【序章】後編 ~炎の夜に~


ペンダントをそっと胸元で撫でながら、イエレナは中庭の風にあたっていた。

日が沈み、薄紅の名残をわずかに空に残すだけの宵闇。

冬の空気はひんやりと澄みわたり、吐いた息が白く揺れる。


そのとき――ふいに、鼻をつくような煙のにおいが漂ってきた。


「……ねえ、なんか、煙くさくない?」


精霊たちに問いかけるように視線を向ける。

淡い光の粒は、不安に怯える子どものように小刻みに震え、互いに合図を交わすように揺れ合った。


次の瞬間――光たちは一斉に宵空へ舞い上がり、風にさらわれるように散っていく。

ひとつ、またひとつと消えるたび、広がる夜気はますます冷たさを増し、周囲から音が失われていった。


最後の光が掻き消えたとき。

そこにはもう、さっきまで確かにあったはずの精霊の気配が一切残っていなかった。


……まるで、最初から存在しなかったかのように。


イエレナは戸惑いながらも、思わず辺りを見回す。

その視線の先――正門の方角の空が、不自然なほど赤く染まっているのに気づいた。

冷たい冬風に紛れて、中庭に届くはずのない火の粉が舞い込んでくる。

次いで耳に飛び込んできたのは、兵の叫び、瓦礫の崩れる音、鋼と鋼がぶつかる甲高い衝撃音。

いつもは静かで落ち着いた城が、信じられないほどの喧噪に覆われていた。



「イエレナ!」



鋭い声とともに駆け込んできたアズベルトの顔に、いつもの穏やかさも余裕もなかった。

返り血に濡れた緋色の外套が大きく翻り、彼の気迫とともに冷たい夜気を切り裂く。


「城門は破られた。……もう、時間がない」


「な、何があったの……? お父様とお母様は!?」


「父上と近衛が最後まで守る。だが……お前だけは逃がさねばならない」


「やだ……!私も残る、私――」


「イェナ!」


怒号に近い声が響き、イエレナの言葉は喉で凍りついた。

アズベルトは彼女の肩を強く掴み、その瞳を真っすぐに覗き込む。


そこに宿るのは、絶望でも諦めでもなく――ただ、妹を守り抜こうとする烈しい決意だった。


「……昔よく使っていた抜け道、覚えてるね?あそこを通って砦の門を抜けるんだ」


イエレナの口が、かすかに震える。

胸の奥で心臓が早鐘を打ち、答えの言葉が出てこない。


「できるな?」


問いかけは静かだったが、有無を言わせぬ強さがあった。

イエレナは小さくうなずき、唇を噛んだ。


アズベルトは一瞬だけ、妹の頬に触れた。

掌は熱を帯びているのに、かすかに震えていた。


……次に会える保証は、どこにもなかった。


「俺も後で追う。だから、信じて――行け」


鋼が鞘から抜かれる音が冷たい空気を裂く。

兄の背に火の明かりが揺れ、壁を這う影が次々と形を変える。

重なる足音、敵の影がすぐそこに迫っていた。



「イェナ、振り向かずに、走れっ!」



背中に叩きつけられるような叫びを受け、イエレナは振り返らず走った。

熱いものが瞳を満たしたが、涙は頬を伝う前に、冷たい風にさらわれていく。


──胸元のペンダント。その護石が、かすかに光を放っていた。




◇◇◇




王家しか知らない隠し通路。


幼い頃、よく遊び場にしていた深い森林。


古びた砦を抜け、ただ前だけを見て駆ける――



最初は、私を守るように固く囲んでいた護衛たち。

その足音と鎧の響きが、背中を支えるように確かにあった。


――けれど。


一本目の橋を渡る頃には、もう半分の音が消えていた。

森の獣道を抜けるたび、視界の端から人影がひとつ、またひとつと消えていく。


風が頬を裂く。


血の味を含んだ土埃が、喉を焼く。


革靴が土を叩く音、剣の鞘が揺れる音、鎧のきしむ音――

それらはさっきまで確かにあったはずなのに、次第にまばらになっていく。


「ぐっ──!」


誰かの声が、鋭く短く途切れる。


振り返らない。振り返れない。

脚を止めたら、もう二度と立ち上がれない気がした。


兵の叫び、瓦礫の崩れる音、鋼と鋼がぶつかる衝撃音。

それらが、少しずつ遠ざかっていく。


足音の数が……減っていく。


聞き慣れた鉄の響きが……ひとつ、またひとつと消えていく。


足音が――


息づかいが――




