Lies are still lies
@Talkstand_bungeibu
第1話
これは林檎だよと言って洋梨を渡す。
これは嘘だ。
だが林檎を隠してしまえば、嘘自体存在しない。
これは夢を見ている、と分かりながら夢を見ていた。
そういうのをなんという名前だったか、思い出せなかった。
私は海にいた。小型のボートに乗っていた。
横殴りの雨が降っていた。水平線の向こうに灯台が見えた。
大きな波が押し寄せ、そして…。
にゃあ、と猫が鳴いた。
きなこという名前を持つ私の飼い猫だ。遠くで聞こえた鳴き声が、しばらくして私の胸元で聞こえた。圧迫感に耐えきれず、彼女を抱き上げ、ソファへ放り投げたタイミングで老女と目があった。
最初は幽霊かと思ったが、どうやら彼女はこの世に残っているらしい。
「平日の昼までお休みとはいいご身分ね」
「過活動な脳を休めるために必要なんです。お客様で?」
「さっきまでそのつもりだったけど迷っているところ」
おかけくださいとソファからきなこを抱き上げる。
「ご用件は?」
「夫の不倫調査」
「お帰りください」
「せっかく座らせてもらったんだから受けてもらうまで帰る気はないわよ」
「不倫とペット探しはお断りしてるんです」
「理想を語るより銀行口座を確かめたら?」
西日がオフィスへ傾く。
「なぜそれを?」
「夫が何度もその女と密会しているところを見ているの」
どこにでもいそうな女だった。目立った様子もない。左耳のほくろと銀のネックレス以外は。
「結構な事です。オスとしてまだ枯れたくないんでしょう」
「あの人は私に永遠を誓った。嘘などつくはずがないわ」
「男女の恋愛は常に優しい嘘のようなもんですよ」
「金を稼ぐ気、あるのないの?」
「だいたいどれくらい前とか、お分かりになりますか」
「2〜3週ってところかしら」
「随分くっきり撮れた写真だが、過去に探偵を雇ったりは?」
「いいえ、一度も」
「密会の場所は?」
「レストランと…ラブホテルね。ほら、駅前にあるでしょう?あの辺りよ」
西日が落ち、部屋は暗闇に包まれ、私は部屋の明かりをつける。
「1時間につき1万円、4日ほどかかります」
私は理想より口座の中身に意味を見出す男だ。
「カラスは人間の顔を覚えるらしいな」
べっこうのメガネに人工芝のように生やした髭を蓄えたマスターは言った。髭の代わりに頭はつるっぱげで、逆さ絵を見ているようだった。
「鳥頭なんていうがやつらは賢い。鳴き声の回数それぞれに意味があるんだ。1回目はこんにちは。2回目は腹減った。4回目以上は敵が近い。6回目以上は緊急事態発生」
「そのモビールはカラスじゃないだろ?」
クーラーに揺られる鳥の形のモビールを見て私はそう言った。
「鳥は嫌いか?」マスターが尋ねた。
無言で返したが、私は人間以外の動物は嫌いだ。コミニュケーションが取れないことが恐ろしいのだ。
「カラスはお前よりよっぽど頭がいいよ。それで?今日は何の用?」
私は写真を見せた。マスターは一瞥した。
「知らんな…。この女がなんだ?」
「依頼人の旦那の不倫相手らしい」
「浮気調査の捜索を手伝えって?悪いが俺にもプライドはあんだぜ?」
マスターはかれこれ数十年この小さい街で暮らしてきた。ゴシップや市長選の裏事情、隣人の後ろめたい過去などインターネットにも乗らない人間の裏側を知り尽くしている。
「妙なんだ。」
「妙?」
「その写真、よく撮れてる。1ヶ月そこらで探偵も雇わずにここまで撮れるならわざわざ俺のとこまで来ないよ」
「ま、そりゃそうだな」
「妙なのは探偵事務所がいくつもあるのに、なぜわざわざ高いギャラを払って俺に頼むのか?」
目の前にトマトジュースが置かれた。
「ただの浮気調査じゃないんじゃないかと俺は思ってるよ」
「疲れてんだよあんた。俺はとっとと寝た方がいいと思ってるがね」
男はどこまでも勤勉実直を絵に描いたような男だった。
飲みに行くこともなく、家に真っ直ぐ帰る男だった。
マスターからもらった情報だと妻と一軒家で暮らしているらしい。大型のワゴンと、毛並みの良い犬がよく目立った。
だが、そんな一般的な家にこそ隙は生まれるというものだ。
何一つ不自由ない暮らしをすればするほど、心の中の飢えが増すという事はざらにある。
ある者にとっては暴力だし、ある者にとってはギャンブルだし、この男にとっては火遊びだった。ただそれだけの事だ。
ラブホテル、イヴには男の方が先に着いた。
駐車場の中からホテルの入り口を見守る。何人かの酔っ払ったカップル達が楽しそうにホテルへと消えていった。
30分ほど経って、女が現れた。
写真よりもずっと美しく見えた。
ブラウスとスカートは地味だったが、それは男の下心をくすぐるには十分だった。
どこにでもいそうな大人しそうな顔の裏側に親しみやすさとあたたかなぬくもりを覚えた。
ファム・ファタール。
男を破滅させる女の意味だ。一瞬でその単語が浮かんだ。
生真面目に生きてきた男を破壊させる女、まさにぴったりだ。
なぜだろう。使っている香水の匂いまで漂ってくるようだ。
だが同時に、その女には、どこか違和感があった。
なにかが欠けている…。そんな印象を覚える女だった。
私は女からつかず離れず、ホテルへと足を踏み入れた。
受付はツーカーで私を迎え入れた。
エレベーターに飛び乗る。光るボタンを見る。4階。最上階だ。
4階。
4階。
4。
なんだろう。
エレベーターが開き、女は出ていった。
扉が閉まった。
4階?
