第7話『技は、心と体の奥に積もっていく』
前書き
小学二年生――
少年は新たな技「大腰」に挑みはじめる。だが、その背景にあるのは、誰にも知られぬ苦しみの日常。
家には会話のない父と、止められた水道、空腹の夜。
それでも、道場には「技」がある。
その一つひとつが、少年にとっては「生きている証」だった。
本文
一年生の頃を思い出すと、いつも胸の奥が静かに痛んだ。
家は静かだった。
いや、静かすぎた。
父は病院と家を行ったり来たりしていた。
酒で内臓を悪くし、仕事も辞め、今ではまともに会話すら交わせない。
朝起きても、父は床に寝転んでいるか、苦しそうに咳をしているか。
たまに起きていても、何かを言うことはなく、ただ遠くを見るだけだった。
水道は止められていた。
トイレの水は近くの公園の蛇口からバケツで汲んできた。
顔を洗うのも、歯を磨くのも、外で済ませる。
学校では誰にも言えなかった。
でも、給食の時間だけが“おなかいっぱい食べられる”唯一の時間だった。
⸻
家では何も食べられなかった。
だから、道場に行ったとき。
植木先生が気づかないふりをして、大人の誰かがそっと差し出してくれる、余ったパン。
あの一口が、どれほど嬉しかったか。
小猿は一言も感謝を口に出さなかった。
だが、何度も頭を下げて、それを受け取った。
「柔道をやっててよかった」
そう思えるのは、技がうまくなったからではなかった。
そこに“誰かが見ていてくれる”温かさがあったからだ。
⸻
そして、季節は変わる。
小学二年生になった春。
いつもの稽古が終わったあと、植木先生が小猿を呼び止めた。
「おまえになら、そろそろええやろ。次の技、教えたる」
その言葉に、胸が高鳴る。
「今日は“大腰”や。ええか、大外刈りとは違うで。自分の腰を使う技や。しっかり体を入れて、相手の体を浮かせるんや」
⸻
その日から、小猿の打ち込みはまた千回に戻った。
今度は「大腰」。
力の使い方も、崩し方も違う。
それでも、ひとつずつ、丁寧に打ち込んだ。
腰が入らず、倒れてしまう日もあった。
何度も、手を擦りむいた。
それでも、手を止めなかった。
大外刈りの練習は少し減った。
でも、納得のいく動きができるまで、大外刈りも合わせて打ち込んだ。
技を忘れたくなかった。
あの時間が、自分の命をつないでいる気がした。
⸻
「腰を入れんか。軸をつくらんと、相手は動かへんで」
植木先生の言葉は、いつも短い。
でも、その一言一言が、少年にとっては“生きるための言葉”だった。
心を入れろ。
体の芯から動け。
一投ごとに、おまえの全部を込めろ。
そんな声が、体の奥に響く。
⸻
少年にとって、柔道は“技術”ではなかった。
そこには、“生きていく術”が詰まっていた。
何も持たない自分でも、手で覚えられることがある。
誰にも言えないことを、体で刻むことができる。
⸻
その夜も、帰宅すると家は真っ暗だった。
水は出ず、父の寝息だけが聞こえた。
でも、小猿は泣かなかった。
握った手の中に残る“感覚”が、自分を支えてくれていた。
技は、体に。
技は、心に。
静かに、ゆっくりと、積もっていく。
後書き
極度の貧困の中でも、少年は柔道を続けている。
技を学ぶことは、生きること。
手の感覚に残るぬくもりが、心の奥の寒さを、少しだけ和らげてくれる。
次の技は「大腰」。
腰で投げる。体を入れる。そして、心をこめる。
小さな体が、また一つ、技を覚えていく。
次回もどうぞお楽しみに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます