある。生命魔法を使って素材の持つ生命力を最大限に引き出しそれを食べる人に届けること。


森で感じたあの大きな命の循環。一つの命が次の命に繋がっていくあの温かい繋がり。それを私のパンで表現しよう。


ガンツさんのパンが「大地」でリリアさんのパンが「花」なら私のパンはその二つを優しく包み込む「陽だまり」になればいい。


「ありがとうルゥフさん。なんだか迷いが吹っ切れました」


私がそう言うと彼は黙って頷いた。彼の金色の瞳が優しく私を見守ってくれている。


私は工房へと向かった。新しく起こした酵母は最高の状態に発酵している。ガラス瓶の中で小さな泡がしきりに生まれ、まるで森の命が歌っているかのようだ。


私は大きなこね鉢に一番良いささやき小麦の小麦粉をふわりと入れた。そこに森の酵母と清らかな水を注ぎ入れる。


いよいよ本格的な試作の始まりだ。


自動こね鉢が滑らかな音を立てて動き始める。生地がまとまっていく様子を見ながら私は森で見た光景を思い浮かべていた。倒木から芽吹く若木、木の実を運ぶリス、夜に光る月光草。あの優しい循環の物語をこの生地に込めるんだ。


ルゥフさんが新しい薪をかまどの横に静かに積み上げてくれる。ホカちゃんが小さな体でかまどの温度をこまめに確認していた。完璧な環境がそこにはあった。


私はゆっくりとこね鉢の中の生地に両手をかざした。私の心臓の鼓動と森の酵母の歌が一つに重なっていくのを感じる。金色の温かい光が私の手のひらから溢れ出し生地の中へと優しく染み込んでいった。


生地はまるで生き物のように私の魔法に応えてくれる。ふっくらとそして力強く命の息吹を宿していくのがわかった。


これからこの生地がどんなパンに育っていくのか。私は期待に胸を膨らませながら一次発酵のための準備を始めた。


工房の窓から差し込む西日が小麦粉で白くなった私の作業台をオレンジ色に照らしていた。収穫祭まであと少し。


ルゥフさんは何も言わずに私の隣でクルミの殻を一つ一つ丁寧に剥き始めていた。その無言の応援が何よりも心強かった。彼が森で選んできてくれた最高のクルミは粒が大きく油分をたっぷりと含んでいる。焼けばきっと素晴らしい香りを放つだろう。


生地の発酵を待つ間、私たちは言葉を交わすこともなくただそれぞれの作業に集中していた。工房には薪がはぜる音とクルミを割る乾いた音だけが響いていた。

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