第7話
朝いちばんの窯は機嫌がよかった。火床が均一に熱を吐き、並べたバゲットの端が小さく鳴った。湯気を帯びた香りが厨房に満ち、ユイは木べらで生地の表面を軽く撫でる。指先に返ってくる弾力は、今日も安定している。陽だまりロールはふっくら、胡桃のカンパーニュは深い香り、ハーブを練り込んだ丸パンは切り込みが美しく開いた。店は順調、その事実に嘘はない。
けれど、心に薄い隙間があった。毎朝の段取りは体に刻まれている。起床、発酵確認、火の調整、一次、成形、二次、焼成、冷まし、陳列。迷いはないはずなのに、焼き上がりの湯気を吸い込むたび、知らない香りを求める気配が胸の奥で目を覚ます。新しい何かを焼きたい。その思いだけが、かすかな痛みになって残った。
「おはよう、ユイちゃん。いつものロールを六つね」
開店と同時に来る常連の老婆が微笑む。ユイは慣れた手つきで紙に包み、湯気が逃げないうちに袋へ収めた。老婆は受け取りながら、湯に溶ける砂糖のような声で言う。
「あなたのパンは日々同じで、そこがいいよ。わたしの朝も同じで、安心するもの」
「ありがとうございます」
言葉は嬉しい。けれど胸の隙間は埋まらない。次にやってきた若い夫婦は、棚をひととおり眺めてから小声で相談した。
「新作、今日はないのかな」
夫が漏らしたひと言が、針の先で触れられたように心に留まる。ユイは笑顔でおすすめを示し、焼き立てを手渡した。夫妻は満足して帰っていく。それでも、心の奥に残った棘は抜けない。
昼前、仕込みを継ぎ足しながら、ユイは生命魔法をほんの少しだけ流した。生地の呼吸が整い、たんぱくの網目が落ち着く。魔法に頼り切るのは避けている。それでも、日常の範囲で使う微かな手助けは、今日のような微調整に向いていた。指先の温度、室内の湿度、粉の吸水。ひとつひとつを確かめるたび、思考は形を持ちかけては崩れ、また丸まり直す。
「ユイさーん!」
表の戸が軽く揺れて、花屋のエララが顔を出した。両腕に抱えた秋色の花束が、店内の小麦色に映える。
「昼の束ね、届けに来たのと……もう一つ、知らせ。数週間後の収穫祭、準備が始まってるわ。広場、もう賑やか。葡萄の飾り、朝から子どもたちが手伝ってる」
「もうそんな時期か。去年は開店したばかりで、露店の列を眺めるだけで終わっちゃった」
「今年は違う。今夜、実行委員の集会があるの。出店の配置、催し、舞台の段取り。あなたも来ない? 食に関わる人は顔を出しておいたほうがいい」
ユイはエララの差し出す花束を受け取り、カウンターに置いた。橙の菊が、火の色を連想させる。胸の隙間がかすかに熱を帯びる。
「実行委員……私が行って、役に立てるかな」
「役に立てるかどうかじゃなく、関わりたいかどうかでしょ。あなた、最近ずっと考え込んでる顔してた。焼き加減は完璧。でも、目が新しい香りを探してる」
図星だった。ユイは息を吸い、湿度を測る癖のままに厨房の壁を見る。そこには毎日更新する温湿度の記録が整然と並ぶ。完璧な繰り返しが、この店を支えてきた。けれど、繰り返しの先に一歩だけ踏み出したい気配が、確かにある。
「行ってみる」
「よかった。夕刻、役場の広間。私も行くから、一緒にね」
エララは明るく笑い、花の香りを残して店を出た。戸が閉まる小さな音のあと、ユイはしばらく静かに立っていた。次の仕込み時間が背中を押す。粉を量り、塩を計り、水を合わせる。今日の生地は少しだけ水分を増やし、酵母の元気に合わせて温度を半度上げる。作業の一つ一つに理由があり、その理由の向こうに、まだ見ぬ形がぼんやりと見える。
昼過ぎ、常連の鉱夫たちが汗を拭きながら入ってきた。がっしりした手がパンを掴み、熱いまま口に運ぶ。