もう、自分の音しか聞こえない。




走っているはずなのに、まるで沈んでいくようだった。

闇の底へ、音もなく落ちていくような――


『走れっ!』


脳裏に、焼きついたように──兄、アズベルトの声が響く。


何度も、何度も。


痛みも、寒さも、喉の乾きも、すべてを押し流していくような、あの強い声。

だから私は、ただ走った。


森の抜け道も、夜の雨も、泣き声のような風も。

全部、覚えていない。

覚えているのは……アズの声だけ。


……もう、誰もいない。


気がつけば、私はひとりだった。

手を伸ばしても、誰のぬくもりも届かない。

あれほどいた兵の姿はどこにもなく、音も気配も──何ひとつ残っていない。


「…っ…みんなっ……」


足が止まりかけ、泥に取られた脚が重く沈む。

そのまま地面に崩れ落ちそうになったとき――


胸元で、ペンダントがかすかに光を放った。


雨粒を弾くような、淡い蒼の輝き。

視界が揺らぎ、霞む中で、その光だけがはっきりと見える。


そして、その光に呼応するように、小さな精霊たちが舞い降りた。

ひとつ、またひとつ……私の周囲をくるくると巡りながら、やわらかなぬくもりを帯びて。


まるで「こっちだよ」と、道を示すように――

けれど、置いて行かないように、常に一歩先をふわりと漂いながら。


不思議と、恐怖よりも安心が胸に広がっていく。

身体がふっと軽くなったような感覚に、私はまた一歩を踏み出した。


朦朧とした意識のまま、光だけを頼りに。


闇と雨と泥に満ちた道を、ただ前へ――


どれほど進んだのか、もう分からない。

けれど、木々の隙間から差し込む淡い光の中──



「……イエレナ嬢?」



その声が、私を現実へと引き戻した。


顔を上げると、そこに一人の青年が立っていた。

長い外套のフードを深くかぶり、雨を避けている。

だが風にあおられ、奥から雪を思わせる銀白の髪がのぞく。


蒼い瞳が私を捕らえ、その視線に吸い込まれそうになる。

なぜ、こんな場所に人がいるのか分からなかった。


けれど彼は、安堵の笑みを浮かべつつも、鋭い光を秘めた瞳で私をまっすぐに見据えていた。


その背後では精霊たちが静かに舞い、まるで彼を中心に集うことが当然であるかのように肩や髪に触れて、ひときわ強く輝く。


「イエレナ嬢……っ!」


また呼ばれている。


聞き慣れないはずの声なのに、なぜか胸の奥に深く響いた。

冷えきった私の心に、ぽたりと落ちる雫のように、そっと優しく染み込んでいく。

霧の立ちこめる森の中、彼は木々を避けながら一直線に駆けてきた。

夜の帳をまとう濃紺の外套がひらりと揺れ、銀の装飾が淡く光を帯びて月光に縁取られる。

気づけば私は立ち尽くしていた。


そして次の瞬間、力が抜けてその場に膝をつく。


──もう、限界だった。


「……っ、よく頑張った」


駆け寄る足音。

その直後、あたたかい腕が私をしっかりと抱きとめる。


冷えきった身体が彼の体温に包まれ、規則正しい心音がすぐ近くで響く。

それだけで、張りつめていた心がふっと緩んだ。


「……みんながっ……」


かすれる声でこぼれた言葉に、彼は何も言わず、ただ静かに腕の力を強めた。

その無言の肯定が、たまらなく優しい。


そっと私の額に手を当て、低く耳に心地よい声で何かを唱える。


──瞬間、掌から淡い金色の光がこぼれ落ちた。

それは夜の闇に差し込む朝陽のように柔らかく、けれど確かな力で私を包み込む。


氷のように冷えていた指先がじんわりと温もりを取り戻し、膝の擦り傷が光に溶けるように癒えていく。

周囲の精霊たちもその光に引き寄せられ、羽根のように軽く舞いながら同じ金色に揺れた。


「大丈夫、すぐに楽になるよ」


その声は、春の陽だまりのようだった。

冷たい風にさらされ続けた魂を、そっと抱きしめるように温めてくれる。


「後は任せて、ゆっくりお休み……」


その言葉が耳に届いた瞬間、視界がふわりと滲む。

けれど不思議と、不安はなかった。


彼の腕の中で、静かに意識が闇に沈んでいく。

その表情には、ほんのわずかに安堵の色が差していた。

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