第5話『礼から始まり、礼に終わる』
前書き
小猿は、柔道を通じて“礼”の意味を学び始めます。
それは単なる所作ではなく、武士の精神、命を懸けた信頼と緊張、
そして「自他共栄」の心を持つ者としての第一歩でした。
礼儀とは、他人を敬うことであり、自分自身を見つめる鏡でもある。
貧しさの中で、それでもなお小猿がまっすぐに道を歩めたのは——
柔道という生き方に、心から向き合っていたから。
本文
■ 第一章 誰にも気づかれぬ成長
あれから、また一年が経った。
変わらぬ日々の中で、僕はただ、必死に基本を繰り返していた。
柔道着も買えず、相変わらず畳の上では、
他の子の借り道着を着ての練習。
投げ技など、まだ教えてもらえない。
相変わらず、寝技だけ。
しかも——勝てない。
だけどそれでも、僕は諦めなかった。
「負けることに意味がある」——
その言葉を、毎日思い出す。
植木先生は、言葉にはしないが、
僕の成長を信じてくれている気がした。
■ 第二章 掃除と礼から始まる一日
小学生になった。
学校という場は、僕にとって「ごはんが食べられる場所」だった。
給食がある。それだけで十分だった。
家の水は止まっていた。
父はもうまともに動かない。
学校の督促状も、クラスで僕だけに配られる。
でも、そんなことより、道場での毎日が尊かった。
道場では、最初に掃除をする。
まだ誰も来ない時間に行って、ほうきを持つ。
道場の隅々を磨くことで、心も整っていく気がした。
やがて、子どもたちが集まり、先生が現れる。
その時——
「全員、正座!」
先生の一声で空気が変わる。
整列し、正座する。
そして、
「先生に、礼!」
「神棚に、礼!」
さらに——
「黙想。目は、完全に閉じるな。うすら目で前を見ろ」
そう教わった。
なぜか?
「敵に隙を見せるな。昔の武士は、そこで命を落とす」
「正座も、右足から立つ。それは刀を抜く構えの名残だ」
そんな古の教えも、植木先生は一切妥協せず、
僕たちに伝え続けた。
それが、柔道だった。
■ 第三章 道場に流れる“自他共栄”
植木先生が、一番大切にしていた言葉。
それが——
「自他共栄」
強くなることだけが柔道ではない。
相手を敬い、共に成長する。
小さな体の僕は、力では敵わない。
でも、技を受ける姿勢、心構えは、誰より真剣だった。
試合中にふざけたら——
即座に道場の外へ、叩き出された。
それほどまでに、植木先生は“心”を重んじた。
ふざける子には、容赦なかった。
でも、一度叱ったあとは、必ずその子の目を見て言う。
「真剣にやれば、誰だって強くなれる」
——僕は、救われていた。
■ 第四章 負けることの意味
畳の上で寝技の稽古を続ける。
体格差は歴然だった。
小学一年生といっても、体は年中児。
給食しか食べていない僕に、勝てるわけがなかった。
でも、抑え込まれても、逃げ方はうまくなっていた。
小柄な体を、クネクネと動かし、
相手の体の重心をずらすことだけに集中した。
「勝たなくていい。ただ、逃げ切ってみろ」
先生の言葉を、信じた。
それでも負ける。
でも——誰も笑わない。
僕も、泣かない。
その姿に、大人の練習生たちが、
「小猿、根性あるな」と、声をかけてくれた。
僕はそれだけで嬉しかった。
■ 第五章 命を守る技と心
道場での練習は、受け身に始まり、受け身に終わる。
前回り受け身、後ろ受け身、横受け身。
畳に打ちつける音は、自分の命を守る証だ。
「前転は受け身の基本や」
「エビと逆エビは、寝技の命や」
「亀になったら、相手の技を受け流せ」
植木先生は、そう教えてくれた。
腹ばいで前へ進む。
エビのように腰をひねって逃げる。
逆エビで相手に隙を見せず転がる。
そして、亀のように丸くなり、自分の心を守る。
それら全てが、柔道だった。
勝つための技ではない。
怪我をしない、させない、命をつなぐための動作。
——僕は、今日もそれを繰り返していた。
後書き
この第五話では、「礼」と「基本」が柔道の核であることを描きました。
主人公はまだ小さく、勝てる相手は一人もいません。
けれど彼は、自分なりの“勝ち”を追い続けています。
強くなるとは何か。
勝つとは何か。
そして、守るとは何か。
その問いに、少しずつ向き合い始めた小猿の姿を
どうかこれからも見守っていただけたら嬉しいです。
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