何が問題なのだろう。
わからないが私の中のセンサーが作動したらしい。
廊下で炭酸水を飲む。
今頃部屋の中で男女は情事を繰り広げている事だろう。
掌にすっぽり収まるカメラを弄んでいる内に、男が出てきた。
10数分程度だったろうか。男も年齢なのだろう。
シャッターを切る。あとは女が出てくるところをカメラに収めれば良いだけだ。
かっきり20分経ったのを確認して、女が姿を現した。
服装に乱れた様子が見受けられなかった。
本当に事が及んだかどうかも怪しい。肉欲関係がない事は不倫と言えるだろうか?などと考えているうちに、女は廊下のトイレへと足を踏み入れた。
まずい。
写真を撮るより先に滑らかな動きで入ったものだから気を取られてしまっていた。
うまくいかないが、念のため写真は撮っておきたい。トイレの前で私は待った。
よくよく考えれば、なぜ女は部屋のトイレで済まさなかったのだろう?
脳の中をそんな思いが去来する。
4という数字。女の顔。
気づくと、20分経過していた。
廊下を見渡す。誰もいない。
「失敬」
私は女子トイレへと足を踏み入れた。
個室のトイレは全て開いていた。
窓は人がやっと通れるほどの大きさだ。
窓を開く。すぐそばを川が流れていった。
トイレは一般的な大きさだ。掃除用具入れを開く。当然何もない。
女は幻のように姿を消した。
アイスコーヒーの氷が綺麗に溶け、薄い黒色の液体だけが残った。
「女は幽霊だったって?」
マスターが軽口をたたく。表の看板には既にclosedの文字が見える。
「幽霊の正体見たり。何かあるはずだ。」
「何か?」
何かあるはずだ。
この事件を請け負ってからずっと存在する何か。
ノートパソコンの鍵盤を叩く。
気分が悪い。カフェインのせいか。
何かに近づこうとするたびに、砂の城のように崩れ去る。
「…あった。」
行方不明者リストに、女の写真が載っていた。
これは夢を見ている、と思いながら夢を見ていた。
私は教会の中にいた。
私は神を信じていなかった。
なぜそこにいたのかも思い出せなかった。
だが、小さな小部屋…。
そこが告解室ということだけは覚えていた。
気分が悪かった。
私は席を立ち、外へと歩き出した。
ひどく曇っていた。
なぜか早足になっていた。
何かから逃げなければ。
気分が悪かった。
突然、肩を叩かれた。
息が荒い。
体がじっとりと濡れていた。
きなこはソファの下で丸くなっていた。
腕時計を見る。夜中の11時だった。
帰ったのが何時だったか…。
起き上がると腰が痛んだ。
そもそも寝るためのソファじゃないのだ。
こめかみに指を当て、整理する。
失踪者の中に女を見つけた。
計算する。生活のために娼婦をしている?
つまり依頼者の夫も素性を知らないのだろうか。
あるいは夫が失踪に力を貸したのか。
なぜ。
私は闇夜に車を走らせていた。
もう一度あのホテルのトイレを外から見ていた。
トイレの中から消え、家族の元から消えた女。
(女は幽霊だったって?)
