第3話3-2

「ミゥカ様。お客様がお見えです」


最初は、目覚ましのアラームと同じくらい毎日聞いている「お届け物です」という言葉を聞きたくなくて、脳みそが勝手に変換したのかと思った。わたしが怪訝な顔を見せたので聞こえなかったと思ったのか、黛さんはもう一度同じ言葉を繰り返す。


お客様、と。


でもわたしを訪ねてくる存在に心当たりがない。そもそもわたしがここにいると知っているのは、人魚の親族か毒島くらいだが、空閑が歓迎するはずない。


初めて贈り物を受け取ったときのように、疑問を引き連れてリビングに向かうと、そこにいたのは光そのものだった。


陽光を浴びて輝く小麦畑のような黄金色の髪。すらりとのびた手足。柘榴で飾ったような赤い唇。やや尖った耳には、星のようにいくつものピアスが輝く。そしてなにより、アイラインで強調されたアーモンドアイが目を惹く女性。


彼女はわたしの姿を認めると、張りつめていた糸が弛むように表情を崩した。


「ミゥカ!もう!どれだけ心配したと思ってんの!」


木ノこのはアリン。狐の獣神族であり、わたしの唯一の親友。思いがけない子の登場に驚きを隠せないでいると、大股で近付いてきたアリンにぎゅうっと抱きしめられる。


彼女の方が頭ひとつ分高いので、覆いかぶさられるようなカタチになる上、豊かな胸に顔を押さえつけられて苦しい。なんとかもがいて顔を仰けると、雨で潤むアーモンドアイに見下ろされる。


「式場に突然現れたワケ分かんない男に連れ去られるし、警察に行っても全然取りあってくれないし、鴉の本家に行っても門前払いだし、もうどうしたらいいか分からなかったんだからぁ!」


ちょっと待った。目の前でわたしがさらわれる光景はたしかに衝撃的だったとは思うけれど、それにしたってそのあとの行動が無謀すぎやしないか。わたしは急いでスマートフォンを取り出した。


『警察に行ったの!?』

「そりゃそうでしょ。誘拐よ?」

『あー…うん。たしかに。それは分かるけど、鴉の本家に行ったのは…』

「あの男が名乗っていたから、検索したら住所が出てきたのよ。それで行ってみただけ」


アリンが度胸のある女だと知っていたけれど、極道一家の城に単身で乗り込もうとするほど怖いもの知らずだとは思わなかった。感心するやら呆れるやら。世間において、狐はずる賢さの象徴とされているけれど、彼女は頭で考えるより先に身体が動くタイプだ。


『じゃあ…なんでここが分かったの』

「あたしが本家に押しかけたのを、空閑キョウヤが聞いたんじゃない。急に電話がかかってきて、ミゥカが退屈しているから来いって」


ここであの男が登場するのか。まさかわたしの退屈を紛らわせるためだけに、親友を召喚するとは思わなかった。そのうち、寿司職人やフレンチシェフまで呼び出すかもしれない。


「で?ひどいこととか、痛いこととか何もされてないよね!?毒島の借金の代わりに連れて行くって言ってたから、何されるか分かったもんじゃなくて怖かったんだからっ」

『大丈夫。むしろ好待遇だよ』

「まさか…ぶくぶく太らせて食べるつもりじゃないでしょうね」

『いやいや、お菓子の家の魔女じゃないんだから…』


あたしは大真面目に言ってるのに、と拗ねたように唇を尖らせるアリンに笑いかけ、その腕の中から抜け出す。ソファに移動してもまだ不安が消えないのか、彼女はわたしの手を握りしめて離さない。


『そうだ。あのあと、式場はどうなった?』

「ひと言で表すなら、罵詈雑言が飛び交う地獄絵図。借金をバラされて花嫁まで奪われた毒島は叫びまくってたし、海城のとこの父親は、しきたりはどうなるんだ!ウチが呪われたらどうする!って蛇のヤツらに詰め寄ってた」


人魚の中には、しきたりに従わなければ呪われると信じている者がいると聞いたことがあるけれど、まさか海城家が当てはまるとは思わなかった。


ひとり娘を嫁に出したくないが、呪われるのも避けたい。だから親戚の孤児を身代わりに据えて万事解決と思っていたところに、予期せぬ嵐の襲来で事が振り出しに戻ったわけだ。そう考えると、溜飲が下がる思いがした。


「どう解決したのかは分かんない。あたしはミゥカを探さなきゃってパニックになって、すぐに式場を出たから。でも毒島の醜態が世に晒されてないところを見ると、このことは両家が必死に隠してるんだと思う」


社会的地位からして、どちらも世間体を気にするから大いに想像がつく。苦笑いしか出てこない。


「まぁ、あんな家の行く末なんてミゥカが気にする必要ないよ。ここに押しかけてきたり、連絡してこないかぎり…あ、それで思い出した」


アリンはわたしの手をぽんと叩いて立ち上がり、フローリングに落ちていたキャンバストートを拾い上げた。


「これ、忘れないうちに渡しておく」


手に載せられたのはブラックエナメルのミニバッグ。ジッパーの金具にイルカのストラップが揺れている。間違いなくわたしの私物だ。


『式場から持ってきてくれたの?』

「混乱してたけど、これだけは持っていかなきゃと思って。あ、でもスマホは、ここに入ってくる前に取り上げられたんだけど…新しいのをもらったみたいね」

『あ、うん』

「あと、そうだこれも」


次にアリンが取り出したのは、木製の写真立て。ところどころ塗装が剥げたターコイズブルーの木枠に、成年の男女と幼い女の子の姿を切り取った写真が収まっている。わたしと、わたしの両親だ。


