饒陽(じょうよう)

饒陽 その1

 饒陽じょうよう


 王郎おうろうが立った時、州・ゆう州の全てが王郎になびいたわけではなかった。多くの郡県は先ず兵を集め、城を守り、評定ひょうじょうによってどうすべきかを問うた。その上で王郎に靡くべきと決める、或いは様子見を決め込んだ。また県とそれを束ねる郡ではまた対応が異なることも往々にしてあった。皇帝劉玄りゅうげんによって太守・県令となった者も、先ずは城を守った。常山じょうざん郡の太守鄧晨とうしんがまさにそうであった。冀州の一番の勢力は真定しんてい劉揚りゅうようであるが、上辺うわべはただ皇帝に従うものとして様子見を決め込んだ。しかし、その郡県の中にはわずかだが、明確に皇帝劉玄にこうとする所もあった。

 和成わせい郡太守の邳彤ひとうは、王郎の挙兵を聞く僅か前に、ぎょうだい司馬しば劉秀りゅうしゅう曲陽きょくように出迎えていた。劉秀を歓迎した、その舌の根も乾かぬうちに王郎にはきがたい。それに王郎に降っても、先に劉秀に降った事をとがめられるかもしれない。また大司馬劉秀の人物を知れば、見知らぬりゅう子輿しよに附こうとは考えられなかった。

 和成郡に接する信都しんと郡では、そもそも太守任光じんこう自身、皇帝劉玄によって洛陽らくようから派遣され、劉秀とは昆陽こんようで共に戦った間柄あいだがらである。従って王郎にはとても附けない。王郎に降って、斬られることも有り得ると考えた。都尉とい李忠りちゅうも信都令の万修ばんしゅうも、功曹こうそう阮況げんきょうかんえん郭唐かくとうらもことごとく心を同じくする。扶柳ぶりょう県のていえんが王郎のげきを持って郡府に至って、任光に王郎に応じるべしと申せば、任光これを市に斬って見せしめと為し、信都県に城守する。

 信都郡に接する鉅鹿きょろく郡の昌成しょうじょう県では、太守の意向とは別に、豪族である劉植りゅうしょくが弟劉喜りゅうき従兄弟いとこ劉歆りゅうきんと宗族賓客ひんきゃくを束ね、兵数千で先ず城を守った。そして評定を開いて、どうすべきかを衆議する。劉子輿に附くべきか、いな、声望の聞こえた大司馬劉公、すなわち長安の皇帝に附くべきなり。しかし、その結果一族いちぞく郎党ろうとうが滅びては元も子もない。勝敗のみを考えるなら、大事は趨勢すうせいを決める真定王劉揚である。では真定王劉揚に従うか。いや、あの優柔者が自ら動くとは思えない。望ましくは、真定王劉揚が劉秀に靡くことである。そもそも大司馬劉公は今何処いずこにおられる。劉植ら城を守ったまでは良かったが、迂闊うかつに動けない。

 鉅鹿郡宋子そうしではこれまた豪族であり大司馬劉秀に心から靡く耿純こうじゅんが従兄弟たちと一族郎党で、太守の意向とは別に城を堅守していた。耿純らは劉公が薊まで撫循ぶじゅんしたまでは知るが、それ以後は知らず。せいぜい間者を放って動向をうかがうしか手を見出せなかった。


 ほとんど兵らしい兵を持たない劉秀は、こういった冀州の郡県の様子も知らず、幽州の漁陽ぎょよう上谷じょうこくの胎動も知らず、王郎の影におののいて、指南しなん、盤上のさじ、くるりと回せば常に南を指して止まる、それを見てそれに従い涿たく郡をただ南下していた。

 日中夜間、王郎に加勢し劉秀らを捕えようとする城を避けて行軍こうぐんする。陰郷いんごう広陽こうよう迂回うかいし、ただの一昼夜を過ぎると、劉秀らの飢えは堪え難くなる。最後の夕餉ゆうげを食せなかったことを悔やむ。それでも食い扶持ぶちを持たせるため、二食を一食として耐える。夜は夜で、新春の夜は未だに寒く、それまでの風雨を避けて宿営してきた身を考えると、夜半、野宿で寒さを堪えるのはひどく辛い。飢えて眠れず、凍えて眠れず、こんぱいして朝を迎える。それでも、方城ほうじょう臨郷りんごう新昌しんしょうり抜けて、勢いなく南下する。僅かな手持ちの兵糧もついには尽きる。河川で喉の渇きをいやせるものの、空腹を抱えて、阿陵ありょう高陽こうようの間を無口にただ通り過ぎる。

 そうして、涿郡の南部、饒陽県に入る。ここを越えれば信都郡、しかしそうは言っても、信都の動静を知らぬ劉秀ら、信都に入った所で何が出来ようと思う。ただの数日なのに飢えと寒さで頭が回らず、ただ惰性だせいで南下してきた一行、ていにて、天が荒れ、氷雨ひさめが降るゆえにようやく絶望を悟った。避難した四阿あずまやで、劉秀が座して項垂うなだれていると、馮異ふういわんを差し出す。豆粥まめがゆであった。劉秀、礼もそこそこに熱いにも拘わらず即座に平らげる。食して即ち気づく。

 劉秀、馮異に尋ねて曰く「公孫こうそん、食して後に言うのもはばかられるが、これは何処いずこに」

 馮異答えて曰く「りゅう子輿しよが急に立ちたれば、民は慌てて城に立てもりました。よって、り忘れた物が無いか、慌てて隠した物が無いかと、そういう畑隅をあさりますれば、有り申した。一人一椀程度では御座いますが」

 劉秀、一言、既に礼を言ったことを忘れて、礼を言う。明くる朝、劉秀は、僅かばかりの豆粥にどれだけ心根が変えられるか自分でも信じられない思いで諸将に告げる、曰く「昨日、公孫の豆粥を得て飢寒共に解けたり」

 しかし、僅かに進みて、饒陽の近隣、虖沱こだに出る所では暴風雨に遭い、劉秀、車を引いて路傍の空舎くうしゃに入る。誰も彼もが雑事に追われる。馮異は薪を抱えて運び、鄧禹とううは火をきつけ、劉秀はかまどに向かいて濡れた衣をあぶる。ここでも、馮異は麦飯と菜物を出して見せた。馮異、小声で告げて曰く、「近隣を家捜しして、集められたのはこれが最後でございます」

 馮異の言おうとすることは、劉秀にも分かった。劉秀は何とかしようと答える。


 この劉秀ら一行の足取り、幸いと言うべきか、一行の外からは、薊から饒陽までの僅か数日間見失われていた。それは劉秀らが城を避けて南下していたためだが、その間、邯鄲かんたんの王郎親派は探しあぐねた。この動乱の時、何処の県も夜中となれば城を完全に閉じ、昼間でも出入りを見張れば、城の外との遣り取りは減り、街道を進むものは少ない。しかし、それによって劉秀は飢えに苦しむこととなった。


 男は史書をめくって曰く「ここにも誤謬ごびゅうあり」

 男の見る列伝では、「下曲陽に至る」と書かれている。男は地図を開いて確認する。笑いて曰く「ここに至って、また北上するか、味方の陣営に辿たどり着いたのに」

 男は、おそらくと、筆の柄をある場所に置く。そこには『饒陽』とあった。

 男曰く「この場所の間違いなり」

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