「ここは変わらないな。昼に温かいパンがあるのはありがたい」
「今日は塩の加減が好きだ。疲れが取れる」
言葉は嬉しい。ユイは笑って頷き、会計を済ませる。去っていく背を見送りながら、胸の隙間は別の形に変わる。誰かの日常を支える味を守ること。その重さも知っている。だからこそ、新しい挑戦を雑に扱いたくはない。繰り返しを守り、挑戦を差し込む。その両立には準備が要る。
夕方、片付けを終え、看板を裏返した。厨房に残る微かな熱気が、窯の石床から静かに抜けていく。ユイはエプロンを畳み、薄手の上着を羽織った。出かける前に、店の裏で木箱を修理しているルゥフに声をかける。
「今夜、役場で集まりがあるの。収穫祭の実行委員だって。エララが誘ってくれた」
ルゥフは金具を締める手を止め、視線を上げた。暮れかけの光が彼の横顔に斜めに差し、彫りを深くする。寡黙な瞳が、短く問う。
「行くのか」
「うん。行ってみたい。店のことに直結するかはわからないけど、今のままじゃ、少し足りない気がするから」
ルゥフは頷いた。余計な言葉はない。ただ、工具を置き、手の埃を払ってから、短く言う。
「気をつけて行ってこい。帰りが遅くなるなら、灯りを用意しておく」
その簡潔さが、ユイの背中を温めた。彼はいつも、必要なぶんだけ言葉を置く。余白を信頼してくれる。その余白の中で、自分が決める番だとわかる。
役場へ向かう道は、もう祭りの匂いがした。広場の柱には新しい布が巻かれ、若者たちが笑いながら結び目を整えている。露店の骨組みが立ち上がり、太鼓の皮を試しに叩く乾いた音が宵闇に広がる。ユイは歩調を少しだけ早めた。胸の隙間に流れ込んでくる空気が、温度を持ちはじめる。
役場の扉の前で立ち止まり、掌を一度擦り合わせる。こね台の前でしてきた仕草が、落ち着きを運ぶ。中から人の声が聞こえる。談笑、確認、紙の擦れる音。ユイは深く息を吸い、扉を押した。空白は完全には消えていない。けれど、その形が、これから変わるかもしれないという予感だけは、揺るぎなくそこにあった。
広間には人の熱気が充満していた。役場の長机を囲むように椅子が並び、パン職人、菓子屋、果樹園の主、養蜂家、肉屋、酒場の女将まで、町のあらゆる顔が集まっている。壁際には秋を象徴する飾りが置かれ、葡萄の房を模した提灯が灯り、木炭の匂いが漂っていた。
「さて、収穫祭の催しについて確認しよう」
年配の書記が声を張ると、ざわめきが静まり、紙をめくる音が重なる。出店の配置、舞台の演目、子ども向けの遊び場、すべてが順番に話し合われていく。ユイは慣れない場に緊張しつつも耳を傾け、記録用の紙に要点を書き留めた。隣に座るエララが時折肩をつつき、笑顔で励ましてくれる。
「今年は特に、人を呼び込みたい。旅人や他の町からも足を運んでもらえるようにしたいのだ」
議長役の壮年の男がそう言ったとき、場の空気が少し変わった。人々が目を見交わし、期待と競争心が入り混じった表情を浮かべる。そして、その男が声を低めて告げた。
「目玉企画は――パンコンテストだ」
瞬間、場にどよめきが走った。町にはパン屋は少ないが、家庭で焼く者も多く、誰にでも門が開かれているという。優勝者の作品は祭りの中心で大々的に振る舞われ、来年以降も「町の誇り」として紹介される。
「審査員は町長と、ギルド代表、それから観客投票も加える予定だ」
「条件は?」
誰かが問うと、議長は笑みを浮かべた。
「ただ一つ。自分が最高だと思えるパンを焼くこと。それだけだ」
その言葉に、ユイの胸が熱くなる。誰もが平等に挑戦できる舞台。町の人々の前で、自分のパンを示す場。耳の奥で、鼓動が一拍早くなった。
