饒陽 その2

 人、貧すれば、生きるに当って取るに足らないものは捨てられる。それを捨てれば人で無くなるものを除けば、如何いかに無駄に身に着けていることか。劉秀、この危機に当って、実直を捨てようと決意した。

 劉秀、諸将に向かって曰く「饒陽の城に、我、邯鄲の使者として入ろう。今敵とする王郎は劉子輿をかたっている。ならば騙る者をして騙ろう」

 諸将、驚く。劉秀は、朱祐しゅゆう祭遵さいじゅん朱浮しゅふらが反対するであろうと思う故に次のようにく。驚くには当らない、王郎は敵であり、その敵にくみするは敵である。敵をだますのに恥じねばならないか。王郎の裏をくのはやましいことか。宋襄そうじょうの仁という故事がある。宋の襄公が、わざわざ、渡河する敵であるに体制を整えさせ、それで大敗した。よってらぬ礼儀立てを宋襄の仁と言う。勝つために戦うのである。よって戦いに於いて宋襄の仁は無用である。諸将同意し、即ち、劉秀、邯鄲の使者を騙って、饒陽に入城し、伝舎でんしゃに入る。

 伝舎のつかさ、食を進めようとすれば、従者たちは飢えていれば争ってこれを奪い合う。伝舎吏、これをいぶかしげに思い、計略を打つ。即ち、合図の太鼓を数十回わざと叩かせ、「邯鄲の将軍至る」と言う。途端、劉秀のかんぞくは色を失う。

 劉秀、車まで出向きのぼって出立しゅったつしようと席を立つが、既に免れまいと、おもむろに席に戻り、吏に言いて曰く「請うらくは、邯鄲の将入られんことを」

 吏、わずかに戸惑いて曰く「だく

 劉秀、その戸惑いから、計と知る。劉秀、従者らに十分に休養を取らせて、車に上って去る。饒陽を出ようとすれば、伝舎から門を閉ざせと声が届き、門は閉ざされる。しかし、門番の亭長ていちょう、配下に曰く「天下はどうなるか分からぬ。それなのに信望を集める人を閉ざすか」。即ち、門は再び開き、劉秀は南へ進む。


 一行は昼夜問わずに、霜雪そうせつの旅を冒す。天は寒く、顔はあかぎればかり、野宿すれば、厳寒期ゆえ関節がきしみをあげる。劉秀、虖沱河の渡しから半日の所へ来たれば、放った斥候せっこうから河は氷がけて水が流れ、舟が無くて渡れずと聞く。官属は本当かと怖れ、劉秀は王覇おうはって確かめさせる。

 王覇、馬を走らせその河岸に至れば、河水は中央で融けて水は流れる。岸伝いに馬を歩ませてみても、舟は一艘いっそうとて見えぬ。はあと嘆息すると、王覇、馬をやなぎに繋ぎ、河に出る。岸の氷は厚いかと、片足で強く踏むと、もう片方の足が滑って、どうと倒れる。しかし、氷は割れなかった。そこで、王覇、やおら立ち上がると、どこまで行けるかと河中まで摺足すりあしで進む。氷がきしむを足裏に感じれば、そこでたたずむ。一歩、二歩、三歩、目で見る限り、後三歩氷がしっかり張っていれば渡れる。しい、僅かに渡れぬと、きびすを返して、馬の所に戻る。日は暮れて、残照ざんしょうが僅かにえる。天は既に煌々こうこうと光る月とさざめく星に満ちた夜におおわれようとしていた。雲は僅かに見えるのみ、王覇が見上げた処にはみ切った冬空があった。そこを夜風、冬ゆえの寒風が吹き抜けるゆえ馬はれてひずめを鳴らす。王覇は思う、昨日もそうであった。こんな晴天の明け方は、只、凍えるのみならず関節が軋むほど冷え込む。王覇、視線を虖沱河に向ければ、目を見開く。途端、虖沱河は眼中から消えた。王覇、しと一声上げると、馬を走らせ陣営に戻る。

 王覇、劉秀に曰く「氷堅くして渡れ申す」

 劉秀答えて曰く「斥候め、しっかり確かめずに妄言もうげんを吐いたな」

 王覇付け加えて曰く「渡るには氷がゆるまぬ夜明け前がよろしゅう御座います。従って夜明け前に河岸に着くよう出立するのが最善で御座いましょう」

 よって一行は、王覇の言う通り、夜半に起こされると、明るいが熱をもたぬ月光の下、明け方直前に虖沱河に着こうと進む。寒々とした月が道を照らし、寒風が吹きすさぶ中、一行は背を丸めて、かちのものは足早に進む。夜が明けてまもなく、虖沱河に着いてみれば、河はまさしく凍っていた。王覇が見守り、渡れるのを確かめると、劉秀は事前に王覇の言っていた通り、袋に砂を詰めさせたものを、凍れる河の上に敷かせる。砂によって馬も人も倒れずに渡って行けた。やがて、日が昇り、殆ど渡り終えて、残りの数両の車を動かそうと従者たちが岸に向おうとして、氷が割れてしまった。幸いにも落ちた者も救い上げられ、命を落とす者はいなかった。