両親の写真はもうこれしか残っておらず、結婚準備の慌ただしさの中で間違えて捨ててしまわないようにアリンに預けていた。


『ありがとう』

「他に必要なものある?何か買ってこようか?」

『ううん。贅沢すぎるほど、何から何までこの家の方たちに用意してもらっているから大丈夫』

「そっか。鴉は凶暴で残虐だって聞いてたけど、一応良心はあるみたいね」


アリンの口から飛び出した鋭い言葉に、思わず周囲を確認してしまった。でも気を利かせてくれたのか、黛さんを含めスタッフの姿はどこにも見当たらない。ホッと胸を撫でおろしてから、自分が鴉という種族について何も知らないことに気付いた。


『アリンは、鴉がどんな種族か知ってるの?』

「んー…あたしも伝え聞いただけで詳しくないよ。鴉は凶暴で残虐で執念深く、賢いゆえに悪知恵が働くから他者を支配することに長けているって」


それは…案外間違っていないかもしれない。暴力的な面は目撃していないが、悪知恵が働くという面は同意できる。


「でもその一方で、血の縁をなにより重んじる家族思いなところがあるんだって。恋愛面でいうなら、結構一途で、伴侶は生涯に一度しか娶らないみたい」


いや、それは違う。全部に当てはまるわけじゃない。空閑の家族事情を思い出し、頭の中できっぱりと否定したけれど、口にすればアリンの追及を受けそうで曖昧に頷くだけに留めた。


「あー…あと、誰かに助けてもらったら、その恩義は死ぬまで忘れない義理堅い面もあるらしいよ」


人魚のしきたりのせいで嫌いになりかけている言葉の登場に、思わず眉間にシワが寄る。でもアリンはわたしの表情の変化に気付くことなく、興味深そうに周りを見渡した。


「聞いたことはないけど、勝負運とか金運も強かったりしてね。ここ、海城の家より大きいんじゃない?」


好奇心に満ちたアーモンドアイが、リビングから繋がるテラスに向けられる。


「あ、プールあるじゃない。鴉は泳げないと思ってたけど違うのね。ミゥカはもう泳いだ?」

『ううん。まだ』

「どうしたの。体調でも悪い?」

『そういうわけじゃないんだけど、他所の家だからなんとなく入りづらくて…。泳いでもいいって言ってもらってるんだけど』


わたしがそう言うと、アリンはわざとらしく顔をしかめた。もう幾度となく目にしてきたから、彼女が次に紡ぐ言葉は分かる。


「あのねぇ…ミゥカは周囲に遠慮しすぎ」

『そんなことないよ』


笑って否定するわたしを見て、大げさにため息をつくところまでがセットだ。アリンは不満げだが、いままでと変わらないやりとりがなんだか愛しくて、わたしはつい笑みをこぼしてしまう。


なに笑ってんの!と小突かれるけれど、一度緩んだ感情のバルブは簡単には閉められない。声もなく、満面の笑みだけを親友に向ける。久しぶりに笑顔を作ったからか、顔の筋肉が少し痛かった。



アリンが訪ねてきたその日。唯一の親友が連れてきた“日常”によって、張りつめていた何かがプツンと切れたのか、わたしは熱を出した。熱に浮かされている間、夢を見た。


海辺の小さな町で、両親と幸せに暮らしていた頃の夢だ。ベッドサイドに置いた家族写真が連れてきたのかもしれない。わたしは両親と手を繋いで砂浜を歩いたり、果てのない海で魚と一緒に泳いだり、両親の似顔絵を描いて褒められ無邪気に笑っている。


夢に匂いはないはずなのに、その幸福は潮の香りで満たされていた。夢の中で、わたしは幸せだった。でも幸せであればあるほど、夢と夢の繋ぎ目で意識がうっすらと輪郭を取り戻すたび、胸が張り裂けそうになった。


会いたい。

お父さんとお母さんに会いたい。


現実のわたしが涙を流していると気付いても、腕を上げるのが億劫だった。閉じた目蓋の縁からぽろぽろとこぼれる真珠をそのままにしていると、不意に温もりが頬に触れた。誰かの大きな手だと気付いたとき、


「大丈夫。なにも心配いらない」


深みのあるテノールが鼓膜を震わせる。でも、夢に片脚を掴まれたままの思考では、声とその持ち主を結び付けられない。この穏やかな声は、誰だっけ。


「私が傍にいる。だから安心してゆっくり休め」


声の主がわたしの頬を優しく撫でるたび、悲しみで波打っていた感情の水面が凪いでいく。


懐かしい、と思った。いつだったか、こんな風に誰かに優しくなぐさめられたことがあったような気がする。


子どもが母親にくっついて安心感を得るように、頬に触れる手を両手で抱きしめる。この温もりがあるかぎり、夢から覚めても悲しみに襲われることはない。確信にも似た思いが、わたしの口角をわずかに上げる。そうしてそのまま、安らぎに満ちた暗闇に落ちていった。

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