第3話 執事バルドの回顧録

 久しく剣を交えることもなかった亡き主君の御子息――

 レオンハルト様が、突如として鍛錬に励みたいと申し出てきたのは数カ月前のことだった。


「——鍛錬の用意を。今日から剣の修行を始める」


 私はその言葉に耳を疑った。


「……かしこまりました、レオンハルト様」


 あれほど怠惰で、あれほど傲慢だった御方が、今さら何を――そう思わずにはいられなかった。


 だが、その眼差しに、私はただの思いつきや気まぐれではないものを感じた。


 実際のところ、訓練場に向かうその背中に迷いはなかった。


*  *  *


 その日より、レオンハルト様の剣術鍛錬をお引き受けすることとなった。


 私が手本を示し、坊ちゃまにそれをなぞっていただくという、ごく基本的な導入から開始する。

 正直なところ、これまでの御方の姿勢からして、三日も保てば上々と思っていたのだが――その予想は大きく外れることとなる。


 初日、構えの確認。

 木剣を握ったレオンハルト様は、思いのほか筋の通った構えを見せられた。


 間合いの測り方、足の運び、体軸の保ち方。

 それらは未熟ではあるものの、まるで連綿と受け継がれ研鑽を積まれた一つの流派かのような整いがあった。


 ご本人に伺ったところ、今の剣術は「独学」とのこと。

 にわかには信じられないが、それが事実ならばまさに驚嘆すべき才能である。


 中でも顕著だったのが、「目」だ。

 こちらの動きに対する反応速度――いや、予見に近い察知。

 木剣を交えた際、私は一瞬、歴戦の兵を相手取っているかのような錯覚に陥った。


 以来、レオンハルト様は一日も欠かさず、訓練場へ姿を現された。


 朝は陽が昇る前から、夜は月が中天を過ぎるまで。

 時に独りで素振りを繰り返し、時に私と立ち合い、全身が汗と泥にまみれてもなお、言葉一つ漏らされなかった。


 かつての坊ちゃまは、「剣は振るだけ無駄。」と吐き捨てていたお方である。

 その変わりようを、私はただ驚きと共に、遠くから見守ることしかできなかった。


 嬉しさと、悔しさがあった。


 ――もっと早く、こうあられていたなら。

 ご両親が健在であったならば、どれほどお喜びになったことか。


 ……これは、私の勝手な感傷だ。


 それでも、レオンハルト様の成長を目の当たりにするたび、胸の奥に眠っていた後悔の念を、どうしても否定できなかった。


 その成長は日々顕著であった。

 稽古の中で習得された技は、一度身体に染み込ませれば二度と忘れず、失敗を経て習得された間合いは、翌日には見事な切っ先となって私を捉える。


 気づけば私は、執務の合間に自身の鍛錬を再開していた。


 若い頃に振っていた重い刃を引っ張り出し、身体を作り直し、少しでも坊ちゃまの成長に遅れぬよう、密かに自らを鼓舞していた。

 思い返せば、私は坊ちゃまの才能に嫉妬していたのかもしれない。


 鍛錬とは、不思議なものだ。

 誰かが本気で取り組めば、その意志が周囲をも動かす。

 私の内に秘めた燃え殻も、また静かに熱を帯びていた。


 そうして、数カ月が経過した。


 坊ちゃまの剣は、かつての貴族訓練生のそれではなかった。

 ――いや、貴族ですらなく、戦士と呼ぶにふさわしいものとなっていた。


*  *  *


 あの日の夕刻もまた、変わらぬ鍛錬の一日だった。

 夕陽が訓練場の床を赤く染め、次第にあたりが暗くなる頃。


 木剣を片付け終えたタイミングで、レオンハルト様が一言、私に声をかけた。


「手合わせを願いたい。」


 私は一瞬、動きを止めた。


 あくまで穏やかに、礼節をもって告げられた申し出だったが、内に宿す気迫は確かなものだった。


「……は?」

 急な申し出に、気の利いた言葉は出ない。


「訓練として、お前に挑みたい。

 昔のように、ではなく、今の俺として。」

「……本気で仰っているのですか?」


「本気だ。」


「承知しました。では、手合わせとまいりましょう」


 私は頷き、自身の剣を取り出した。


 木剣ではない。

 このとき、私が選んだのは、かつて実戦でも振るった私物の模擬刀。

 御子息の成長を、誤魔化すことなく受け止めるための、私なりの敬意だった。


 訓練場の中央へ歩を進め、レオンハルト様を見据える。


 手加減はしない、私の全身全霊をもって坊ちゃまに慢心が一縷でもあるのならそれを一刀のもとに断ち切る。

 その結末がどうであれ、それこそが師として私がなすべき使命である。


 坊ちゃまはわずかに自身の前方の虚空を見つめたかと思うと、何か小さく呟きそのまま私の方へ視線を戻した。


(……雰囲気が変わった?)


