第3話 夜を越えて — Beyond This Night

 玄関を開けた瞬間、湯気に混じる生姜の匂いが胸の奥まで降りてきた。

 雨粒を連れてきたコートを脱ぐより先に、喉が鳴る。


「遅かったな」


 台所から陽翔の声。エプロンの紐を片手で結び直し、もう片方の手で木べらを揺らしている。鍋の中では鶏団子が小さく浮き沈みし、葱と三つ葉が表面を泳いだ。


「……結構作ったな」


「二人分だよ。当たり前だろ」


 当たり前。

 その言葉が、背中に溜めてきた冷気をやわらげる。


「手、洗って座って。すぐよそうから」


 言われるまま洗面所に向かう。鏡の中の自分は、雨と仕事の残り香をまとって少し疲れた顔をしていた。タオルで水気を拭って戻ると、テーブルにはいつの間にか二人分の椀と小鉢が並んでいる。大葉を刻んだ香り、胡麻油をほんの一滴落とした香りが、ひとつの夜にまとまっていた。


「いただきます」


「どうぞ」


 一口すする。生姜が舌の奥で弾けて、体の端まで火が灯る。塩は控えめ、出汁はきちんと濃い。優しいのに、芯がある味だ。


「……うまい」


「撮影が長引くと、体が温度を欲しがる。現場で覚えたんだ」


 陽翔は笑って椀を置いた。指の節に、ストラップで擦れた薄い跡がある。テーブルの隅には、レンズキャップとメモリーカードのケース。仕事帰りにそのまま台所へ直行したのが分かる配置だ。


