「きみに初めて物をねだられたことが嬉しくて、つい」

第4話

朝の静謐な空気はやっぱりまだ冷たさを帯びているけれど、プールを満たすコバルトブルーは心地よい温度を保っていた。肌に触れる水がなめらかで優しい。ここはまるで赤子を守る羊水の城のように、絶対的な安寧が広がっている。


わたしは、身体の中に流れる人魚の血が歓喜にわき立つのを感じながら、踊るように泳いだ。貝の真珠層のようね、と母が褒めてくれた脚の鱗が、虹色の光沢を輝かせている。光の波紋が揺蕩う水の中、わたしはどこまでも自由だった。


三十八度近い熱に二日ほど苦しめられ、朝も夜も関係なくベッドから出られなかった反動か、平熱に下がって一番にわたしの心を占めたのは『泳ぎたい』という渇望にも似た欲求だった。もしかしたら、高熱がわたしの取るに足りない意地を溶かしていったのかもしれない。喉が渇いて水を欲するように、わたしは一目散にプールへ飛び込んだ。


それがおそらく一時間前。プールからリビングの時計は確認出来ず、スマートフォンもプールサイドのハンギングチェアにあるため、正確な時間は分からない。そもそもずっと水中で魚に戻っているのだから、時間を気にしていたわけでもないけれど。


そろそろ水面に上がろうか。


名残惜しさを感じながら、外の世界に顔を出す。額に張りつく前髪を頭頂部の方に流し、ついでに手で顔を拭いながらアウトドアリビングの方に視線を向けた瞬間、心臓がドクンと跳ねた。


一体いつからそこにいたのか、空閑がリビングとテラスの境界線に寄りかかって立っていた。


今日は仕事に行かないのか、ゆったりとしたVネックのホワイトカットソーにブラックのスラックス、首にはシルバーチェーンのネックレスというラフな格好をしている。美しさの権化であることに変わりはなかったけれど、いまはアッシュグレーの前髪を下ろしているからか少し幼く見えた。


空閑はわたしの視線を受け止めると、おもむろに近付いてきた。道中、ハンギングチェアに置かれたスマートフォンを拾い上げるのも忘れない。空閑はプールの縁から半歩離れたところで膝を折り、わたしの代弁者を手渡してくれた。


『ありがとうございます。あの、いつからここに?』

「三十分くらい前だな。きみが初めてプールで泳いでいると聞いて、急いで下りてきた」

『すみません。ずっと潜ってて気付きませんでした』

「たしかに、全然上がってこなかったな。きみが水中でも呼吸できると知っていても、少し心配になった」


空閑はそう言って、柔く目を細めた。髪型や服装がいままでと違うように、纏う雰囲気もまた、穏やかな色に変化している。


この男と話をしたのは片手で数えるほどしかないけれど、顔を合わせるときは常に身体が強張っていた。覇者の風格に気圧されていたと説明するのが正しい。だから雰囲気が和らいでいるいまは、ウソみたいに緊張がほどけ、ラクに言葉を紡ぐことが出来た。


「もうすっかり元気だな」

『はい。おかげさまで。あの、空閑様は、今日お休みなのですか』

「仕事は休みなんだが、野暮用で夕方には出かける」

『そうなんですね。夕方まで時間がありますから、空閑様も泳がれては?気持ちいいですよ』

「残念だが、鴉は泳げないんだ。きみがゆっくり楽しめ」


空閑は、それで?と続ける。首を傾ける動きに合わせ、ギターピックのようなカタチをしたペンダントトップが涼やかな音を立てる。


「初めてここで泳いでみた感想は?」


わたしは目を輝かせ、指を走らせた。


『とても素晴らしいです!広くて深さもありますし、水が温かいので気持ちがいいです。天井がガラスですから閉塞感もありませんし、なによりわたしがこの素晴らしいプールを独り占めしているということが贅沢すぎます。ただ』


歓喜に跳ねる心のまま言葉を打ち込んでいき、その勢いに乗って唯一の不満まで連ねそうになったところで慌ててブレーキをかける。


そもそも、文章が興奮しすぎではないだろうか。もっと簡潔にまとめようとデリートキーを押そうとしたとき、ぬっと影が覆いかぶさってきた。顔を上げると、空閑が半歩の距離を詰め、スマートフォンの画面を覗き込んでいる。反射的に隠そうとしたけれど、時すでに遅し。


「ただ…、なんだ?」


前髪の間から覗く黒曜の瞳に、鋭い光が宿る。責められているわけではないことは百も承知だが、硬い声音に自然と身体が強張ってしまう。


「悪い。怒っているわけではなく、不満があるなら言ってほしいだけなんだ。きみが何も言わなければ、こちらも何も分からない」


空閑の言うことはもっともだ。ただでさえわたしはすぐに思いを伝えられず、相手がやきもきするというのに。言葉にするだけ無駄だと諦め、わたしが会話を止めるのはあまりにも失礼だ。わたしは意を決し、続きを打ち込む。


『プールに不満はありません。本当にひとつも。ただ水着が、もっとシンプルであればなと…』


黛さんが言っていたように、ワードローブには水着が用意されていた。それも、好みに合わせて選べるようにカタチの異なるものが三着も。


ショーツのサイドリボンが魅力的な、ボタニカル柄のホルターネックビキニ。

深めのUバックを上品に飾るフリルが目を惹く、ホワイトのワンピース水着。

シフォン素材のフリルで胸元を華やかに彩り、フレアスカートで太ももを自然に隠すラベンダー色のワンピース水着。


どれもリゾート地によく合う魅力的な水着だったけれど、思いきり泳ぎたいというわたしの願望には少々合わない。いくらか悩んで、結局ホワイトのワンピース水着を選んだものの、どうしてもフリルが気になっていた。


「水着?どんなものがいいんだ?」

『ビキニよりはワンピースタイプのもので、リボンやフリル、スカートといった装飾がほとんどないものがいいんです。理想は競泳水着なのですが…』

「競泳水着は…シンプルすぎないか?」

『泳ぐことが目的ですから…』

「それもそうか。とりあえず、バイヤーの友達に聞いてみよう。装飾がなくシンプルで、尚かつ泳ぎやすい水着があるか」


お礼を打ち込んで顔を上げると、唇に三日月を描いた空閑と目が合う。その目もまた、蜂蜜を溶かしているかのように甘い。まるで愛しいものを見つめるかのように、優しく微笑む空閑を初めて見た。呆気にとられていると、空閑は恥ずかしそうに口元を手で覆う。


「いや、これは、きみに初めて物をねだられたことが嬉しくて、つい」


まさか、嬉しい、という言葉を聞くと思わなかった。わたしは用意してあった水着すべてに文句をつけ、新しいものを要求する厚かましさを見せたというのに。


空閑は、そうすることが自然であるかのようにわたしの頭を撫でた。いつかのように、子ども扱いされたとは思わなかった。


左胸がドクンと高鳴る。今度も驚いただけと言い訳するには、無知な子どもに戻らないといけない。

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