第4話 自殺
取り調べなどが、その代表的なもので、
「昔であれば、容疑者の自白が一番強い」
と言われていて、実際に、拘留機関というのは決まっているので、その期間の間に、
「どんなことがあっても、白状させる」
ということから、
「拷問に当たらない」
という程度の暴力というのは、普通にあったといえるだろう。
しかし、今の時代は、
「容疑者の人権」
という問題。
「冤罪を作らないようにする」
という問題などから、
「自白というものの重要性が、低く成ってきた」
といってもいいだろう。
特に、警察で自白をすれば、検察官が、それを引き継ぐ形で、
「起訴する」
ということになるだろう。
しかし、これを裁判になると、被告が、裁判官から、罪状認否を尋ねられた時、
「警察側の拷問で、仕方なく白状しました」
ということになれば、その時点で、
「自白」
というものが、
「一切の証拠能力に値しない」
ということになる。
つまり、弁護側の作戦として、
「自白をわざとさせ、裁判に持ち込むことで、供述をひっくり返そう」
と考えるのだ。
今では、それが常套手段ということで、通用はしないが、それだけ、今では、
「自白というのは、ただの状況証拠に近いものだ」
ということで、どうしようもない。
「だから、取り調べにおいて、自白したことの裏を取り、そこから、物的証拠を見つけ出さない限り、起訴しても、公判の維持というものはできない」
ということになるのだ。
それを考えると、
「警察というのは、取り調べにおいて、昔のような、脅迫であったり、拷問のようなことは、まったくの逆効果」
ということになるだろう。
中には、容疑者として逮捕され、
「わざと警察官を怒らせ、暴力をふるわせることで、自分の有利に導こう」
と考える輩もいる。
ということで、今では、
「取り調べ」
というものにもマニュアルがあり、それに沿った形でのやり方をするようになっていった。
昔と違うことも結構あり、
「昭和の時代が、どれほど、イン上に訴えたか?」
というのは、昔の刑事ドラマや、コント番組を見ればわかるというものだ。
特に、昭和の時代といえば、
「熱血刑事」
などというのが主人公の時代であった。
犯人逮捕に執念を燃やす刑事として、だからこそ、
「昭和の捜査と言われる、足で稼ぐ」
というやり方が、もてはやされたりしたのだ。
さらには、人情の時代ということもあり、たとえば、
「どこかの銀行に強盗に入った犯人が、人質を取って立てこもったりした場合、その説得に、親を連れてきて、人情に訴える」
というものがあったりした。
今では、
「ありえないこと」
といえるだろう。
また、昔の刑事ドラマでは、
「落としのヤマさん」
などと言われる刑事がいて、
「かつ丼でも食うか」
といって、腹が減った容疑者を、
「かつ丼でつる」
などというのが、当たり前という時代だった、
しかし、今ではそんなことはない。
基本的に、
「拘留の際に、提供される三度の食事以外は、確かお茶の一杯でもいけないのではないだろうか?」
今でこそ、
「警察署内は禁煙」
ということになっているのでありえないことであるが、昔のように、自白を促すという意味で、
「煙草を与える」
というのも許されない。
それだけ厳しくなっているということで、
「取調室において、人情に訴えるような話は、今では厳禁ということではないだろうか?」
それだけ時代が変わってきているということで、当時の警察官が、
「今のような取り調べになるとは思ってもいない」
ということであろうし、今の警察官からすれば、
「話には聞いたことがあるが、昭和の時代の取り調べなど、想像もつかない」
ということになるだろう。
それこそ、
「見ると聞くとでは大違い」
ということで、
「実際に経験したことでなければ、分かるはずがない」
ということだ。
「今の人間であれば、昔のことを調べて勉強すれば、昔がどういう時代だったのか?」
ということは分かる。
と考えるだろう。
しかし、実際にそうなのだろうか?