 木剣を両の手で握った隙のない構えからは、慢心は一切見られない。

 覚悟を決め、まるで私の意図を読み取るかのように受けて立つという意志すら感じる。


「始めようか、バルド。」


「――手加減はしませんぞ、坊ちゃま。」


 私は狙いを定めると地を蹴り間合いを瞬時に詰め、重心を乗せた縦一文字の一撃を放つ。

 その直後、体勢が崩れる“隙”を誘い、二の太刀で決める――それがこの奥義の肝。


 通常の訓練生であれば、初撃すらまともに受けることはかなわない。


 だが。


(……全く動かない!正面から受けきるつもりか!)


 レオンハルト様は、最初の一撃をまったく怯まず正面から受け止めた。

 木剣がきしむ。重い衝撃。流れるようにそのまま二の太刀へと移る瞬間――


 私の腕がはじかれた。

 それは信じられないほど完璧なタイミングだった。

 二の太刀を繰り出すと同時に、踏み込んできたレオンハルト様が模擬刀の力を利用して受け流し、弾き飛ばしたのだ。


 その動きは、明らかに“理解していた”者のそれだった。


(この技を、完全に……見切っていた?)

 いくら才能があるとはいえ、初見で我が奥義を受けきったというのか……。


 信じられぬ想いと共に、私は声を絞り出す。

「……勝負あり、ですな。坊ちゃまの勝ちでございます。」


「いや……俺の剣も限界だった。これ以上は戦えない。

 この勝負は引き分けだな。」

 そう言って、レオンハルト様は手を差し出した。


 ――勝者の権利を持ちながら、あえて互角とするその采配。

 己の強さを誇るのではなく、共に立つことを選ばれたのだ。


(引き分けとして……花を持たせていただいたのだな)

 私は胸の奥でそう悟り、深い敬意と感服の念を覚えた。


「……は。身に余るお言葉。」


 握手を交わしながら私は続けた。


「しかし、どうやって私の奥義を見切ったのです?

 お見せするのも初めてのはず、常人ではまず初撃を受けきることさえかないませぬ。」


 この言葉は本心から出たものだった。

 生涯を剣に捧げ編み出した奥の手が、まったく通じなかったこと対する疑問だった。


 坊ちゃまは少し考える素ぶりを見せ、思い出すようにこうおっしゃった。


「お前が言っていただろう、

 “心の迷いを断ち切ることこそ、真なる剣の道”……と。」


 心の迷いを断ち切ることこそ、真なる剣の道


 ……かつて我が師、そして私が若い騎士たちに語っていた、最も重要な教えだ。


 鍛錬の折、私が伝えていたことだったかもしれない。

 その言葉を、まさかレオンハルト様が覚えておられたとは。

 いや、それ以上に、まさにその信念を体現するような剣を見せつけられた。


「……なるほど。そういうことでしたか。」

 それは思わず口をついて出た言葉だった。


(私が……見誤っていたのだ)


 坊ちゃまは剣を学ぶ覚悟がないと思っていた。

 責任から逃げる我が主の愚息だと、そう決めつけていたのは――他ならぬ、私だったのだ。


 本当に迷っていたのは私自身。

 坊ちゃまへの忠義や、私自身の太刀筋に迷いがあったことを、見透かしておられたのだ。

 かつて燃え盛っていた闘志が、灰となり、惰性で過ごす日々の中で鈍っていた。


 だがその灰に、再び火を灯したのはこのお方だ。


 この方に剣を捧げずして、何を忠誠と呼べようか。


「レオンハルト様。これまで私は、貴方様を見誤っておりました。

 この命、貴方にお預けいたします。」


 そう口にしたとき、私は久方ぶりに、胸の奥に熱いものが宿るのを感じていた。


 これよりは剣士として、盾としてこの方に仕えていこうと。

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