第14話 感慨
太陽が昇れば、夜という
<闇>
は物理的に消え、朝となり、日が差すものである。地球は文字通りの球体であり、自転しつつ、太陽の周囲を周っていることから、この現象は、世界共通のことである。
モスクワでも、太陽が昇れば、夜があける。朝になると同時に、人々が動き出し、各々、政府職員等を含めて、一般市民、労働者としての生活が始まる。
KGB少佐・ヨシエ=クツ―ゾネフも例外ではない。娘を小学校に送ると、夫・アレクセイと別れ、KGB本部に入り、自身のデスクについた。
「お早うございます、同志少佐」
人事異動によってタチアーナと交代した新たな部下・ナターシャからの声だった。
「おはよう、同志大尉」
「さ、仕事なさい」
ヨシエは、ナターシャに仕事にかかるように促した。
元日本人のヨシエは、対日謀略を担当するKGB将校の一員である。
日本-これは、大日本帝国も日本人民共和国も含めて-を含む国際情勢は、緊張の度合いを増しているという情報は、ヨシエの下にも届いていた。
6年前の1962年、キューバでフィデル=カストロとチェ=ゲバラ率いるキューバ革命が成功し、歴史的に米国の裏庭と言うべき状況にあった中南米の一隅である親ソ政権が誕生し、共産党が政権を握ったのであった。
駐米ソ連大使館からの報告によれば、未だ、人類の歴史上、使用されたことのない原爆を使用すべし、という意見も米軍部内にはあったらしい。
カリブ海に浮かぶ島国・キューバは、米国の海上派遣、海軍の運営にとって、重要な所謂
<チョーク・ポイント>
である。しかし、この海域に親ソ・共産党政権が誕生することは、
<チョーク・ポイント>
を抑え込まれ、米国にとっての裏庭たる中南米での、正に米国の覇権を著しく不利にすることであった。
故に、カストロ政権は、米国にとって、取り除かねばならない存在であり、原爆による一挙壊滅を図ってはどうか、という声が上がっていた。
しかし、この案は結局、中止となった。
中南米の国であるキューバに、核攻撃を行えば、カストロの親ソ共産党政権を壊滅させ得るであろう。他の中南米の各国親米政権も、反共の立場から歓迎するかもしれない。
しかし、それは、「上部構造」(政治権力)レベルの話であって、中南米各国での
<社会>
のレベルでの話となると、又、話は違って来よう。
米国への恐怖が、逆に反米感情を掻き立てる可能性もあった。そして、そこに、反米宣伝を含むソ連の謀略工作が為されれば、どのようなことになるだろうか。
場合によっては、中南米各国での新米政権の倒壊、親ソ政権の確立、といった米国にとっての最悪のケースも予測できないではなかった。
そして、何よりも、1968年の現在、最も、国際関係において熱い焦点となっているのが、1942年以降、現在なお、24年間も存在し続けている大日本帝国と東南アジアでの支配権たる大東亜共栄圏に他ならなかった。
1945年5月、ナチ・ドイツが壊滅、崩壊した後、旧来の国際連盟に代わって、米国・ニューヨークにて、国際連合が設立された。
国際連合の中心的機能を為す安全保障理事会(安保理)で、常任理事国となったのは、米、ソ、英、仏、中の5カ国であった。
いずれも、第2次世界大戦における、一応の戦勝国であった。
「一応の・・・・・」
という言葉は、正に、今日の国際関係を表現するに相応しい語句であろう。
連合国として、第2次世界大戦を戦った上記5カ国は、ナチ・ドイツには勝った。しかし、大日本帝国は残存しており、未だ、課題は残っているのである。
そんな大日本帝国も、今や、徐々に敗戦国に転落しつつあるようではあるものの、その北半分に日本人民共和国を成立させることによって、その北半分を奪い、又、大日本帝国の重要な勢力圏の一隅を為していた満州国を壊滅させたのは、ソ連であり、米国の敵であった。
又、連合国の一員として米国の支援を受けて来た蒋介石の中華民国は、対日戦という重要な局面に対峙していたにもかかわらず、腐敗と堕落によって、半ば、自ら崩壊し、毛沢東率いる中国共産党による中華人民共和国の成立という、米国にとっては、アジアの広大な土地を勢力圏として失うといった厳しい現実を突き付けられたのであった。
故に、アジア方面において、第二次世界大戦における
<戦勝国>
と言い得るのは、中、ソ両国であり、英、米、仏の3カ国は、未だ、大東亜共栄圏を壊滅させて東南アジアの利権を回復できていないことからすれば、対日戦においてなお、
<戦勝国>
