信都(しんと)

信都 その1

 信都しんと


 男は自分の夢想にきょうが乗っていたが、それが事実と合致するかを確かめようと史書をながめて嘆息する。声に出して曰く「この褒賞ほうしょう封爵ほうしゃく脈絡みゃくらくの無さは如何に」

 しばし、机の周りを歩きめぐって考える。数回廻った末に腰掛けに座すと曰く「信賞しんしょう必罰ひつばつ、何時でも何処でも同じであろう。功があれば号を与え、更なる名を与え、封爵し、さらに封爵を重ねる。史書が書く脈絡の無い褒賞をその通りに信ずるいわれは無い。これは功為りし時の前約束為り。何しろ車一つで旅すれば持っている珍宝ちんぽうなぞ無い。勝てば封土は敗死者からもぎとれる。負ければ死して気に掛ける必要も無い。となれば号や名、爵を愛惜する必要も無い」


 劉秀りゅうしゅう一行、先ずは邳彤ひとうの斥候に出会い、敵兵かと思いきや、和成わせい郡の精鋭が信都まで送ろうとすることを知って安堵あんどする。他方、信都太守任光じんこう孤守こしゅ全うすることあたわぬと恐れたが、和成太守らが至り、だい司馬しば劉秀、信都郡に至ると聞いて大いに喜び、吏民りみんみな万歳の声を上げる。劉秀一行が邳彤の兵に守られて城門に至れば、即時に門を開けて、任光・李忠りちゅう万修ばんしゅうが共に官属かんぞくひきい、更に邳彤が迎えてえっする。

 劉秀、伝舎でんしゃに入れば、李忠、劉秀の長く衣帯を脱がず、衣服あかじみて薄しに気づく。そこで、李忠、衣服をご用意いたしましょうというと言えば、劉秀、じゅを帯から解いて李忠に帯びさせ、長襦ちょうじゅを解いて李忠に洗わせる。李忠、即ち、新しき袍袴ほうこと絹のしょう単衣ひとえ足袋たびを用意させ、これをたてまつる。よって当初すぐさま評定ひょうじょうしようとするも、身支度じたく・腹支度を先にととのえることとなったが、劉秀、その間にも、南下の最中に起こった出来事、既に張万ちょうばん尹綏いんすいから聞いていたこともあるが、それを尋ねる。

 皇帝劉玄りゅうげん洛陽らくようから長安ちょうあん遷都せんとを始めた。これは劉秀が洛陽にいた頃から分かっていたことである。皇帝劉玄に対して皇帝を僭称せんしょうし、劉秀を賞金に掛けた王郎おうろうは、依然として邯鄲かんたんに留まって、げきによって州をべようとする。これにくみするあたわぬは、任光・邳彤、そして劉秀の一致する見解であった。

 王郎になびく勢力は、またたく間に広がったが、多勢に逆らうのは得策でないと、豪族の大方は表面上、服しているようである。真定しんてい王等は、まさにその状態であった。

 北の噂は、劉秀が知る以上のことは不明である。漁陽ぎょよう上谷じょうこくがどう動いているか、予測がつかない。

 東南は、劉林りゅうりんが怖れたような赤眉せきび軍はおらず、城頭じょうとう子路しろちょう子都しとの軍がある。城頭子路は東平とうへいの人で姓はえん、名はそう、字は子路と云い、じょう劉詡りゅうくと共に兵を泰山たいざん県は城頭に起こした。兵は二十万に至る。劉玄が立つと、子路は使いをって下り、子路はとう郡太守、劉詡は済南せいなん太守に拝し、二人とも大将軍を兼ねた。刁子都は東海とうかいの人である。兵を郷里に起こして、ふくれて六、七万となる。劉玄が立つと、刁子都も使いを遣って下り、よってじょぼくに拝されたと伝わっていた。


 ようやく評定の段となって、各自座に付けば、劉秀、任光に問いて曰く、「伯卿はくけい、今勢力虚弱きょじゃくであれば、共に城頭子路、刁子都の兵中に入ろうと思う。如何いかん

 任光答えて曰く「不可なり」

 南下の際に様々な方策を考えた劉秀、一時は命を長らえられるが、下手をすれば、劉玄の様に旗頭はたがしらに祭り上げられるが、実権を奪われ、最悪、皇帝劉玄に対する賊軍ともなる下策をも考えていた。それを任光は一蹴いっしゅうした。

 劉秀、内心ほっとするも重ねて問いて、曰く「卿は兵少なし。如何せん」

 任光答えて曰く「精鋭の兵をつのり、出陣しては近隣諸県を攻めるべし。し諸県が降らなければ、兵のほしいままにこれをりゃくすることを許しましょう。人は財物をむさぼるを喜ぶものであれば、兵忽たちまち集まりましょう」

