言語ウイルス

@baketsumogura

言語ウイルス


昔、世界は沈黙に満ちていた。


心と心が直接触れ合い、偽りのない感情が光のように伝わるテレパシーの世界。憎しみも愛も、恐れも喜びも、すべてが透明だった。空気は清浄で、人々の瞳には嘘がなかった。


しかし、ある朝を境に異変が始まった。


最初は遠い街角からの小さな呟き。やがて人々は口を震わせ、奇怪な音を発するようになった。「おはよう」「ありがとう」「愛してる」──意味のわからない音の連鎖。


ウイルスだった。


感染者との接触で広がり、テレパシー機能を破壊していく。感染者の記憶から、透明だった世界の記憶さえも消し去ってしまう。そして音は嘘を生んだ。笑顔の下に憎悪を隠し、「大丈夫」と囁きながら心では泣いている。


言語ウイルスによって嘘と欺瞞に侵された世界で、私だけが免疫を持っていた。


街を歩けば、人々の口から漏れる不協和音が耳を刺す。彼らの表情は歪み、目は虚ろで、まるで糸の切れた人形のようだった。時折、誰かが私を振り返り、哀れむような視線を向ける。私が心で語りかけても、もう誰も答えてくれない。


「具合はどうですか?」


白い服を着た女性が私に向かって音を発している。彼女の心を探ろうとするが、言語ウイルスに侵された彼女の脳は深い霧に覆われている。


私は「異常者」と呼ばれ、白い部屋に閉じ込められた。


「薬の時間です」


差し出された小さな錠剤を見つめる。これもウイルスかもしれない。


私は薬を飲み込んだ。そして目を閉じる。


看護師が近づき、いつものように囁く。「話してみなさい。ほら」


私は目を閉じ、心で叫ぶ。*聞こえる? ねえ、聞こえるの?


だが、喉が震え、知らない音が漏れ出す。


「…聞こえる」


看護師が微笑んだ。その瞳に映るのは、ウイルスに侵された世界の光だった。

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