第6話『あの一本に近づくために』
前書き
少年が柔道を始めて三年目。
いよいよ彼は「技」を学ぶ時を迎えます。
幼い体に刻み込まれる礼節と、初めての本格的な「立ち技」。
すべては、あの日テレビで見た金メダルの“あの一本”に――。
本文
そして、その日はやってきた。
春の陽射しの中、小学校の制服を身にまとい、真新しいランドセルを背負った小猿は、晴れて一年生となった。学業とともに、道場での稽古もまた新しい段階へと進む。
幼児としての「受け身」や「礼」に始まった柔道が、今度は「技」へと歩みを進めたのだ。
「小学生からは、まず“投げ技”を一つ教えることになってる」
そう語った植木先生が選んだのは、大外刈り(おおそとがり)だった。
「柔道には投げ技が全部で68本ある。だけど、うちの館では、まずこれから始めるんだ」
その技の意味も由来も知らないまま、小猿は深く頭を下げ、稽古の場に立った。
「やらせていただきます」
まだ体は小さく、他の少年たちに比べれば非力で細い。だが、小猿の目は真剣だった。その日から彼は毎日千回の打ち込みをはじめたのだ。
投げ込みではない。ただ技の形を何度も繰り返し、体に染み込ませていく地道な反復。
「最初は、まず千回やってみなさい」
植木先生のその言葉を胸に、小猿は無言で繰り返した。
一本、二本、三本……
汗が道着に染み、手のひらに赤い痕が残ろうと、小猿は止めなかった。
まだ本格的に投げることは許されない。だが彼にとっては、それでも充分だった。こうして技の世界に踏み出せたことが、何より嬉しかった。
あの金メダルの一本。テレビ越しに心を奪われた、あの美しい一本に――少しでも近づきたい。その一心だった。
⸻
植木先生は、技の「形」だけでなく「意識の置き方」も丁寧に教えた。
「両手をしっかり張って、相手の背中が“物干し竿”に吊るされていると思ってごらん」
「体を近づけて、相手を布団のように折ってかぶせるように」
「相手の重心を感じろ。崩せる位置が来るまで、焦らず、丁寧に――」
そのすべてを、小猿は小さな体で真剣に受け止めた。
打ち込みの最中でも、投げられていく仲間たちの動作や、大人たちの稽古の一挙一動まで、目を逸らさずに観察した。
——みとり稽古。
道場に来た当初から、彼は常に周囲の動きを「見て、覚えて」いた。技をかける人の足運び。受ける人の構え。崩し方、引きつけ方、すべてを目に焼きつけていた。
「打ち込みができればそれでいい。あとは、時が来るまでコツコツやればいい」
そう信じることができたのは、植木先生の教えが常に“嘘のないもの”だったからだ。
焦る必要はない。比べる必要もない。
たとえ体が小さくても、努力の積み重ねは誰にも奪えない。
毎日の稽古の中、小猿の心には確かに芽が育っていた。
「先生の言う通りにしていれば、きっとあの一本に届く」
静かな確信が、小猿の中に根を張っていく。
⸻
投げられなくてもいい。勝てなくてもいい。
今は、ひたすらに――基本を積み重ねる時なのだ。
後書き
新一年生として新たな道に踏み出した小猿。
「技」を学ぶ喜びと、「打ち込み」千本への挑戦。
たった一つの投げ技から始まる、長い柔の道。
小さな体が育む、ぶれない信念。
その目に映るのは、あの日の“あの一本”。
次回も、どうぞよろしくお願いいたします。
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