第8話第八話『芯から沈む、芯から支える』
前書き
小学三年生。
変わらない日常。けれど、技はまた一歩、前へ進む。
新たに教わるのは「体落とし」。
ただ沈むだけではない、自分の芯で相手を受け止め、崩すという技。
その難しさと向き合いながらも、少年はまた黙々と手を動かす。
そして、道場にも少しずつ変化の兆しが――
本文
小学三年生になった春。
新しい学年になったからといって、生活が大きく変わるわけではなかった。
相変わらず水は出ないままで、夜の電気代すら気にする暮らし。
父は病院と家を行き来するばかりで、会話はほとんどなかった。
学校では、給食の時間だけが救いだった。
あたたかいご飯と、誰かと一緒に笑える数少ない時間。
でも少年は、そうした時間にもあまり溶け込むことはなかった。
放課後、誰よりも早くランドセルを背負い、いつもの道を歩く。
——今日も、道場が待っている。
その一心だった。
⸻
二年生の一年間、少年は「大腰」をひたすらに磨いた。
腰をしっかり入れること。
芯を持って動くこと。
自分の体が技になる感覚を、少しずつ体に覚えさせていった。
その積み重ねは、誰に見られることもなく、ただ静かに日々の中に溶け込んでいた。
⸻
そんなある日、稽古が終わった頃。
植木先生が、ぽつりと呟いた。
「おまえになら、もう一つ教えられるな。次は“体落とし”や」
「はい」
小さな声で答えながらも、少年の心には雷が落ちたような衝撃が走った。
「体落とし」は、柔道の基本技の一つでありながら、非常に繊細な技だ。
体を一瞬で沈ませ、相手のバランスを“芯”で崩し、引き落とすように投げる。
重さではなく“間合い”と“崩し”が命。
「腰を入れすぎるな。沈め。重心を落として、相手の足を先に浮かせる。布団を引くように、スッと」
植木先生の口調は、いつもより少し穏やかだった。
それだけ、この技に込める思いが強いのだろうと、少年は感じた。
⸻
翌日から、打ち込み千本がまた始まった。
最初の数日は、足も手もバラバラだった。
相手のバランスを崩す前に、自分の体勢を崩してしまう。
それでも、少年は何度でも繰り返した。
手のひらの皮がまた剥け、足裏に豆ができても、それを気にする暇もなく、毎日、黙々と道場に通い続けた。
⸻
「体落としはな、自分を沈めることで相手が見えるんや」
植木先生が、ぽつりとそう言った。
「下がることで、相手の上を取る。柔道ってのは、押し合いやない。思いやりや」
——思いやり。
その言葉が、なぜか胸に深く残った。
柔道とは、ただ勝つためにやるものではない。
自分を通して、相手を受け止める“道”なのだと、小猿は少しだけ理解しはじめていた。
⸻
そんなある日、稽古中のことだった。
道場の空気が、少しだけ違っていた。
いつもより大人たちが集まり、道着姿の子どもたちの顔にも緊張感があった。
耳を澄ませていると、近くでこんな会話が聞こえてきた。
「今度の地区の錬成大会、うちの道場も呼ばれたってよ」
「へえ、初陣かぁ。コウキたち、やる気満々やな」
「まぁ、小猿は出られへんけどな。見学はできるらしいで」
——錬成大会。
少年はその言葉を聞き、思わず拳を握った。
出られなくてもいい。
でも、「道場が呼ばれた」ということが、なんだか誇らしかった。
そしてそれ以上に、少年がふと気づいたのは――
あの六年生のコウキが、みんなの前で自然と指示を出し、年下の子たちをまとめていたことだった。
⸻
大会に向けて、道場の空気は少しだけ引き締まっていった。
だが、植木先生だけは、いつも通りだった。
「勝ち負けは関係ない。
怪我のないように。
相手を大切に。
柔道は、人と人との心を交わす場所や」
その言葉に、道場全体が静かに頷いていた。
大会に向かう子どもたち。
出場しない者たち。
見守る大人たち。
それぞれが、それぞれの場所で、柔道に向き合っていた。
そして――試合の日が、近づいてくる。
後書き
三年目。
新しい技「体落とし」を学び、またひとつ成長していく少年。
その一方で、道場にも変化が訪れはじめます。
六年生のコウキが主将として立ち、道場に新しい風が吹く中、初めての“大会”が――。
次回、少年が見た“試合”の世界を、丁寧に描きます。
どうぞご期待ください。
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