それでは皆様、良いしゅうまつを
月野 麗
しゅうまつせかいに
息を一つ、吐いた。僕の黒い髪が風に煽られる。
白く濁る目の前の空気に、ふと思う。
……寒い。
白い翼をゆっくり動かすと、ふわふわと羽が舞った。
青く澄んだ空の中、立てる場所を探したが、慣れない地では翼を休めるところも見つからない。
「人間、やっと落ち着き始めたよね。そこまで動かなくなった」
となりの天使、ラゼルがコーヒーを飲みながら言う。彼のひとみが金に輝いた。
深く煎った豆の匂いが、僕の鼻を掠める。いい香りだ。
ちなみに天使にカフェインは効かないが、彼はコーヒーの風味が好きらしい。
というか、どうやってそのコーヒーと紙コップ持ってきたのかな……。大天使に見つかったら怒られると思うけれど、僕までお叱りをくらうのは嫌だ。
ふぁさ、と風が吹く。ラゼルの3対の翼は、陽光の中で純白に輝いた。
頭の上に一枚の翼を持ってくると、彼は器用に羽の向きを整える。彼の美意識は下界の人間並みだ。僕は翼の手入れなんて、一回もしたことがない。
「だけど、なんで人間はまだ、うるさいのかな?」
一本取れた羽を弄びながら、彼はつぶやく。
「しゅうまつだからじゃない?」
僕は軽く言ってみたが、ラゼルは真顔だった。
「しゅうまつって、人間がいちばん愚かになる時間だよ……。神はしゅうまつに蘇ったっていうのに、あいつら、しゅうまつに一番騒ぐんだもん。騒音被害もいいとこだよ」
そう呟いている本人が、天使の中では一番人間らしいと有名なのだが、知らないのだろうか。モスグリーンの髪を後ろで束ね終えた彼に、僕は返す。
「愚かって言い方、失礼じゃない?彼らなりに、幸せを探してるだけかも」
「滅びかけの文明で、あんな醜悪なものを神に見せるのが、幸せ?」
「……うん、まぁ、健気じゃない?」
僕は下界を見つめながら思った。
あの国とその国が、国境付近で殴りあっている。
その国の真ん中で、恋人らは互いを想って手をつなぎ、子どもは広場でかけっこして、親がそれを見つめている。
滅びの気配は、日常のすぐ隣にある。
それでも「明日」を信じて日々を今日を過ごす人々が、僕には愛おしいと思えた。
だが、それももう、終わりだ。
感染は空気よりも早かった。 地表は静かに干からび、声の代わりに咳とため息が町を満たしていた。
その感染症には名前すらついていなかった。 名前を与える者がいなかったからだ。 学者も医者も誰もかもを、その病は死に追いやったからだ。人々に、言葉が届く前に。
……僕らは、天使。
もっとも、もはやその肩書きも意味をなさない。 神のメッセンジャーたるものが、伝令を伝える相手をなくしたら、それはもはや廃業するしかない。
だから僕とラゼルは下界を、この世界を眺める以外にすることがなかった。
人間は、最期の瞬間にも言葉を交わしていた。
最期の瞬間にも、愛し合っていた。
「あなたを愛してる」
「ここにいてくれて、ありがとう」
「ごめんね」
不思議だ、とふと僕は思った。
苦しみながら、なぜ愛を伝え合う? 肌は赤くただれ、身体中が痛むであろう中、なお人は言葉を交わす。
ある少女が、親に書き残した。
『いままでありがとう、だいすきだよ』
文字は震えていた。インクは涙でにじみ、ただれた肌はくっつきあっていた。 なのに書いたのだ。
どうしようもなく、言葉にすがって。
それが滑稽で、愚かで、そして。
美しかった。
そういえば、と僕は思い出す。 あの書に、最初に記されていたものを。
『初めに言があった。 言は神と共にあった。 言は神であった。』
ヨハネ福音書の、1・2節だ。
……世界は、「ことば」から始まった。 ならば、この終わりもまた、「ことば」であるべきだ。
神が人間に与えたもので、最も美しいものは、「ことば」なのかもしれないな。
だから僕らは、ただ眺める。 この閉じていく世界の中、なお輝き続ける「ことば」を。
そして、それを用いて、最後まで互いに「愛」を伝え合う、人類を。
彼らの使う愛のこもったことばは、かけがえのないもので。
僕は初めて、自分が人類でなかったことを嘆いた。
しかし、滅びは静かだ。残酷だ。
だから神の御使いたる僕らは、こう言うしかなかった。
「それでは皆様、良いしゅうまつを」
それでは皆様、良いしゅうまつを 月野 麗 @tsukino-urara
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