声が響いた。
論理的にありえなかった。
だが。論理とは自分の尺度である。
自分の尺度を超えたところにあの女がいるような気がしてならない。
私はもう一度アクセルを踏み込んだ。
夢の中に出てきた海だった。
夢はこれまでの記憶を整理するためのもの、であるならば訪れるか、テレビか雑誌で見ていてもおかしくない。
だが、その記憶はない。
それ自体がおかしい。
この小さな街で暮らして数十年経つ。
歩いたことのない路地はないだろう。
ならなぜ、海の記憶だけないのだ。
誤魔化そうとしても誤魔化しきれない事実が、浮かび上がる。
口の中が乾いてきた。
収納ボックスを開ける。
水があるはずだった。
手が冷たいものにあたった。指にまとわりつく。蛇のように。
しかしそれは小さな銀の鎖だった。
手を上げる。
ネックレス…。いや、ロケットだ。
あの女のしていたものと同じだ。
蓋を開く。
私と女が映っていた。
封じ込められた過去の中の二人は笑顔を浮かべていた。
「まだ、思い出さないかい?」
私の背後に依頼人の夫が窓ガラスに手をつけ、こちらを見ていた。
「ラブホテルの消失、あんなものはトリックでもなんでもない」
暗闇の中を、あの女が…。いや、私の恋人が歩いてきた。
私の恋人は頭に手をやった。そのままずるりと後ろに手をずらす。
ウィッグだ。
「記憶というのは全てを保存するわけではない。特に、気を取られていた君は入ってすぐに出ていった、変装をとった全く別人の女は他人と認識し、消し去った。そう、あの時のように」
暗闇の中から、もう一人でてきた。依頼人の老女だ。
「あのとき」
「そう、あのときだ」
あのとき。
「なぜ動物嫌いなのに猫を飼う?」
それは…私の勝手だ。
だが。なぜ。
なぜ、10年以上この小さな街で暮らし、海の記憶がない?
なぜ、教会の夢を見た?
「君は、私の娘に何をしたのか。思い出してくれ」
娘。
何の話だ。
だが。
霧が晴れる。
「4という数字も、後ろめたい気持ちがあるのでしょう?」
4。
4年前。
私は私の恋人を。
死においやった。
おもりのついた遺体を船に乗せ。
投げ捨てたが。
私も波の中に。
「何もかも思い出した顔してるわね」
「一芝居売った成果があった」
全ては…グルだったのか。
「全て彼女のおかげだ。正直、娘の姿を見た時には涙を流したよ。それくらいよく似ていた」
女が一礼する。このためのアルバイトだったのだろう。
だが…だとするとなぜ?
「私たちは行方不明になった娘の捜索を始めた。すると、当時君達の間に諍いがあったことがわかった」
私は、私はただ愛していたのだった。
「君の元を訪れた。だが君は、こんな女知らないと言った。結婚の挨拶までしにきたのにだ。」
あの時も、恋人はホテルへ行ったのだ。あの男と。
「私たちは当然疑ったが、娘との関係は全て消されていた。警察も耳を貸さなかった。そして初めて、あなたが本当に娘のことを忘却した事を知った」
私は激情した。首を絞めた。
「これは林檎だと言って洋梨を渡す。これは嘘。だが、最初から林檎の正体を明かさない時には嘘というものすら存在しない」
全てが終わってから絶望した。私には、彼女がいない世界など耐えられない。
「私たちは賭けに出た。娘との記憶を徐々に思い出させるように」
そこで思った。こんなことなら、最初から彼女が存在しなければよかったのだと。
「建前で自分自身にすら嘘をついても、本心では真実を知っている」
「これまでの苦労が無駄だったか」
声がする。
マスター。
あいつが。
あいつが私の恋人を。
「部屋にあるあの女の残留物を消して、記憶を操作する。自分で忘れた癖にふとした事で思い出そうとするんだもんな」
「あんたが浮気相手ね」
「子供のときから人の持ってるものは綺麗に見えてね」
「でもなぜ記憶を?」
「こいつはお得意さんな上に、色々と教えすぎた…。それにこいつは自分の罪を認めたことや過去の恋愛を知ると崩壊するのは目に見えていたからな。陰ながら操らせてもらった」
私には彼らの声は聞こえなかった。
いや、聞こえてはいた。
だが、そのノイズは意味をなさなかった。
私は海に身を投げていた。
海の中には彼女がいた。
やっとだ。
やっと思い出せた。
二度と忘れないよ。
彼女を強く、抱きしめた。
「…それで?患者の容態は?」
「まだ変化ありませんね。自分の名前、どこに住んでいるか、まるで思い出さない」
「このまま半年か」
「これは不謹慎かもしれませんが」
「なんだ。言ってみなさい」
「彼は思い出せないのではなく…。思い出さないんじゃないでしょうか」
私は。
私は…。
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