の立場に立ってはおらず、米国はにいたっては、1942年のミッドウェイ海戦で敗北し、太平洋の覇権を奪われ、今日に至っていることから、
<敗戦国>
であることは明らかであった。また、米国が敗戦国になったことから、今日に至るまでの
<課題>
を残す原因になったのであり、その意味でも、米国の威信は低下していると言えた。
しかし、それでも、米国にとって有利だったのは、ソ連と異なり、自国の国土が戦場とならず、又、日本の対米開戦(1941年12月、真珠湾攻撃)によって、軍需産業が勢いづき、1928年以来の恐慌を脱して、経済が好況になったこと、又、ユダヤ人等、欧州の反ナチ亡命者を用いて、原爆開発に成功し、強い切り札を得たことであろう。
そして、そうして開発された原爆は、米国内でも生産が軌道に乗り、既に、数10発が各前線部隊に配属されている、とのことであった。
対するソ連も、スターリン時代からスパイ等を通して、原爆開発等の情報を入手し、1950年代半ばには、開発に成功していた。
スターリンが存命中に、核開発に成功していたならば、ソ連にとっての東方の脅威たる、満州国を壊滅させるために、原爆使用があり得たかもしれない。
しかし、当時はまず、着実に増強可能な通常戦力等の増強等によって、対峙せざるを得なかったことから、ソ連の核開発は遅れていた。又、ナチの侵略によって破壊されたソ連領欧州地区(ウラル以西)の復興に多額の資金が必要であったことが財政を圧迫していたことも無関係ではない。こうした点では、ソ連は米国にとって、不利であった。
その後、日本人民共和国軍に核装備を為さしめ、大日本帝国を壊滅させてはどうか、という提案もあったようである。
しかし、これは、党に承認されず、ソ連の意志としては却下された。キューバに対する米国のそれと同じく、「上部構造」(政治権力)を壊滅に追いやっても、日本の
<社会>
のからの反ソ感情を掻き立てる可能性等が憂慮されたのである。
ヨシエは、KGB少佐として、中央アジアの砂漠地帯で為された核実験の記録フィルムを見せられたことがあった。
激しい閃光、湧き上がるきのこ雲、実験場に据えられたカメラが捉えた模擬建造物を吹き飛ばす凄まじい爆風等。
ヨシエは既に、生まれの祖国・日本を棄て、ソ連を祖国としている以上、祖国・ソ連の防衛のためには、核実験の成功は、防衛力強化という意味では、慶事かもしれなかった。
しかし、映像を見ていて、自身を切り裂くような生木を裂くような感覚となった。
ふと、実母・ハツのことが思い出され、自身の家族を殺すかのように思われたのである。
なぜ、今更、思い出されたのか?
大日本帝国の領域に核が使用されれば、間違いなく、大日本帝国の「上部構造」(政治権力)は、壊滅するであろう。しかし、その目標内に母がいれば、母も、ほぼ確実に死ぬ。
ヨシエはソ連の体制の一員であり、ソ連の核を肯定するということは、ヨシエが、ある意味、間接的とはいえ、母の殺害に加担し得ることになるからであろう。
既に、大日本帝国軍、或いは政府関係者を3人も殺したヨシエであった。
しかし、そこには、あまり罪の意識はなかった。それは、相手が「上部構造」(政治権力)の人間であり、それらはヨシエを抑圧する立場の人間であったからであり、個人的に憎しみを抱くことさえあったからであろう。
しかし、母・ハツは憎むべき相手ではない。しかも、女学校自主中退をも含め、自身の行動にある種の理解を示してくれた人間である。母は、「上部構造」(政治権力)側の人間ではなく、又、血のつながった肉親である。殺す理由は無いはずだった。
これには、今朝、小学校へ送って行った娘・ミサキを殺すのと同じような感覚であり、ミサキと家族として、当然の如く、生活をともにしていることが、そうした感情を抱かせたのであろう。
「同志少佐、どうされました?」
ナターシャが声を掛けて来た。
「え?」
ヨシエはいつの間にか、自身が取り組むべき国際問題から、自身の身内のことへと考察の焦点が移っていたようである。
「失礼、迷惑をかけたわね」
ヨシエは、ナターシャに一言詫びると、改めてデスクに向き直った。いつもの如く、為すべき仕事を為さなければならない。
暫くして、直後に席を外していたナターシャが戻り、再び、声を掛けて来た。
「同志少佐、上司のセミョーノフ大佐がお呼びです」
「何かしら?」
ヨシエはデスクを片付けると、席を立った。
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