第19話 九州上陸

 下関での△△旅籠を出た富子は、連絡船にて関門海峡を渡り、北九州にある八幡市に入るベく動いた。

 △△旅籠では、自室の風呂では既にガスも止まっており、湯船に水を張っても、湯にできないので、枯れ草を集めて火を点け、さらに枯れ小枝等にて湯を沸かしたのであった。

 旅館もふいごが備えてあり、これで風を送り、火を煽るのである。

 窮乏化が進み、明治以来、近代化に向けて進んで来たはずの大日本帝国は、それ以前の江戸期等に退歩している感があった。ふいごは、富子の実家にもあり、扱いには富子も慣れていた。

 <火>

は、人々の生活に不可欠な必需品である。又、火は人間を他の動物と区別し得る存在でもある。

 <火>

が有る、という意味では、まだ、退歩しているとはいえ、大日本帝国はまだ、

 <人間の社会>

を維持しているとも言えようか。

 ふいごは、竹筒によって息を吹きかけるよりは、効率よく火を起こし得るので、あらゆる場所で必需品となっていた。

 湯がちょうどよい水温になった頃、裸になってヒロと一緒に、湯船に浸かると、逃避行という旅の疲れから一気に全身の力が抜けるような解放感を感じた。ヒロは猫なので、

 <人間の社会>

の成員ではないものの、富子と同じく、解放感を味合っているようであった。身体的解放感にはどの

 <社会>

の成員であるかは、無関係のようである。

 「極楽、極楽」

 富子にとっては自身が、

 <殺人犯>

として、指名手配されているのを忘れさせるかのような心地良さであった。

 湯から出た後は、布団でしっかりと眠った。

 しかし、寝込みを、警察等に急襲されたら、一巻の終わりである。それでも、

 <睡眠>

という、逃れられない身体的な誘惑には勝てなかった。やはり、ヒロも同様なのであろう。富子と同じ布団の中で眠り、鳴き声も殆ど上げなかった。

 しかし、翌朝、未だ夜が明けきっていない外は何かしら白んでいる午前6時頃、階下の足音で、富子は目を覚まさせられた。

 「!?」

目を覚ました富子は、

 「まさか、警察!?」

と、一瞬で自身が

 <指名手配犯>

という現実に引き戻された。

 顔色が多くなるのが、自身でも分かった。

 「逃げなきゃ・・・・・」

 自身の窓のカーテンを少し開き、窓から外を覗いてみた。昨日の女将が、玄関までに

て、別の女性と何か会話していた。

 警察官の姿は無いようである。所謂、

 <ご近所付き合い>

だろうか?あるいは、

 <隣組>

間の何らかの連絡かもしれない。

 警察官がいないのは、とりあえず、富子に現時点では、逮捕の手が伸びて来ていると

は言えないようである。

 富子は未だ、早朝で、殆ど人通りがない玄関前での2人の会話に、とにかく耳を澄まして聞き入っていた。

 かすかながら、声が聞こえてきた。

 「ええ、奥さん、朝早くから・・・・・」

 「そうですよね・・・・・」

 「ええ、はい」

 「お疲れさんでした」

 女将は、玄関から屋内に戻って行った。

 会話は、何かしら笑いに流れた声であった。

 <殺人犯>

等、犯罪についての深刻な話でもなかったようである。

 しかし、やはり、長居はできないであろう。まごまごしていれば、警察に嗅ぎつけられるのも時間の問題かもしれない。

 ヒロが起きてきて、小さな声を発した。

 「しっ!」

 富子は、小声でヒロを制すると、脱出準備に取り掛かった。

 いつもの如く、鞄の中を確認してみると、とりあえずまだ、一定の現金は残っていた。

 まだ、資金は残っている。資金面では、まだ、とりあえずの逃亡は可能のようであった。

 富子は、荷物をまとめ、鞄にヒロを押し込むと、階下に降りた。

 階下に降りると、女将が富子の姿を見て言った。

 「おはようございます。2泊される予定だったのではありませんか?」

 「ええ、そのつもりでしたが、ちょっと、九州の親戚のことが気になりまして、急ぎたくなりまして」

 「そうですか、どちらまで?」

 「大分の方なんです」

 富子は、知っている九州の地名を適当に答えた。

