第4話4-2
困った。
どうしよう。
まったくもって眠くない。
ふかふかのベッドに埋もれながら、わたしは内心で頭を抱えていた。午前中久しぶりに水と戯れたことで疲れてしまい、昼寝と呼ぶには少しばかり長く眠ってしまったのがいけなかった。
時計の針が天辺を越え、静寂と暗闇の二色で描かれた世界に変わっても、わたしのところに睡魔のベールは下りてこない。寝なきゃと思うほど意識は冴え渡り、夢の世界はどんどん遠のいてく。
一時間ほどシミひとつない天井のクロスとにらめっこしていたが、睡魔が訪れるより先に、わたしの忍耐がぽっきりと折れた。
ええい、こうなったら夜更かししよう。
がばっと勢いよく起き上がり、スマートフォンを手にベッドを抜け出した。黛さんも含め、スタッフの方々はそれぞれ自宅から通ってきているので、夜になるとこの広い家はさらに物寂しい。空閑もまだ帰っていない。痛いほどの静けさと孤独を蹴散らすように、わざと足音を立てて一階に下りた。
キッチンカウンターに置かれたガラスのピッチャーを手に取る。ぬるめの水を喉に流し込みながら、視線の終着点をキッチンの隣にあるセラミックのダイニングテーブルに定めた。ひとりふたりで使うには余白がありすぎるそのテーブルで、空閑と食事したことを思い出す。ふたりで向かい合って食事したのは、この家に来て初めてだった。
わたしが話せないこともあり、食卓は沈黙が保たれていたけれど、決して重苦しいものではなかった。先に食べ終わった空閑に穏やかな目で見つめられている間は、少し居心地が悪かったけれど。
「こうして誰かと食事をするのは、いいものだな」
子どもの頃を思い出しているのか、空閑は噛みしめるように呟いた。思い出を懐かしむその顔がどこか寂しそうで、わたしは思わずスマートフォンを手にしてしまった。
『じゃあこれからは、朝ごはんくらいは一緒に食べましょう。あなたの起きる時間に合わせます』
彼にとっては予想外の提案だったのか、漆黒の瞳が大きく見開かれる。でもすぐに、「ああ、ぜひ」とくすぐったそうに笑いながら頷いた。
それが今日の昼間のこと。けれど、海の底に沈んでいるかのように昏く静かな世界に立っていると、どこか遠い記憶に思えてしまう。
空閑に心をゆるすようになった――という自覚はある。
出会ったときに比べれば、ずっと。
当初は、他者の弱みにつけこんで支配的な振る舞いをする男という印象だった。けれどいまは、必要なものさえ素直に言えないわたしに多くのものを与えてくれ、慈しむような微笑みを向ける男へと変化した。
動物の鴉は人に飼われることはないが、意外と愛嬌があって人懐っこいと聞いたことがある。もしかしたら鴉の獣神族もまた、同じような面をもっているのかもしれない。
そう思い至ったところで、ブレーキをかけるように親友の言葉が脳裏をよぎった。
「空閑が信頼できる男だって、まだ決まったわけじゃないからね。だから…」
結婚式からわたしをさらったのは毒島のメンツを潰すためにやったことであり、謝罪も、身の安全から生活の保障まで約束してもらったこと(契約結婚とは口が裂けても言えなかった)もアリンには話した。
わたし以上に毒島に対して嫌悪感をあらわにしていた彼女からしてみれば、結婚が強制的に白紙になったことは喜ばしい結果だという。でもだからといって、空閑が善良な者かどうかはまた違う話だと。
狐の血に違わず、警戒心をあらわにしていたアリンに、今日の出来事を話したらなんと言うだろう。空閑の笑顔と優しい眼差しのことを。
午前一時を過ぎたところだが、夜型のアリンならまだ起きているかもしれない。見慣れた電話番号を引っ張り出し、スマートフォンを耳に押し当てたときだった。
ガチャッ、と玄関扉の鍵が開く音が響いた。
肩がひとりでにビクッと跳ね、胃の底が一瞬で冷たくなる。反射的にしゃがみ、キッチンカウンターの下に隠れた。震える指で呼び出しをキャンセルすると、くぐもった話し声と足音が隣のリビングに現れる。
「…を取り戻せば、慰謝料だなんだと理由をつけて、相手に押し付けられるわけだからな。あの紙はヤツにとって一発逆転の切り札だ」
「慎重に調べているんですが、いまだ在処を掴めません。すみません」
「謝罪は聞き飽きた。さっさと見つけてこい。手が足りないなら、今夜の借りを返せと本家の部下を脅してでも頭数を揃えろ」
一瞬、誰か知らない者が現れたのかと思うほど、その声は氷のように冷え切っていた。聞き慣れたはずのテノールはナイフのように鋭く尖り、相手の謝罪を非情に切り捨てる。いままで、つっけんどんな言い方をすると感じたこともあったけれど、ここまで感情を削いだ声は初めて聞いた。
いや、もしかしたら本当に、空閑ではない誰かという可能性もある。わたしはキッチンカウンターに手を掛け、おそるおそる顔を出した。リビングを突っ切って階段に向かうふたつの影を、窓から差し込む月明かりが怪しく浮かび上がらせる。
ひゅっ、と喉の奥で恐怖が唸った。両手で口を覆ったのは反射というより、食物連鎖の下部に座する動物の本能に近い。
声の主は、間違いなく空閑だった。恐怖を覚えたのは空閑が原因ではなく、彼が着ているワイシャツのせい。夕方に出かけたときは真っ白だったワイシャツが、おびただしい量の赤に染まっている。塗料ではない。血だ。乾いて赤黒く変化した血。
当の本人は涼しい顔をしていたから、鴉のものではない。それなら…と考えるまでもなかった。震える身体を抱きしめるように、きゅうっと縮こまる。
空閑と部下はわたしに気付かないまま、足早に二階へ消えていった。深い夜の底で胎児のように丸まったまま、わたしはアリンの言葉を思い出していた。
「空閑が信頼できる男だって、まだ決まったわけじゃないからね。だからミゥカの秘密は話しちゃだめよ。絶対に、話さないで」
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