 渡河後に王覇、劉秀の前にひざまずいて曰く「我、夕暮れに見た時、河は凍らず。斥候の告げる通りなり。河、夜半に凍ると思えば、衆を驚かせることを怖れ偽った所存なり」

 劉秀、一瞬、目を見開いたがそれを細め、口許くちもとゆるめると王覇を立たせて、曰く「我が衆を安んじて渡り免れることを得させたのは、卿の力なり」

 王覇、謝して曰く「これは明公めいこう至徳しとく、神霊のたすけなり。しゅう王の白魚の瑞祥ずいしょういえども、これにまさること無し」

 周の武王が、いんちゅう王を討つ為に孟津もうしんを渡る際に白魚が船に飛び込んだ。王覇、その吉兆に勝ると言うのである。

 劉秀、官属に言いて曰く「王覇は方便で事を行った。殆ど天の瑞祥なり」

 すなわち、劉秀、王覇を軍正ぐんせいと為し、関内侯に封じる。


 信都郡に入った劉秀一行、しかし、当て無く考え無しに、指南に従い南下を続ける。鄧晨の守る常山郡に入れば、何とかなる。しかし、それが遠いとなれば在って無き様な当てであった。

 博水はくすいの浅瀬を渡れば、下博かはくの西に出る。先を行く斥候が気付けば、そこに白衣のおきなが路傍に座っていた。翁は、真南を指して曰く「努力せよ、信都郡は長安のために守る。ここを去ること、徒歩で一日」

 斥候、翁に礼をして本陣に戻るや、劉秀に伝える。劉秀一行が翁のいた所まで至ると、翁の姿はなく、一行は神人かと噂する。しかし劉秀・馮異らは、道中の見張りであろう、信都の中央に伝えるために居なくなったのだと判断するが、瑞祥と言われるものを無碍むげにはせず、神人が言うのなら、その信都へと、格段に意気を上げて進む。


 上谷郡昌平しょうへいでは、耿弇こうえんがすぐさま兵を率いてけいに攻め込むことを言うが、太守の父耿況こうきょう・次官の景丹けいたんが、あと半日、僅か半日と、漁陽に行った寇恂こうじゅんの帰りを待たせる。耿弇、状況が手に取るように分かる故、黙って父親らに従おうとする分別があった。しかし、ただ待つよりはと伝者をって、薊城に内応させようと頼りになる知己ちきげきを送って、後はじっと堪える。

 還り来る寇恂、即座に王郎の将を斬り、その軍を奪う。即ち、上谷郡、王郎に反し劉秀に附くを明らかにする。次に、寇恂に約した漁陽の彭寵ほうちょうが昌平に兵を送れば、漁陽・上谷の突騎とっきけいへ侵攻する。上谷の将、景丹を頭に、寇恂・耿弇ら、騎馬兵二千、歩兵千、漁陽の将、呉漢ごかんを頭に、蓋延こうえん王梁おうりょう厳宣げんせんら、騎馬兵二千、歩兵千。たちまち薊を包囲し、内から応じて門が開かれると、人馬は怒涛どとうの如く雪崩なだれ込み、その日の内に薊は陥落した。けれど、そこに劉秀らは居らず、ただ生き延びて南へ去ったと言う話を聞くのみである。旗頭はたがしらがいなければ、上谷・漁陽の軍は賊軍ぞくぐんとなる。

 それは分かってはいるが、景丹、劉秀を探すのは斥候に任せ、本軍は劉秀を追わず、王郎に附く薊や周辺を下そうと言う、曰く「先ず、上谷・漁陽が味方にくという知らせを聞けば、大司馬はいらっしゃられる。我らが追って敵と間違われるよりも安全である。次に、手土産を持って参上するのが、上谷・漁陽の真価を大司馬に認めさせるのに良かりましょう」

 寇恂が耿弇に言うに曰く「御曹司おんぞうし、大司馬には上谷・漁陽の突騎を従えれば、邯鄲は落とせましょうと話されたそうですが、ならば実際に邯鄲の兵を片端から斬り伏せて御覧ごらんにいれませぬか」

 一同納得する。薊を落としたれば、王郎の将趙閎ちょうこうに故広陽王の子劉接りゅうせつの首を打ち、合わせて周辺の県を下していった。しかし、放たれた斥候は劉秀の行く先を追いかねた。隣県に入ったという知らせは一報も無く、足取りは消え失せていた。劉秀らは追われるかも知れぬと、馮異の機転で車馬の後を掃き清めて進んでいたのである。

 この劉秀ら一行の足取り、不幸中の幸いと言うべきか、邯鄲の王郎親派も探しあぐねていた。漁陽・上谷の幽州の劉秀親派も再び騎馬斥候を放って探すも見つけられなかった。機動力を誇る幽州突騎の斥候にしても、本軍を遥か遠くに進んでは意味はなく、また前方の城塞の動静も伝えなければならないとあれば、劉秀のみを追えぬと、自ずとその広い捜索範囲をしても限りを為した。劉秀は只管ひたすら南下していたため、その圏外にあった。信都・和成の劉秀親派も劉秀の行方を捜索し、或いは動向をうかがっていたが、畢竟ひっきょう、彼らと、手勢の及ぶ範囲しか探れなかった。よって劉秀が信都郡に入ったことを一早く知ったのは、周囲に間者を放っていた、下曲陽に座する和成太守邳彤であった。劉秀が薊で兵権を失い、今、信都に向うと聞けば、郡の五官掾の張万ちょうばん督郵とくゆう尹綏いんすい精騎せいき二千余りを率いさせ、劉秀の道すがらを出迎えさせ、邳彤自身は信都へ向かう。

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