第4話 越えて、重ねて — Beyond and Together
やがて静けさが降りてくる。
陽翔の呼吸は少し早い。額にかかる髪を指先で払うと、彼は目を細めた。
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「痛くない?」
「平気だ」
「嘘つくな」
「……少し」
「次は、もっと上手くやる」
「もう十分だ」
「十分じゃない。——覚えるから」
覚える、という言い方に、また少し笑いそうになる。
彼はいつだって、覚える側で、積み重ねる側だった。漢字ドリルの書き順から、レンズの焦点距離まで。そして今は、俺の息の止め方と戻し方まで。
少し沈黙が落ちて、天井の影がゆっくりと動く。
陽翔が、ふっと笑って囁いた。
「ねえ、コンビニのこと、覚えてる?」
「……ああ」
「ランドセル押されて、泣きそうになってた俺。悠真が間に入って、追い払ってくれた。あのとき、守られてうれしかった。けど——」
「けど?」
「今は、俺が守る番だって思ってる。同じやり方じゃなくていい。隣で、並んで。そういう守り方」
胸の奥が小さく鳴った。
“並ぶ”という言葉が、さっきまで荒れていた呼吸の上に静かに降りて、そこだけ温度が変わる。
「水、持ってくる」
陽翔が起き上がる。常夜灯の下で、肩の線がやわらかく動く。キッチンへ消える前に、ベッドの縁に触れて確かめるみたいな仕草をした。戻ってくる足音は速すぎず遅すぎず、いつも通りのリズムだ。
「どうぞ」
渡されたグラスは冷たすぎない。喉に心地よい温度で、さっきの生姜の余韻と混ざる。
「ついでに、明日の朝の仕込みもしたい」
「何を作るんだ?」
「卵と出汁があるから、出汁巻き。あと、浅漬け。……それと、オムライスの練習」
「朝から?」
「下拵えだけ。ちゃんと巻けたら写真送る」
「誰に」
「悠真に決まってる」
喉が熱いのは、もう生姜のせいだけじゃない。
「仕事、明日は?」
「午前はスタジオで助手、午後はロケのテスト撮影。モデルは別の人。夕方には終わるはず」
「無理するな」
「無理はしない。体力配分は覚えた。——だから、夜は空けといて」
「……予定、聞く前提なのか」
「聞いた。今」
言葉で押し切られているのに、嫌な気がしなかった。
さっき感じた恐怖は、消えたわけではない。
けれど、恐怖の輪郭が少しだけぼやけて、別の形に置き換わっていく。
陽翔が枕元のスイッチに指を伸ばす。常夜灯だけが残り、部屋の影が深くなる。
彼はもう一度だけ近づき、短いキスを落としてから、ベッドの片側に身体を沈めた。触れているのは肩と手首と、布の下で重なる足の甲だけ。それなのに、全身が満たされていく。
「夢じゃないよな」
陽翔が小さな声で言う。
思わず笑う。
「夢じゃない」
「よかった」
その一言に、夜がゆっくりと落ち着いた。
「おやすみ、悠真」
「おやすみ」
目を閉じる直前、陽翔の横顔が柔らかい影になった。
この部屋の空気、シーツの匂い、台所に残っている出汁の香り。すべてが、一つの温度で繋がっている。
——境界はもう、越えた。
そう思うと同時に、遠くで冷蔵庫のモーターが小さく唸り、夜は深く沈んでいった。
********
朝は、出汁の匂いに起こされた。
薄い光がカーテンの隙間から差し、時計はまだ八時を告げていない。キッチンから、卵を巻く微かな音がする。箸が鍋肌を撫でるやさしいリズム。
「起きた?」
エプロン姿の陽翔が顔を出す。
髪は寝癖のままなのに、表情は仕事前のそれで、どこか頼もしい。
「コーヒー淹れる」
「座ってて。すぐ出す」
テーブルに並んだのは、出汁巻き、浅漬け、昨夜のスープにご飯を落とした優しい雑炊。朝の体に、過不足がない。
「……お前、ほんとに年下か」
「年下だよ。六歳。そこは変わらない」
「他が色々変わりすぎだ」
「変わったんじゃない。戻った」
「何に」
「“守られる側”じゃなくなる前に戻るのは無理だけど、“並ぶ”ところまでは戻れる。俺が望むのはそこ」
出汁巻きの断面が、淡い層を重ねている。
その層と同じように、言葉が静かに重なった。
「六歳差はさ、埋めるんじゃなくて——越えて重ねるものだと思う」
「越えて、重ねる」
「うん。段差を平らにするんじゃなくて、互いに乗り越えた上で、同じ景色を見る。昨日の俺たちみたいに」
箸がふっと止まる。
こいつは本当に“覚える”人間だ、と心の中で苦笑した。
「夜、また来る?」
陽翔の問いは、いつも通りに聞こえるのに、一拍遅れて胸に落ちる。
「——来る」
自分の声が、思ったよりも穏やかだった。
怖さは消えない。けれど、怖さより先にこの生活の細部を覚えたくなる。フライパンの置き場所、出汁の取り方、朝の光の入り方。そういう具体で未来が少しずつ形を持つ。
「じゃあ、オムライスの練習の成果、見せる」
「写真だけじゃなくて、味も」
「もちろん」
食べ終えた皿を手に取ると、陽翔はすぐに立って流しへ向かった。
卵の殻を二つに割って内側を軽くすすぎ、まとめて水切りかごに伏せる。布巾をさっと湿らせ、コンロ周りの細かな飛びを拭う。
その一つひとつが、ここに生活を築こうとする意思に見えた。
俺はコーヒーを淹れながら、その背中をぼんやりと眺める。
ささやかな音だけが部屋に満ちていく。湯の沸く音、食器が触れ合う小さな響き、窓の外で誰かが自転車のブレーキをかける気配。
「観察、続けてるのか」
「もちろん。被写体としても、生活相手としても」
「二足のわらじだな」
「そうじゃないと、六歳差は——」
「——越えて重ねられない、か」
陽翔は振り返り、満足そうに頷いた。
カップを受け取り、熱の少し先で息を吹きかける仕草まで、いつの間にか俺の好みをなぞっている。
「じゃあ、行ってくる」
「うん。気をつけて」
玄関で靴を履きながら、ふいに振り返る。
台所のライトが朝の白さに溶け、乾きかけの布巾が静かに揺れていた。
「——また、夜」
「また夜。オムライス、約束」
扉が閉まる直前、出汁とコーヒーの混ざった匂いが、胸の奥にやさしく留まった。
境界を越えた夜の続きに、当たり前の台所の音がある。
その当たり前が、今はまだ、奇跡みたいに思えた。
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今回のお話は、YouTubeで配信している楽曲「越えて、重ねて — Beyond and Together」とリンクしています。良かったら、楽曲のほうも聴いてみてくださいね♫
「越えて、重ねて — Beyond and Together」はこちら⇒ https://youtu.be/LPs4Pe5LSM0
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