その時代のことは、今であれば、
「映像というものに残っているので、それを見ればわかる」
と、かつて、その時代に生きていて、過去を知っている人は、
「昔は、ああだった」
などと、今の人間に言って聞かせようとするだろうが、
それはあくまでも、
「自分は過去も今も知っている」
ということで、
「マウントが取れる」
ということを目的に考えているとすれば、意外と今の人は、そういう魂胆というのは分かっているもののようだ。
昔だってそうだったではないか。
老練の大人が、
「今の若い者は」
といって、時代の変化を憂いている時代を歩んできたことに対して、
「年寄りの冷や水」
といってきた時代が繰り返されてきたというものだ。
それを考えると、
「時代において、マウントというものをいかに考えるかというと、実際には、昔にもあったことだ」
といえるだろう。
ただ、昔は、
「それが当たり前だった」
ということでの、
「あきらめの心境」
というものがあることから、
「精神疾患になる」
ということはなかったのだろう。
逆にいえば、昔の人は、
「熱血根性」
というものを正しいと考えるが、そのわりには、
「諦めが早い」
というのも、昔の人の特徴だということで、
「それが、今のような、精神疾患というものを生まない」
といってもいいかも知れない。
ただ、昔にも、理不尽であったり、無体なことというのはあったということで、それが、
「脳内の神経伝達物質の乱れ」
ということになるということなのだろう。
だから、逆にいえば、
「昔の精神病」
というのは、今に比べて、
「種類は少なかった」
といえるだろう、
今の場合の精神疾患というのは、
「かなり細分化され、それぞれに症状というものが分かってきて、それに対する薬の処方であったり、対処法というものも分かってくるようになった」
といっていいだろう。
しかし、いまだに、
「精神疾患」
と呼ばれるもののほとんどは解明されていないといってもいい。
「解明される端から、新しい精神疾患というのが、どんどん生まれてきている」
というのが現状なのかも知れない。
それを考えると、
「精神病」
というものを含む精神疾患は、
「まるで生き物のようではないか?」
といってもいいかも知れない。
その時代の学者や医者が、
「そのことをどこまでわかっていたのか?」
ということは想像できない。
何しろ、
「過去のことは分かるすべはあっても、未来のことは、まったく分からない」
といえる。
未来のことは、あくまでも、事実ではなく、想像なのだ。
それはどこまで言っても同じことで、
「未来である以上、そのことに変わりはない」
といえるだろう、
佐々木博士もそのことは分かっていて、
「ただ、今の自分にできることは、少しでも、精神病を解明し、未来にそれを託す」
ということだと思っている。
つまりは、
「自分の時代に、精神病というものを克服できるだけのものはない」
と考えていただろう。
ただ、佐々木博士のすごいところは、
「今言っている精神病とは別の種類の精神病が、これからどんどん出てくるのではないか?」
ということを予想していたという。
もちろん。それがどのようなものかというのを、明らかにはしなかった。
時代として、
「未来に対して、ハッキリとしないことを残したり、根拠のないことで、今の時代を惑わすようなことをしてはいけない」
ということだった。
そもそも、そのことに関しての一番の理解者は、佐々木博士だった。
そのことを、自らが推進していたということであり、それが、
「まさか自分の足かせになる」
とは思ってもいなかったのだ。
「実に皮肉なものだな」
という考えを持っていて。
「ただ、私のような学者というのは、過去にもいただろうし、未来にも出てくることだろう」
と思っていた。
それは、
「似て非なるもの」
というものではなく、それこそ、
「もう一人の自分」
といってもいい、まるで、
「ドッペルゲンガーのようなもの」
といえるだろうと思うのだった。
佐々木博士のことを、
「預言者だ」
と思っている学者は、何人かいた。
実際に、ここ数年でも、佐々木博士のいっていることが現実になったこともあった。昭和のこの時代は、科学にしても、医学にしても急激に発展した。それは、病気に対しての研究もそうであるが、逆に、
「生物兵器」
などの開発というのも発展してきた証拠でもある。
「それぞれの表裏が、目的は違えども、目標としては、近いところにあった」
といえるだろう。
つまりは、
「正義も悪も、ちょっとしたボタンの掛け違いで、よくも悪くもなる」
ということだ。
それを誰がうまく証明できるというのか、
「逆にできないからこそ、前が見えないわけで、見ようとする気持ちがあるから、発展もするというもの。物事は何が災いするか、それとも、幸いするか分からないといってもいいだろう」
と考えていた。
そもそも、開発されていたものが、
「最初は平和利用だったはずのものが、急に兵器になったり。逆に、兵器利用しようと思っていたものが、いつの間にか医薬品になっていたりする」
それは、
「時代のいたずら」
といえるかも知れないが、それだけではない。
「何か目に見えないものの力に操られている」
といってもいいのではないだろうか?
