第19話#《あの日見た背中、夢の中に》
前書き
大会が終わり、いつもの稽古場へ――。
ただ、あの日の記憶は色褪せない。
先輩たちの“技”よりも、“在り方”が、小猿の心に刻まれていた。
静かな季節のうつろいの中、道場に新たな風が吹き始めます。
#《あの日見た背中、夢の中に》
あの日の熱が、嘘だったかのように、日常が戻ってきた。
畳の匂い、打ち込みの音、道着の擦れる音――
すべてが変わらぬ日々の中にある。
だけど、小猿の心だけは、あの日から確かに変わっていた。
「……すげぇな、やっぱり……」
休憩中の水を飲みながら、あの時の景色を思い出す。
背負い投げ、大外刈り、受け身、礼。
けれど、小猿の中で最も鮮明なのは、勝利の瞬間でも、技の迫力でもない。
先輩たちの、静かに立ち去る後ろ姿だった。
勝っても奢らず、負けても挫けず、
道場の名が残らなくとも、精神が残っていく――
それが植木道場の“柔道”なんだと、小猿は強く思った。
だから、練習にも自然と気持ちが入った。
技の打ち込み――特に、体落とし、大腰、大外刈り。
まだまだ小さな身体では、投げるのも大変だけど、毎日千本を目標に取り組んだ。
寝技も欠かさない。
基本の“エビ”も、ただ形をなぞるのではなく、意味を考えながら、丁寧に、確かに、動かす。
*
そんなある日。
道場の隅で、3人の先輩たちが集まっているのを見かけた。
コウキ先輩、ケイゴ先輩、大地先輩――
あの大会で名を残し、全てを勝ち取った3人だ。
「卒業かぁ……」
思わず、ぽつりと呟いた小猿に、先生がふと語った。
「そうだな。あいつらは中学ではそれぞれ別の道へ進むらしいぞ」
コウキ先輩はバスケ部、ケイゴ先輩はサッカー部、そして大地先輩は野球部。
柔道部には進まないと聞いて、少し驚いた。
でも、先生はこうも言った。
「体をつくるために、柔道を選んだってことだ。今のあいつらなら、どこに行っても通用するだろうな」
余談だが、ヨーロッパのある国のサッカー選手たちは、柔道の基本動作を体幹トレーニングに取り入れているという。
道場で身につけた“柔よく剛を制す”の精神と動きが、別の競技にも活きるのだ。
そして卒業式の日、3人は柔道着ではなく、それぞれの進む道へ向けた笑顔で道場を後にした。
もう、この道場に彼らが顔を出すことはなかった。
けれど、それは決して「嫌になった」わけではない。
あの大会後の“不思議な静けさ”――
あれと同じ、“現象”だった。
まるで、存在そのものが、記憶からすっと薄れていくような……
小猿は、その意味をまだ知らない。
でも、いつか分かる日が来る。
だから今は、目の前の稽古に向き合うだけ。
背中で語ってくれた先輩たちのように。
そして――
四年生となる小猿の、新しい舞台が始まる。
後書き
「見えなくなっても、残るものがある」
先輩たちの背中から学び、夢を繋ぐ小猿の物語が、少しずつ次の章へと移ります。
精力善用、自他共栄。
今を生きる彼らの姿が、読んでくださるあなたの心にも響いていれば嬉しいです。
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