エララが小声で囁く。
「出たらいいのに、ユイさん。あなたのパンならきっと町の人を喜ばせられる」
「私が……?」
不安と期待が同時に膨らむ。店は順調だが、毎日同じパンを焼くだけでなく、新しい挑戦を探していたのも確かだ。偶然ではなく、必然のようにこの場が用意された気さえする。
議事が終盤に差しかかり、参加者がそれぞれ準備について話し合い始める。ユイは迷った。けれど、胸の隙間を思い出したとき、自然に立ち上がっていた。
「わ、私も……パンコンテストに出場します」
声が広間に響く。ざわめきが一瞬止み、そして温かい拍手が起こった。誰かが「楽しみだ!」と叫び、笑い声が広がる。頬が熱くなり、ユイは深く頭を下げた。
集会が終わり、広間を出ると夜風が頬を撫でた。澄んだ空気の中、胸の鼓動だけが早く鳴り響く。足取りは軽くもあり、重くもある。新しい挑戦が目の前に置かれたのだ。
帰り道、石畳を踏みながらユイは心の奥に問いかけた。
「本当にできるのか。でも、やらなきゃ」
そう呟いたとき、頭上で秋の星々が静かに瞬いた。
家に戻ると、ルゥフが裏庭で木箱を並べていた。昼間に修理していたはずの箱はすでに整然と積まれ、その上に布をかけて夜露を防いでいる。ユイの足音に気づいた彼は、ゆっくりと顔を上げた。
「遅かったな」
「実行委員の集まりが長引いて……でも、決めたの」
ユイは胸の奥に溜め込んでいた言葉を吐き出すように話した。収穫祭のこと、目玉企画のこと、そして自分が出場を宣言したこと。声が震えないよう努めながら、ひとつずつ言葉を並べた。ルゥフは黙って聞いていた。大きな体は微動だにせず、ただ瞳だけが真剣に揺れていた。
「……だから、挑戦してみたい。私にできるかはわからない。でも、やってみたい」
短い沈黙のあと、ルゥフはゆっくりと頷いた。
「お前が決めたなら、それでいい」
「応援してくれる?」
「もちろんだ」
それ以上の言葉はなかった。けれど、彼の手がユイの肩にそっと置かれた瞬間、胸の奥にあった不安は薄れていった。その大きな手の温もりは、余計な説明よりも確かだった。
翌朝から、ユイは新しい試みに取りかかった。店の定番をこなしながら、試作を重ねる。テーマは「森と陽だまりの循環」。頭に浮かんだのは、この町で過ごした季節の光景だった。森で採れる栗や胡桃、蜂蜜。畑で育つ小麦や果物。それらを一つにまとめたら、町の人々が感じている秋をパンにできるのではないか。
まずは栗を練り込んだ生地を仕込み、胡桃を砕いて混ぜ込む。けれど焼き上がりは思ったより重たく、香ばしさは出ても食感が硬すぎた。蜂蜜を加えて甘みを整えようとすると、今度は焼成時に焦げやすく、香りがくすんでしまう。繰り返すたびに失敗が重なり、紙に書き留める改良案だけが増えていく。
「もう一度……水分量を変えて」
厨房に響く独り言は、夜更けになっても止まらない。窯の火が静まり返ったあとも、ユイはこね台に向かって生地をいじり続けた。掌の中で小麦粉が呼吸を繰り返す。失敗の山を越えた先に、まだ見ぬ香りがあるはずだと信じて。
時折、ルゥフが様子を見に来る。彼は決して口を挟まない。ただ水を差し出したり、粉袋を軽々と運んでくれたりする。その静かな支えは、ユイにとって何よりの安心だった。
やがて夜明けが近づく頃、生地を寝かせる布を整えたユイは、大きく息を吐いた。窓の外には、まだ淡い光が広がり始めている。新しい一日がまた始まろうとしていた。
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