薊(けい)

薊 その1

 けい


 戦国七雄のえん国の首都であり、今は広陽こうよう郡の都・薊は、北域の噂が流れ込み、練られて流れ出すところであり、故に世相の節目でもあった。劉秀りゅうしゅう河北かほくに出るまでに、既に皇帝劉玄りゅうげん謁者えっしゃらがここに至った。その一人史書に名が残る謁者韓鴻かんこうが薊に来ると、薊の北東の漁陽ぎょよう郡から彭寵ほうちょう呉漢ごかんが出迎えた。

 彭寵、字は伯通はくつう南陽なんようえんの人物で、父彭宏ほうこうあい帝の時に漁陽太守となり、王莽おうもう摂政せっしょうの時代になびかない者らがちゅうされたが、その一人として害された。彭寵は若くして郡の吏士りしとなり、大司空の士となり、すなわち王邑おうゆうに仕えていた。呉漢、字は子顔しがんも南陽・宛の人物で、県に従事して亭長ていちょうとなっていたが、賓客ひんきゃくが法を犯した故に、戸籍こせきを脱し逃亡した。彭寵は王邑に従って洛陽らくように至った時、南陽の漢兵かんぺいの中に弟がいると聞き、誅されることを恐れ、同郷の呉漢と共に、父の配下であった吏士を頼って漁陽に逃れた。呉漢は資産なければ、馬をあきない漁陽・薊を行き来きし、この地の豪傑と親しむ。

 この彭寵・呉漢が同郷の古馴染み故、韓鴻を出迎えたのである。二千石以下の役人の任命権を預かっていた韓鴻、相見て喜ぶことはなはだしく、即ち彭寵をして、偏将軍と為し、漁陽太守を兼ねさせる。また、或る者、韓鴻に呉漢は奇士であれば、共に計るべしと言い、呉漢を召して喜び、即ち安楽あんらく令と為す。

 漁陽太守と為った彭寵、漁陽郡の吏士・王梁おうりょう、字は君厳くんげんには狐奴こど令を兼ねさせ、侠気おとこぎに聞こえた身のたけ八尺の大男、三百きんの弓を引ける属官ぞっかん蓋延こうえん、字は巨卿きょけい営尉えいいと為し護軍ごぐんを兼ねさせる。彭寵、漁陽を万全にべるべく手配する。


 漁陽郡は薊の北東にあたり、薊の北西にあたるのが上谷じょうこく郡である。皇帝劉玄の謁者が同じく薊を通って、上谷郡に入ると太守耿況こうきょうらが迎える。こちらの謁者も上谷太守の入換えを考えていたが、いささか事情が異なった。

 謁者は、先んじて降る者は爵位を復そうと言い、それを信じて耿況並びに次官の景丹けいたん、字は孫卿そんけい、郡の境に出向き、謁者に印綬いんじゅたてまつり、謁者は之を納める。もとより王莽おうもうに任じられた太守を更迭こうてつするのが目的なので、謁者には一晩経っても印綬を返す意志は無い。そこで寇恂こうじゅん、字は子翼しよく、この郡境の昌平しょうへい県の名家の出で、耿況に重んじられる功曹こうそうが動いた。兵を整えると謁者にまみえ、太守に印綬を授けんことを請う。

 謁者曰く「天子の使者をば、功曹は脅そうと欲するのか」

 寇恂答えて、曰く「敢えて御使節を脅すにはあらず、貴殿の計がまったきに非ずをいたんでなり。今、天下はようやく治り、国の威信は未だあがらず。御使節、節をかざし、命を受けて四方に望み、郡国は首を延ばし耳を傾け、漢意かんいを望んで命に帰さない者は無し。今、その始めに上谷に至って真っ先に天子の信義をこぼち、漢化に向かおうとする心をはばみ、離反のすきを生ずれば、はたまた何を以て他郡に号令できましょうぞ。且つ、耿太守は上谷に在って久しく吏人の親しむ所なり。今之を替えれば、賢者をいただいても突然のこと故、人心は収攬しゅうらんせず。賢者でなければ、即ち唯乱を生ずるのみ。御使節の為に計るに、之を復して民を安んざせるに如くは無し」

 現状を維持しようというのが本音ではあるが、真っ当な諫言と云えよう。しかるに謁者は応じない。寇恂そこでいきなり左右の者を叱って曰く「何を躊躇しておるか。御使節の命である。くと、元太守の耿俠游きょうゆう殿をお連れせん」と、耿況を召し出す。

 寇恂、耿況至れば、身動き素早く謁者より印綬を取り去り、「帝の計らいで御座います」と、耿況に掲げて見せ、すなわち耿況は印綬をおびる。謁者、ずして、即ち天子の制であると、耿況を太守に任じ、景丹も次官に任ずる。

 耿況・景丹らは主都沮陽そように戻った所で、顛末てんまつを耿氏宗族らに話す。

 景丹は一同に問いて曰く「果たして、帝、この挙を許そうか」

 寇恂曰く「座して沙汰さたを待つより、先手を打つべきなり」

 それはと耿況が問うと、寇恂、したり顔で口をつぐむ。

 しばし間が生じたれば、耿況の長子耿弇こうえんが、前に出て答えて曰く「そむく者でなく、く者であることを明らかにせん。人質を送れば可なり」

 景丹訊いて曰く「されど若、誰を送ります」

 耿弇答えて曰く「我に有らずば、誰をる。寇子翼、如何に」

 寇恂、答えて曰く「仰せの通り」

 よって、耿況は使者として人質ともなる耿弇を沮陽より送り出し、身を保とうとした。


 南下したる耿弇は王郎おうろうの挙兵を受けて北上し、劉秀らに同道することになった。劉秀一行は、幽州ゆうしゅう涿たく郡に入り、あわただしく広陽こうよう郡に入る。両郡とも戦国七雄の燕の西域に位置する。薊は広陽郡にあった。この広陽郡も王莽の災禍さいかを受けるまでは広陽国であった。前王の劉嘉りゅうかは侯に降ろされたが、居摂きょせつ元年の安衆あんしゅう劉崇りゅうそう叛乱はんらんの際には、宗族である故と、安衆侯のしょう張紹ちょうしょう従兄弟いとこであった張竦ちょうしょう共々、王莽に自首して罪を問われず、その後、張竦が、劉嘉のために奏を作った。その書には、叛乱した宗族は恩知らずと責め、願わくは、古にならい、かごを背負いすきを持って、逆賊である宗族の墓を掘って池に変えようと言う。これを上疏じょうそすれば、ひどく喜んだ王莽は、おうたいごう言上げんじょうし、ゆう千戸を以て劉嘉を帥礼そつれい侯と為し、その子七人に関内侯を賜い、張竦は淑徳しゅくとく侯と為った。これを長安でははやして曰く「封を求めようと欲せば、張伯松をぎるべし。力戦奮闘、奏巧者に如かず」

 更に始建国元年には王侯に劉氏無しを徹底するために、王莽は劉嘉らに王姓を与えた。

 劉秀の主簿しゅぼ朱浮しゅふが前もって調べ上げた、薊の劉氏の情報では、劉嘉は既に亡くなり、王莽に関内侯を拝した子息らが残っていると云う。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る