 劉秀、香餌こうじの下には必ず死魚しぎょ有り、重賞の下には必ず勇夫有りを知るゆえ、任光の計を然りとする。

 次に、どういう戦略を立てるかという段になって、信都の兵を借りて皇帝劉玄の下、長安に至ろうという議が劉秀一行の中から上る。劉秀、これは得策ではないが、さりとて逆らう気持ちも我にはないと、一同をながむれば、邳彤が渋い顔をしているので、邳彤に尋ねる。邳彤の和成郡、昔鉅鹿きょろく郡の一部であった小郡である。その小さな郡の太守が生き残るためにと考えたのは、長安の皇帝劉玄が派遣した行大司馬劉秀にすがることである。その劉秀が去ると云う、邳彤にとってこれは不味い、このまま劉秀に去られれば、自分の首が飛ぶ。では、如何にして劉秀を留めるかと、そこまで考えていた所に、劉秀が問いを発した。

 邳彤、問いに答えて曰く「議者の言、誤りなり。吏民、謳歌おうかしてかんしたうこと久し。故に今上帝は尊号を上げ、それに天下は饗応きょうおうし、関中かんちゅう三輔さんぽは宮を清め道をはらい、以て迎えようとする。一夫げきにないて、大声で帝の名を呼べば、千里をめぐる将も城を捨てて遁走とんそうしない者は無く、りょは伏して降ることをう。上古じょうこ以来、未だ物を感じさせて民を動かせること、それくのような者は有らず。今、卜者ぼくしゃの王郎は名をかたり勢いをたのんで、烏合うごうの衆を駆り集めて遂にえんちょうの地を震わす。いわん明公めいこうは二郡の兵をふるい、饗応の威を揚げるをや」

 邳彤、言わんとするは、劉秀が皇帝劉玄の名の下に兵を集めれば、王郎等、一堪ひとたまりも無いということである。

 邳彤、続けて曰く「以て攻めれば、即ちいずれの城かたざらん。以て戦えば即ち何れの軍か服せざらん。今、これを捨てて帰れば、只空むなしく河北かほくを失うのみならず、必ず更に三輔を驚動きょうどうさせ、威厳をおとそこなおう。良計にあらず。若し、明公征伐せいばつの意無ければ、即ち信都の兵といえども一堂に会するはかたし。何となれば、明公西行せいこうすれば、即ち邯鄲が成り立ち、民は父母を捨てて城主に背いて千里の向こうに公を送ることをがえんじず、その兵の離散りさん逃亡すること必至ひっしなり」

 劉秀、邳彤の言や善しと言い、長安に帰らん議は即ち止む。

 遂に評定まとまれば、劉秀、即座に王郎を撃つ命を発す。即ち、将軍鄧禹とううには副将銚期ちょうき傅寛はくかん呂晏りょあんをつけて、任光の言の通り精鋭の兵を募らせる。馮異ふうい他、主だった者も兵を募らせるため、各地に放つ。

 その一方、信都郡から、太守任光を大将軍と為し武成ぶせい侯に封じ、兵を率いさせて従わせる。そして南陽なんよう人の宗広そうこうとどめて太守を代行させる。都尉とい李忠を大将軍と為し武固ぶこ侯に封じ、兵を率いさせて従わせる。信都県令万修を偏将軍へんしょうぐんと為し造義ぞうぎ侯に封じる。信都軍、計精鋭二千。和成郡から、太守邳彤を大将軍と為し武義ぶぎ侯に封じ、太守はそのままに、兵を率いさせる。五官ごかんえん張万と督郵とくゆう尹綏、それぞれ偏将軍と為し重平ちょうへい侯、平台へいだい侯に封じる。和成軍、計精鋭二千。

 劉秀自らは手始めに任光の信都軍・邳彤の和成軍の四千の兵を率い、鉅鹿の県を下そうと欲す。

 即ち、多くの檄文を作って曰く「司馬劉公、城頭子路と刁子都の兵百万を率いて東方より来たり、諸々もろもろ反虜はんりょを撃つ」

 騎を以てこれを鉅鹿との境に至らせる。吏民は檄を得て、相伝あいつたえ、あいこくす。劉秀の軍、邳彤まず前線に出で、鉅鹿郡堂陽どうよう県に至る。堂陽、既に王郎に属すれば、邳彤、張万と尹綏に吏民をさとさせる。日暮れて劉秀、任光と共に堂陽に至れば、騎馬をして、各々松明たいまつを持たせ沢中を埋め尽くさせる。水面みなもはえる光も加え、光炎は天地を照らし、堂陽は城を挙げて震えおどろき、おびえぬ者は居らず、即ちその夜降る。

 鄧禹は数千人の兵を集めて戻り、銚期が楊氏ようしまで足を延ばして兵を得た故、独断で偏将軍と為し兵二千を預けましたと報じ詫びるが、劉秀は返して曰く「兵が増えれば、我も将を得ようと欲す。禹の裁量や好し」

 やがて信都郡の北東の河間かかん郡まで遠出していた馮異も兵を集めて戻る。劉秀、馮異を偏将軍と為す。益々ますます、将を為すべきと劉秀は、賈復かふく朱祐しゅゆう祭遵さいじゅん臧宮ぞうきゅう堅鐔けんたん杜茂とぼ朱浮しゅふ侯進こうしん叔寿しゅくじゅ鄧隆とうりゅう鄧満とうまんらを、兵を集め城を下した功に合わせ、次々に偏将軍と為した。

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