 「そうですか。お気をつけて」

 「それで、すみません、九州方面は初めてなんで、関門海峡の渡り方がわからないんです。ここらへんは本当に、初めてですので」

 「下関港から、いくつかの連絡船が出ていますよ」

 「有難うございます」

 △△旅籠を出ると、富子はまず、徒歩で駅に向かった。

 段々と時間が経ち、日が昇るに連れ、冬とはいえ、空は明るくなって来た。

 「警察とかに見つからなきゃいいんだけど」

 否、見つかってはいけない、と言うべきであろう。しかし、それについては、土地勘の無いここ下関では、

 <運を天に任せる>

しかないと言えた。それでも、或いは、それ故に、富子に出来ることは、下関駅に向けて歩くことだけであった。やはり、

 <逃避行>

であるが故にであろう、自然と足早になっていった。

 歩いているうちに、下関駅が見えて来た。

 「急がなきゃ」

 駅に入ると、焦る富子は、門司行き連絡船の券、大人1枚を注文しようと思いつつ、できるだけ早く移動したいという思いから、連絡船の時刻を問うた。

 しかし、どうも、思ったより、遅い時刻である。駅員は、富子の表情を見て察したのか、

 「お急ぎでしたら、民間の連絡船等も何本か、ございますが」

 「何時でしょうか?」

 「午前11時ですね」

 時間が開きすぎている。富子は心中で恐怖した。

 「追手に捕まって、逮捕されるかも・・・・・」

 全国に指名手配されている身分である。何処へ逃げたところで、大日本帝国領内であれば、等しく逮捕の可能性はあるのである。

 しかし、素人の富子としては、とにかく、

 <事件現場>

から、距離的に逃げたい一心のようであった。

 その時、傍らから、富子より少し年増と思われる女性が声を掛けて来た。

 「お嬢さん、何か、お急ぎでしょうか?」

 突然に見知らぬ女性から声をかけられて戸惑ったものの、富子は自身が九州方面に急ぎたい<事情>を説明した。

 「門司まで、お連れしましょうか?」

 「え?」

 突然の見ず知らずの人物の申し出に戸惑いを感じた富子は一瞬、駅員の方を見た。

 <権力>

或いは、換言すれば、

 <制度>

の側から追われる身でありながら、それでも、何らかの、

 <制度的保証>

のようなものが欲しかったのかもしれない。

 見知らぬ相手-場合によっては、富子に害をなすかもしれない、それこそ、真の犯罪者かもしれない-が、安全であることを確認したいがために、

 <制度>

の側の確認を求める、という矛盾した行動を採ったのであろう。

 駅員は、富子に対し、

 「どうぞ、ご自由に。咎められるものではありませんよ」

という表情によって、無言で、年増の女性の提案に乗るか否かは、

 「貴女の自由です」

と述べているかのようであった。富子にとっては、虚実は分からないものの、一種の

 <安全保障>

とも言えようか。

 駅員の表情を確認した富子は、

 「じゃ、お願いします」

と一言言うと、彼女の後に続いた。女性は、富子を漁船のいる港へと案内した。

 「漁船ですけど、大丈夫ですか?」

 「ええ、大丈夫です」

 「じゃ、乗って」

 その漁船には、2人の男性が既に乗船していた。富子を乗せると、2人の男は、門司方面に向けて、船を動かしだした。漁船は帆を張り、櫓で門司方面に向かった。燃料も足りないからか、このような燃料を要しない人力での移動なのかもしれない。関門海峡は狭いので、こうした移動も可能なのであろう。

 しかし、それでも、半ば非力な一女性たる富子にとっては、この関門海峡は大きな物理的

 <関門>

に他ならなかった。

 富子は、現在、その関門を何とか乗り越えつつあるようであった。この先、まるでどうなるかは分からない。しかし、それでも、事件現場からの、それこそ、物理的距離が更に大きくなったことによって、多少の安堵感のようなものが感じられた。

 乗船前から見えていた対岸の九州には、約40分程で到着した。


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