【第一章】辺境に咲く光~辺境地編~
薄暗い部屋の中、暖炉の残り火がゆらめいていた。
橙色の光が壁をやわらかく染め、静寂の中にだけ微かな熱を宿す。
ベッド脇に腰を下ろした青年は、眠る少女の額にそっと手を添えた。
汗ばんだ肌は、まだ熱の名残をわずかに伝えている。
雪を思わせる銀白の長い髪が、ランプの灯りを受けて淡く輝く。
瑠璃色の瞳には、深い静けさと揺るぎない意志が宿っていた。
――アストレア王国第5王子、セレスト。
生まれながらに膨大な魔力を持ち、最年少で最高位魔導士の称号を得た男。
今はただ、その肩書きも力も脇に置き、目の前の少女を守ることだけを心に刻んでいる。
「……うん、大分落ち着いてきたね」
穏やかな声を落とし、椅子の背に身を預ける。
夜風がカーテンを揺らし、ランプの灯りが彼女のまつ毛の影をやわらかく照らした。
その光景に、森での再会がよみがえる。
あの日――ペンダントの淡い光に導かれ、木々の影から現れた少女。
衣は裂け、泥にまみれ、足元も覚束ないほど傷ついていた。
それでも、その瞳は幼い頃と同じまま、まっすぐに自分を見据えていた。
泥にまみれた小さな体を抱き上げた腕の中で、額は燃えるように熱かった
。
そのまま数日間、高熱にうなされ、こうして眠り続けている。
時折、夢の中で何かを探すように手を動かす。
その仕草が妙に幼くて、胸が締めつけられる。
セレストは静かにその手を包み込んだ。
細く、熱を帯びた指先が、ぎゅっと握り返してくる。
「……イェナ」
名を呼ぶと、かすかに指先が震えた気がした。
視線が胸元のペンダントへ落ちる。
アズベルトが託したそれは、彼女を導き、再びここへ引き寄せた唯一の絆だった。
セレストはそっと息を吐き、もう一度、彼女の名を低く呼んだ。
――必ず君を守る、と。
◇ ◇ ◇
薄灯りの書斎。
静かに本を閉じると、扉が軋み、アズベルトが姿を現した。
「夜分に悪いな。さっきの会合の話なんだが――」
「イエレナ嬢の件、でしょ?」
セレストは椅子にもたれ、柔らかな笑みを浮かべる。
「“祝福の力”の真偽はともかく、帝国は動くだろうね。……こっちも他人事じゃいられないよ」
アズベルトは頷きつつ、ふと表情を曇らせる。
「……あいつの成人の儀が近い。けれど、その陰で何かが蠢いている気がしてならない。」
セレストは眉間に皺を寄せ、背もたれに深く体を預ける。
「君の勘は当たるから、怖いよ。」
アズベルトは小さく笑い、懐から小箱と数枚の書類を机の上に置いた。
「もしもの時に備えておきたいんだ。」
アズベルトの低い声に、セレストは視線を向けた。
箱の蓋が開かれると、淡く魔光をたたえたペンダントが静かに姿を現す。
その隣には、フェルディナ国の刻印が押された正式な婚約誓約書。
「……アズ、これは?」
「正式な誓約だ。婚約すれば、少なくとも手出ししにくくなる。
――セス、君に頼みたい」
「まぁ……婚約者もいないし、できない話じゃないけど……最終手段すぎない?」
「緊急を要している。今できる最大限のことをしておきたいんだ。」
アズベルトの声色に、セレストは一つため息をつき――ペンダントを手に取る。
掌で包み、指先で冷たい宝石をなぞった瞬間、微かに光が揺らいだ。
そのわずかな変化を見逃さず、流れ込む魔力の質を読み取る。
「……これ、複雑な術式が幾つも重ねてあるね。しかも誓約書にまで……“祝福”の力か」
「...やっぱり気づくんだな」
口元にわずかな笑みを浮かべながらも、その瞳には静かな真剣さが宿っていた。
「これは俺の“祝福”と組み合わせた精霊魔法だ。君ほどの魔導士でなければ、術式の存在すら感知できない。他の者には、ただの飾りにしか見えないだろう。」
セレストは淡く光る宝石をじっと見つめ、その奥に編み込まれた精緻な魔力の流れを探る。
指先に伝わる冷たさの中に、アズベルトの強い意志と――彼なりの守りの誓いが確かに感じられた。
「……ずるいよ。君がそういう顔をすると、断れなくなる。」
低く漏らした声に、アズベルトはふっと口元を緩めた。
ランプの灯りがその横顔を照らし、柔らかな影が壁に揺れる。
「ま、初対面でイェナに赤面してた時点で、もう決まりだと思っていたよ。」
その言葉に、セレストの脳裏にふと幼いころの情景が浮かぶ。
アズベルトの背に小さな体を隠し、恥ずかしそうにこちらを覗き込むイエレナ――
頼りなげに揺れる睫毛の影も、わずかに震える唇も、今も色褪せず胸に残っている。
「……してないし。記憶を捏造しないで」
「いや、耳まで真っ赤だった。」
セレストは小さく息を漏らし、ふっと笑みを浮かべた。
その笑みの奥に、どこか自分でも持て余すような感情が滲む。
「……イエレナ嬢の気持ちは、大事にするよ。」
言葉を置くように告げると、アズベルトは冗談めいた空気をすっと消し、真っ直ぐにセレストを見つめた。
ランプの灯りが二人の間に淡い影を落とす。
「頼んだ、セス。俺の代わりに」
短く、けれど重い言葉。
その響きに、セレストの胸の奥が静かに締めつけられる。
「……分かった。受け取るよ、すべて」
ペンダントを握りしめた指先から、冷たさと共にその重みが沈んでくる。
守る――たとえ、この手を血で染めることになっても。
ランプの光が揺れ、二人の影が壁に重なった。
それは、嵐を前にした静かな盟約の印のようだった。
◇ ◇ ◇
ふと、扉が控えめにノックされる。
「どうぞ」と短く返すと、アウルとギウンが静かに入室した。
淡い銀青の髪を肩に流すアウルの瞳は冷たく澄み、
対照的に、銀灰の短髪を無造作に刈り上げたギウンの赤みがかった瞳は温かな光を宿している。
二人の視線は真っ直ぐにベッドへ向かい、眠るイエレナを見据えた。
「もう大丈夫だよ。魔力も安定してるし、じきに目を覚ます。」
セレストの声に、二人は安堵の息をつく。
しかしその表情がふっと変わり、王族の顔になる。
「……アウル。フェルディナ国内の状況を探ってくれ。帝国の動きも、掴めるだけ掴んでほしい。」
「承知しました。」――鋭い決意をにじませ、アウルは頷く。
「ギウン。イエレナ嬢がしばらくここで安全に過ごせるよう、手配を急いでくれ。」
「承知しました。必要な備品を早急に整えます。」
短い指示を終えると、二人は深く礼をして部屋を後にした。
まだ浅い呼吸を繰り返す彼女の髪を、セレストはそっと撫でる。
「……もう二度と、あんな目には遭わせない」
橙色の残り火が、彼の横顔を静かに照らしていた。
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