それを考えると、
「佐々木博士の言ったことが、いずれは的中する」
というのも、それは、
「預言」
というものではなく、佐々木博士の研究熱心さと、未来への発想の豊かさなどが、そうさせるのかも知れない。
そして、一つ言えることは、未来のことを考える時、
「自分に自信を持つことだろう」
特に未来というのは、その時はまったく想像もつかないと思っていることかも知れないが、結果として必ず起こることである。
だから、それだけに、
「自分の口から出てくる言葉には、責任がある」
と感じる人も多いだろう。
「責任も感じずに、好き勝手なことを言っていれば、それこそ、
「オオカミ少年」
ということになりかねないが、これも、
「一歩間違えれば、天才的な発想」
といってもいい。
「100回口に出した中で、99回が嘘であったが、最後の1回が的中した」
ということであれば、それは、
「1%ではなく、100%だ」
といってもいいだろう。
途中、どんなに嘘を言っても、最後には正解だったのだから、それまでの嘘が帳消しになってもいいだろう。
なんといっても、
「オオカミはやってきた」
という事実が残ったわけなので、
「少年の言ったことは、本当のことだった」
というわけである。
もし、そのあと、少年が、
「オオカミが来る」
といって、それがその時は嘘だったとしても、
「一度真実があると、誰もが信じてしまう」
ただ、その時々では嘘なのかも知れないので、
「オオカミ少年」
というのは、
「本当のことを言ったのか?」
と言われると、
「100%本当のことを言った」
ということになるのだろうが、
「嘘を言ったのか?」
と言われると、
「それも間違いのない事実」
ということになるのだ。
この話の問題は、
「本当のことなのか?」
あるいは、
「嘘なのか?」
ということよりも、
「すべてを嘘だとして片づけてはいけない」
ということで、可能性を考えた時、
「いかに対応するか?」
ということが問題になるということになるということだろう。
この病院に連れてこられた患者が記憶喪失であるということは、治療の中で明らかになった。
普通の記憶喪失であれば、
「何も、わざわざうちに連れてくることもないだろうに」
と、佐々木博士は思ったが、
「どうしてここに連れてきたのか?」
ということは、すぐに分かった気がした。
その理由とすれば、
「あの患者は、自殺を絶えず繰り返している」
ということで、
「普通の病院ではなく、まるで、監獄のようなところで、完全に隔離しておかないと、すぐに死のうとする」
ということから、
「じゃあ、どこの病院が?」
ということになり、この病院が紹介され、その時、佐々木博士の存在を知ったということであった。
それが付き添いの男である
「岸田」
という男の話だった。
岸田がいうには、
「私が連れてきた男は、沢村という人で、私の会社の同僚でした」
という。
「ただの同僚で、ここまで寄り添うというのは、どういうことなんですか?」
と聞かれた岸田は、
「私は沢村と同じところに勤めています。そこは、ある会社の開発部というところで、会社の商品の研究開発を行っています。博士のような医学や心理学のようなものではなく、電化製品のようなものを中心に開発する会社で、いわゆる家電メーカーと思っていただければいいと思います」
といって、岸田という男を見ていると、
「この男は、言葉の言い方よりも、絶えず表現を考えながら話しているように見えるな」
とさすがに、心理学も研究しているだけのことはある。
「そんな彼がどうして記憶喪失になったり、自殺を繰り返すようになったんですか?」
と言われ、
「はっきりしたことは分かりません。だた、それを分かっていたとして、私が軽々しく言えないことではないかとさえ感じるんです。だから、私だけではどうすることもできなくなり、しかも、自殺も繰り返すようになれば、しかるべき病院でキチンとした治療を受ける必要があると私は思ったんです。そういって会社に進言すると、私に沢村の面倒を見るようにと会社から言われ、さらに、予算は十分にとってやるとまで言われたので、責任は重大ということで、博士にすがるしかないと思ったんです」
というのだ。
岸田という男は、
「賢明だ」
といってもいいだろう。
岸田は、どこでこの病院の話を聞いてきたのかということは話してくれなかった。
そもそも、ここを推薦状をもって訪れるというのは、
「少なくとも、政府関係者でしかない」
といってもいいだろう。
だから、
「紹介状を持っていた」
ということは、病院側からすれば、
「これ以上の免罪符はない」
ということだ。
「まるで、水戸黄門の印籠だ」
といってもいいだろう。
紹介状を持っていたことで、怪しまれるということはないが、逆に、
「彼からいろいろなことを聞き出すことは難しいともいえる」
それだけ、秘密を抱えているところからきたわけで、しかも、その病院ですら、
「ほぼほぼ、シークレットな存在」
だからである。
「どっちの機密性が高いのか?」
というと、どっちともいえない。
ただ一つ言えるとすれば、その差がどんなに微妙なものであっても、その距離は、可視化できるかどうかということでも、微妙だといえるだろう。
「近くて遠いその存在は、まるで、宇宙空間のようではないか」
といえるだろう。
「一つ言えることは、沢村という男が、何かに追い詰められているのではないか? ということだと思います」
と、岸田は言った。
「どういうことですか?」
と博士が聞くと、
「自殺をしようとする人は、死んだ方が楽だと思うから死を選ぶんだと思うんですが、だとすると、彼にとって、生きているよりも、死を選ぶ方が楽だと思って、そっちに逃げようとしているんじゃないかと思うんです」
「なるほど、それも一つの考え方ですね」
と博士は、
「賛成も反対もないかのような、曖昧な表現をした」
これが、博士の一つの特徴でもあった。
特に初対面の人には、こちらの考えを見透かされないようにするため、曖昧なことをえてしていうことがあったりする。
ただ、
「博士はこういう人だ」
ということを調べればすぐに分かるようなことを、あえて曖昧にはしない。
なぜなら、
「博士は正直だ」
ということを相手に感じさせることで、曖昧さが、却って相手を惑わすに値するものであると考えるからだ。
それこそ、
「木を隠すには森の中」
といってもいいだろう。
それが、博士なりの、
「心理学の発想」
というものであり、
「研究による知恵だ」
といってもいいのではないだろうか?
特に、博士が相手をする人というのは、
「他でどうしようもない」
と判断されたり、今回のように、
「自殺を繰り返す」
というような、
「切羽詰まった事情を持っている人が多い」
ということで、ただの正攻法では、うまくいかないことが多いということになるだろう。
それを考えると、
「自殺をしようと考える人が、いかに追い詰められるか?」
という原因を考える必要があるのであった。
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