「今日はアシスタント?」


「昼は助手、夕方はモデル。照明合わせで呼ばれて、そのまま差し替え。時間が押して、飯抜き」


「で、夜食を作った」


「そう。……それと」


 言い淀んだ陽翔が、視線を一瞬だけ落とす。

 その短い間に、鍋の沸きがほんの少し強くなった音がした。


「来てほしかった。だから、呼んだ」


 椀の湯気が目にしみるみたいだった。

 言葉を返す代わりに、もう一口すする。喉を通る温度が胸に残る。


「葱、もう少し要る?」


「十分だ」


「じゃあ、雑炊にしよう。米、少しだけ」


「太らないか?」


「この時間にラーメン食べに行くより、百万倍まし」


 言い切って、陽翔は炊飯器の蓋を開けた。しゃもじで少量をすくい、湯気に紛れて白い粒が落ちる。木べらで鍋底をこすり、火を弱める手つきが迷いない。


「……前から思ってた」


「何」


「お前は年下なのに、こういうところだけ年上だ」


「“こういうところだけ”じゃない」


 笑いながら、陽翔が俺の椀を引き寄せて雑炊をよそう。手首の角度、盛りつけの高さ、全部が見栄えを知っている人間の所作だった。


「写真も料理も、構図と温度。似てるんだよ」


「温度?」


「撮る時、体温が合わないと表情が浮く。料理も、温度を外すと味が死ぬ。……悠真、今日は冷えてた」


 匙が止まる。

 さっき交差点で見た光景が、雨粒みたいに視界の端で弾けた。瑛司の顔、掴まれた手首、あの距離。言葉にしない影が脈を打つ。


「顔に出てた?」


「出てる。仕事の疲れだけじゃない。もっと、先のこと考えてる顔」


 匙が器に当たる音が細く鳴る。

 陽翔は無理に笑わない。ただ、台所の白い灯りの下でまっすぐに見てくる。


「……三十になるのが怖いとか、そういう話なら、俺はもう聞いた。だから、答えは変わらない」


「答え?」


「ノックするよ、って言っただろ。もう叩いてる」


 不意に、陽翔の手がテーブルを越えて伸びた。指先が俺の指に触れる。軽い。けれど確かだ。


「食べろ。冷める」


 言葉はいつも通りなのに、触れた温度のせいで、雑炊の湯気が別の匂いに思える。

 最後の一口まできれいに平らげると、陽翔は満足そうに頷いた。


「ごちそうさま。……洗う」


「いい。置いといて。後で俺がやる」


「いや、やる」


「じゃあ一緒に」


 並んで立つ。

 流しに皿を渡すたび、肩が触れそうで触れない距離に神経が集まる。

 スポンジを受け取ろうと伸ばした手の甲に、泡がついて滑った。陽翔の指がそれを拭って、ほんの一瞬、指先の腹が俺の手の甲を撫でる。


「……わざと?」


「どっちだと思う」


 陽翔は笑わずに問う。

 蛇口を止める音が、部屋の音を一段静かにした。


「寝る?」


 あまりにも自然な声だった。

 心臓が、皿の縁を打ったみたいに跳ねる。


「——勝手に決めるな」


「決めてない。聞いてる」


 灯りが少し落ちる。廊下の先、ドアの縁に影ができる。

 陽翔は歩幅を合わせ、肩を触れさせない距離のまま、ゆっくりと近づいてくる。


「悠真」


 名前を呼ばれるだけで、背骨が熱を持つ。

 壁際に立たされると、さっきの交差点のネオンではなく、柔らかな橙色の灯りが頬を照らした。陽翔が片手を壁につく。逃げ道はある。けれど、逃げる気がない。


「もう“兄ちゃん”じゃない。覚えてる?」


「覚えてる」


「じゃあ、見て」


 顎に添えられた指が、軽く持ち上げる。

 影を落とす睫毛の奥で、瞳がわずかに笑った。距離は拳ひとつ分より近い。


 触れる。

 今度は軽くなかった。

 深くもどかしい呼吸の合間に、舌の先で確かめるみたいな慎重さが混じる。唇の温度が揺れて、背中の壁が遠くなる。指先でシャツの布を撫でる感触が、布よりずっと生々しい。


「待って」


 言ったのは俺の方だった。

 陽翔は止まる。すぐに離れない。額を寄せて、呼吸を整える時間をくれる。


「怖い?」


「少し」


「俺は、怖くない。……だから貸して」


 貸して、という言葉の選び方に、笑いそうになった。

 笑えないまま、目を閉じる。

 再び触れた唇は、先ほどよりもゆっくりで、長かった。肩から力が抜けていくのが自分でも分かる。


 寝室のドアが静かに閉まる音。

 灯りは完全には落とさない。ベッドサイドの小さな常夜灯が、輪郭だけを残す。


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 シャツのボタンに触れる手が、急がない。指が一つずつ確かめるたび、胸の内側で別のボタンが外れていく。慣れない手つきで、少しもたつく。陽翔の指先が、時折、肌を掠める。そのたびに、熱が奔った。


「寒くない?」

「大丈夫だ」

「本当に?」

「……お前がいる」


 陽翔が呼吸を飲み、喉の奥で微かに鳴らした。

 言葉の代わりに、鎖骨の下に落ちる熱が増える。唇が肌を這い、首筋を甘く噛む。くすぐったいような、痺れるような感覚が背中を駆け上がった。


 手のひらが腰に回る。強く抱き寄せられて、体温と体温の隙間がなくなる。服の上からでも分かる、陽翔の体温の高さ。シーツの端を握りしめる。


 服が剥がされていき、互いの肌が直接触れ合う。馴染みのない感覚に、体が強張るのが分かった。陽翔はそれを感じ取ったのか、動きを止める。


「怖いなら、止める」


 陽翔の声は、いつもより少し低い。真剣な眼差しが、常夜灯の光を受けて揺れた。


「……怖くない、と言ったら嘘になる」


 正直に答えた。不安がないわけではない。この先、何が起こるか分からない。それでも、陽翔を拒むことはできなかった。


「でも、お前を求めているのは本当だ」


 陽翔は満足そうに微笑むと、額を寄せ、囁いた。


「俺もだよ、悠真。ずっと」


 ゆっくりと、優しく、まるで大切な宝物を扱うように、指が肌をなぞる。熱い吐息が耳にかかり、全身が粟立った。陽翔が、俺の知らない場所に触れてくる。びくりと体が跳ねるたび、「大丈夫」と囁きながら、何度もキスを落とした。


 息が苦しくなってきた頃、陽翔が俺の上に体を重ねた。視線が絡み、その瞳に自分が映っているのが見える。


「悠真、いい?」


 最後の確認だった。俺は言葉の代わりに、彼の首に腕を回して頷く。

 ゆっくりと、熱い楔が打ち込まれる。未知の感覚に息を詰めた。体の奥をこじ開けられるような鈍い痛みに、思わず顔をしかめる。


「……っ、陽翔……」

「痛い? ごめん、少しだけ、我慢して」


 陽翔はすぐには動かず、俺が慣れるのを待ってくれた。背中を優しく撫で、髪にキスを降らせる。その気遣いが、強張った体を少しずつ解していく。痛みが和らぎ、代わりに彼の熱が体の芯まで満たしていくのを感じた。


「……大丈夫か?」

「ん……」


 俺の返事を合図に、陽翔がゆっくりと動き出す。最初は慎重に、浅く。俺の呼吸が乱れ、腰が微かに揺れるのに合わせて、少しずつ深く、大きく。

 痛みはいつしか、甘い痺れに変わっていた。シーツを掴んでいた指が、彼の背中を求める。


「はると……もっと……」


 自分からねだった言葉に驚く。陽翔が、低く唸るように応えた。リズムが速まり、二人の体が熱く溶け合っていく。深く潜って、浮上して、目が合うたびに名前を呼ばれる。呼ばれるたび、何度でも現実に戻れる。


 視界の端に、カメラのストラップが椅子の背に掛けられているのが見えた。撮る側の彼が、今はただ俺だけを見ている。レンズ越しではなく、生身の目で。


 もう何も考えられない。ただ、陽翔の熱を感じていたい。


 限界が近いことを、互いの呼吸で悟る。陽翔が俺の手を取り、指を強く絡めた。


「悠真、見て」


 言われるままに目を開けると、苦しそうに、けれど幸せそうに歪んだ陽翔の顔があった。


「悠真……っ」


 名前を呼ばれると同時に、体の奥で熱が弾けた。頭の中が真っ白になり、陽翔の肩に顔を埋める。遅れて、陽翔の体が大きく震え、温かいものが内側に注がれるのを感じた。


 しばらく、重なる呼吸の音だけが部屋に響く。汗ばんだ肌が触れ合う感触が、夢じゃないことを教えてくれた。


 何かを誓うには早すぎる。けれど、何も約束しないには近すぎる距離で、俺たちは互いの温度を覚え直していく。

 陽翔がゆっくりと体を離し、隣に横たわった。絡めた指は、解かないまま。


「……悠真」

「……ん」

「好きだ」


 その声は少し掠れていて、けれど、今まで聞いたどんな言葉より真っ直ぐに胸に届いた。

 俺は、ただ強く指を握り返した。

 夜はまだ、始まったばかりだ。



**************


今回のお話は、YouTubeで配信している楽曲「夜を越えて — Beyond This Night」とリンクしています。良かったら、楽曲の方も楽しんでくださいね♫


「夜を越えて — Beyond This Night」はこちら⇒ https://youtu.be/0D0veXjsu9E

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