第20話 八幡市内

 門司側に着き、漁船から下船した富子は、

 <船賃>

として、数枚の10円札を先の女性に渡し、そのまま八幡市内に向かった。

 富子にとって、八幡の街は勿論、初めてである。人々が行き交う中、とにかく歩いた。

 引き続き、何処へ向かって歩いているのか分からない。しかし、人混みのなかを歩いているのが、何と無く、良いように思われた。

 「木は森の中へ、人は人混みへ」

と昔から言う。単なる通行人のふりをしているのが、怪しまれ得ず、発見されない、一番の良い方法に思われた。

 「!」

 富子が歩いていると、車道を挟んで、右前方に2人の警官の姿が見えた。

 「いけない!」

 富子は一瞬、全身に電流のような強い緊張が走り、咄嗟に建物の影になっている左の道へと曲がった。

 「大丈夫かな?」

 しかし、2人の警官は、富子を追っては来なかった。先程、瞬間的に見たところでは、誰か、別の人物に話しかけていたようである。何かの職務質問だったのかもしれない。

 <闇物資>

という生活上の

 <闇>

を取り締まるべく、警察は動いている、といったところで、警察官としても、私生活では、闇物資に手を出しているはずである。最早、何が、

 <表>

で、他方、何が

 <闇>

なのやら、訳がわからない昨今とはいえ、そんなことは、すべてが敵と化している富子にとっては、無関係なことであろう。

 「しかし、先程の漁船の男女は、なぜ、私を乗せて、下関から門司まで運んでくれたのだろう?」

 それこそ、闇物資がはびこる昨今である。誰もが、

 <闇物資>

あるいは、それこそが、生活そのものと言えるので、こうした生活物資のためには、どうしたって、資金が要る。そうした事情からの資金稼ぎのための副業だったのかもしれない。

 女性から声をかけられた時、窓口の職員は、

 「どうぞ、ご自由に」

という態度であり、その行為を咎める風ではなかった。誰もが生活に苦しく、

 <建前>

という意味での

 <表>

だけでは生活できないのである。それを建前通りに取り締まれば、生活は崩壊し、大日本帝国は一挙に崩壊するかもしれない。

 富子は自身が死なせてしまったジョンポウロ=クロカワから得た知識を基に、頭の中を整理してみた。

 クロカワは、富子に、

 「大日本帝国を変革する」

という意味のことを言っていたはずである。無論、富子には、そんな力からも勇気もあろうはずがなかった。それ故に起きてしまった

<殺人>

事件-無論、実際には事故だった-が発生してしまったのであった。

 大日本帝国にも、又、米国にも追われる身としての富子である。

 クロカワを死なせた時、咄嗟に西へと逃げて、ここまで来た富子である。しかし、それこそ、この後、何処へ行くのか?九州を南下し、さらに沖縄、さらには東南アジアへと行ったところで、やはり、大日本帝国の延長である。恐れている

 <逮捕>

は時間の問題であった。

 月は変わり、2月上旬になっていたものの、まだ、風もかなり肌寒い。やはり、今日の宿を何とか見つけるのが、一番の為すべき現実の課題であった。

 暫く歩くと、

 <旅館□□屋>

が現れた。

 「御免下さい」

 暫くして、中から声がした。

 「は~い」

 「すみません、2泊程、泊まれますか?」

 中から、女将らしき女性が出て来た。下関のときと同じくらいの年齢だろうか。

 今回も、偶然にも同じく、2階に通された。但し、こちらは、もとより粗末な木賃宿といった感のある旅館だった。今はまだ昼間なので明るいものの、ここも停電がちに違いない。夜になれば、暗くなるのであろう。

 「2泊で◯◯円になります」

 下関の時より、安い。金銭面からすれば、この旅館に入れて正解のようである。

 周囲には、あまり他の客はいないようである。

 「遠方からですか?」

 「ええ、まあ」

 富子は曖昧に返答した。

 「ごめんなさいね、明治の頃から、八幡製鉄所に働きに来る男の労働者の方とか、その関係者の方とかが、よく泊まる宿だったんですけどね、昔は賑わっていたけど、今はこんなに寂れてしまったんです」

 部屋から、外を見れば、八幡製鉄所の高炉が見えた。その高炉には、

 <1901>

と書かれた大きな表札が有った。

 「あの、1901って何ですか?」

 「八幡製鉄所が操業を開始した年です」

 富子が生まれる30年以上も前の話であった。

 「寂しくなってしまいました」

と、女将は言った。

 数本の煙突から煙が出ているので、八幡製鉄所は、稼働はしているようである。しかし、フル操業しているようにも思えず、女将の言うように、寂しい状況のようである。

 「昭和17年に大東亜戦争に勝ってから、現地で生産活動をした方が、効率よく現地産の資源が使えるし、現地軍への供給も容易だとかで、東南アジアの生産拠点の方が重点化されたようでしてね」

 富子が質問したわけではないものの、女将が状況を解説する形となった。

 結果として、女将が、半ば、一方的に話すかたちになったのは、女将も何か、心に寂しいものを抱えているからかもしれない。

 しかし、富子としては、何と答えてよいのか分からない。むしろ、1人になって、今後の自身の自衛について、考えたかった、というよりも考える必要があった。

下関の時とは異なる心情になったのは、やはり、先の下関の△△旅籠にて、入浴、睡眠といった身体そのものへの

<資源>

の補給ができたことも有ったようである。しかし、資金という、もう1つの-インフレ状況の下、今後、何処まで役立つかはわからないものの-

 <資源>

は尽きかけており、逃避行ができず、

 <逮捕>

の恐怖が具体化しつつあるという状況だからである。故に、富子は

 「そうですか」

と言ったきり、何も言えなくなってしまった。

 「失礼しました、では、ごゆっくり」

 女将は富子の心中をある種、察したのか、

 「私は仕事ですので」

と一言、言い添えると、部屋を出た。足音からして、同階の別室に向かったらしい。

 「ヒロと今後、どうしようか?」

 富子は改めて、心中にて呟いた。

 <逮捕>

の恐怖が、改めて、胃に重くのしかかってくるようであった。

 富子の人生は、いよいよ、八方塞がりになってきたようである。

 隣室から、先程の女将ともうひとりの女性の声が聞こえて来た。

 「お母さん、この宿はもう、たたみましょうか。こんな木賃、由緒ある宿でもないし、維持費がかさむだけですし」

 「そうね、明治に先代が造って残してくれたものだけど」

 声が聞こえたのは、

 <木賃>

の名にふさわしく、ある種、粗末な作りになっているからかもしれない。

但し、それ故に、安価に泊まれることが、多くの労働者やその家族等の関係者-多くは裕福ではなかったに違いない-にとってのありがたみであり、この旅館はそれを売りにしていたのかもしれない。

「朝鮮が独立する前に雇っていた半島出身の3人の女の子も朝鮮独立の後は、帰国してしまいましたし」

「今頃、どうしているのかしらね?」

「さあね、わかりません。ただ、ソ連軍の侵攻の後、特にこれといった国土の破壊もなく、中立国としての朝鮮人民共和国の復興と建設は順調だとか」

「何処で聞いたん?」

「たまたま、ラジオを点けたら、何か、そんな放送が入ってました」

「気をつけてなさい、特高や憲兵に見つかったら、タダではすまないでしょ」

「そうでした、迂闊でした。すみません」

大日本帝国は、粗末な対立している

<北>

こと、日本人民共和国のみならず、中立国経由でも、

 <闇>

-但し、本当にその放送内容が闇であるか否かは、それこそ、聞き手の庶民にとっては闇であるものの-

の放送が入って来ているようであった。




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