第二部:刈人隊編
26. 斎家神宮
この国はこう答える。
――「斎家は神である」と。
かつて金穂成の米を口にし、今もその名で国の均衡を司る一族。
***
斎家神宮・御殿
神殿奥の寝所。御簾の内は薄光が落ち、香の煙が細く揺蕩っている。 その中央に老いた巫女は横たわっていた。吐息は今にも消え入りそうに浅く、か細い。
廊下に衣擦れの音が響き、白金の直衣姿の男が寝所前に立った。御簾の外で座していた黒衣の
「
男が尋ねると、祠官はわずかに顔を上げて答えた。
「あまり芳しくはございません。薬師の見立てでは、この冬を越せるかどうか、と」
男は握った扇で、掌を小刻みに叩いた。寝所の前を行き戻りしつつ、振り返る。
「なんとしてでも、年を越させよ。年始の神儀には、必ずお姿を見せていただかねばならぬ。
「粥にしても量は召し上がれません。胚芽を粉に挽き、水で少量ずつ。効果はありますが、手持ちはわずかです」
祠官は手元の空の乳鉢に目を落とし、声を潜めた。
「この国で金米を口にしている人間は、今や斎様お一人。このままでは斎の継承が途絶えまする。親王さま。くだんの件、早めにご決断を」
「分かっている! ともかく希少米は最優先で手配しろ。
「次回分は新月頃に、と伝え聞いております」
「遅い。金を積んでも構わん。急がせろ」
は。と頭を下げる中、祠官はためらいがちに続けた。
「蝗から別途“金穂成の出現条項の写し”を求められております。現状、許可しておりませんが」
男は眉を寄せ、扇を片手で捻り開いた。白地に、稲穂を巻き込んで昇る金龍の図。朱の柄には赤い稲籾の飾り紐が付いている。
「愚問だ。絶対に外へ出すな。狗が滅びた今、災に対応できん」
パチン、と扇を閉じ荒々しい息を吐く。
「武家の動向は」
「表は静かです。ただ、中央本部は近ごろ紋付が増えました。斎様が長くお隠れですと、前へ出ようとする手は増えるでしょう」
男は顔を一撫でし、眉間を押さえながら嘆声を漏らした。
「分かった。引き続き巡回顕現のほうで対応を進めよ。銀米の備蓄は、より強化しておけ。くれぐれも内密にな」
「承知致しました」
男――親王・
朱塗りの回廊の縁には紙灯籠がぽつぽつと続き、淡い光が小さな明暗の島を連ねている。外は美しく整えられた庭。鎮心の場であるはずが、その静けさに嵐前の不穏さを覚え、楓鶴は足元の一灯を蹴り飛ばした。
「なぜ私の代で、こんな面倒を起こさねばならぬ!」
庭に落ちた紙灯籠はひと瞬き灯を失い、すぐに芯が息を吹き返す。薄紙の縁からじりじりと焦げが広がった。
「まぁ、お父さま。こんな夜更けに騒がしいこと……」
くすくすと笑う声に目を向けると、回廊の曲がり角に銀白の小袿をまとった女が立っていた。腰まで届く黒髪が夜気に揺れ、白磁めいた肌に目元だけが熱に浮かされたように紅を差している。
「
「月を見ておりました。ほら、見事な満月ではございませんか」
女――内親王・葦鶴は、小袿の袖の陰から指先をつ、と天へ向け、うっとりと夜空を仰いだ。 その先の月は、雲にすっかり覆い隠れている。
(また気鬱か。まったく面倒なことだ)
この娘が直系唯一の内親王で、金米を口にすれば次の斎の頂となる。その折、実権はこちらが握れるにせよ、この有り様を公席で晒さねばならぬ。そう思うだけで、こめかみが疼いた。
(やはり、もう一人の女を正妻に選んでおくべきだった)
かつて正妻候補として名の挙がった武家の女。気丈で、知性があり、場を一言で締める強さを持っていた。その娘は今や刈人隊の幹部候補として名を連ねており、現場でも頭一つ抜けた働きを見せていると聞く。あの女を正妻に迎えていれば、これほどの頭痛の種を抱えずに済んだかもしれない――そんな愚にもつかぬ後悔を、楓鶴は心中で舌打ちとともに振り払った。
「葦鶴、もう部屋に戻って休め」
「分かりました」
ふと、楓鶴は訝しげにスン、と鼻を鳴らした。
「葦鶴、お前香を変えたか?」
「……えぇ、沈丁花です。良い香りでしょう?」
楓鶴はふん、と興味なさげに視線をそらすと、そのまま肩越しに葦鶴の脇を通り過ぎていった。葦鶴は小さく身を屈めるように礼をする。楓鶴の背を見送り、ゆっくりと顔を上げた。
「――次にお会いできるのは、新月かしら」
頬にそっと手を当て、薄く微笑みながら葦鶴は焼け落ちた紙灯籠の残骸を静かに眺めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます