第5話 蘇生

 岸田に話を聞いていくうちに、

「どこまで話をしてくれるか?」

 ということが問題ではあるが、博士とすれば、岸田が、

「佐々木博士が相手であれば、できるだけのことは話して分かってもらいたい」

 とどこまで感じてくれるかどうか?

 ということを考えていたのだ。

 もちろん、岸田に、最初から、

「沢村という男が自殺を繰り返す原因と、それに対しての対応法が分かっていれば、わざわざ、佐々木教授を訪ねてくる必要などない」

 ということだ。

 ただ、佐々木博士としては、

「岸田という男は、ある程度までわかっている」

 とは思っていた。

 ただ、そのある程度というのが、結論までに対して、どれだけの距離があるのか?

 ということは分からないだろう。

 佐々木博士と、沢村の間に、岸田がいる」

 という位置関係において、

「沢村が佐々木博士を見る時、岸田がどの位置にいるか?」

 ということと、

「佐々木博士が沢村を見る時、岸田がどの位置にいるか?」

 ということは、それぞれの角度の理屈から考えて、

「まったく矛盾している」

 と思っている。

 これは、

「矛盾というよりも、錯覚」

 ということではないか?

 と、佐々木博士は考えていた。

 そして、

「奇しくも、沢村も同じことを考えているのではないか?」

 と考えていた。

 それなのに、考え方としてはありえると感じる岸田であるが、それを、

「あくまでも錯覚」

 と考えているのが、岸田なのだろう。

 つまり、

「岸田という男は、この状況を一番把握してはいるが、分かっていない」

 ということだと思っている。

 状況を把握できるというのは、

「岸田が、自分が中立である」

 ということを把握していて、理解もできているのだが、それだけに、矛盾も感じていることで、錯覚をしているということに対して、真正面から見ることで感じされていると思えるのだった。

 しかし、博士とすれば、

「今までの経験と、研究によって、そのことを把握はできているつもりだ」

 ということであるが、当事者である

「沢村」

 という男は、

「自分が記憶喪失であるがゆえに、見えているものもあるのではないか?」

 と感じているようだった。

 そのことは、

「岸田も、佐々木博士にも分かっている」

 ということであり、

「この三人三様の様子が、ある種の形になっているのではないか?」

 と感じるのだった。

 この考えは、最近、佐々木博士が、よく考えているということであって、それが、

「三つのものを頂点に考えられる」

 というものであった。

 その考えの中で、

「一見、似ているように見えるが、実は正反対の発想なのではないか?」

 ということで、

「似て非なるもの」

 という考え方からか、

「三つ巴」

 というものと、

「三すくみ」

 というものを考えるのであった。

「三つ巴」

 というのは、それぞれ、三つの力が均衡していて、最終的に残った三つが争う時、どのようにして勝敗を決めるか?

 ということである。

「巴戦」

 と呼ばれるものがあり、

「三つがそれぞれ戦うことになる」

 ということで、その勝敗というものを、

「連敗すれば、そこで終わり」

 ということになる。

「三人が総当たりで戦うということは二戦するということなので、連勝すれば、負けなしである。

 しかし、相手は必ず1敗しているわけだから、その時点で、いくら総当たりが残っていたとしても、

「優勝は決まっている」

 ということになるのだ。

 それが、

「三つ巴」

 というものであり、結果として、

「なかなか連勝ができない」

 というほどに、実力が拮抗しているからこそ、

「三つ巴」

 というのである。

 では、

「三すくみ」

 というのはどうであろうか?

 これは、一種の、

「抑止力」

 といってもいいだろう。

 そういう意味では、

「三つ巴」

 というのも、一種の抑止力と言える。

 それは、

「三つが絡んでも、1対1でも同じだ」

 ということであるが、

「三すくみ」

 というものの場合は、

「必ず、三つが絡む必要がある」

 というものだ。

 それだけ、三すくみというものには、

「無限性がある」

 といってもいいだろう。

 つまりは、三つが絡んでいる間、それぞれ個別には、

「歴然とした力関係が存在する」

 ということになる。

 この力関係があるからこそ、

「抑止力」

 という力になるわけで、

「それこそが、世の中の力関係の基になるものではないか?」

 とも考えられるのだ。

 そもそも、

「三すくみ」

 というのは、

「三つがそれぞれの距離を保ち、お互いにけん制するということで、欲思慮をを保っている」

 といってもいいだろう。

 この関係は、

「ヘビ、カエル、ナメクジ」

 であったり、

「じゃんけん」

 のような関係のことをいう。

 つまり、力関係ということであれば、それぞれにおいては、絶対的なものがあるのだ。

「ヘビ、カエル、ナメクジ」

 などであれば、

「ヘビはカエルを食べるので、カエルに対して、絶対的な力がある。しかし、そのカエルは、ナメクジを食べるので、ナメクジに対して、絶対的な力がある」

 ということになるが、

「ナメクジは、ヘビを溶かしてしまうということで、ナメクジは、ヘビに対して、絶対的な力を持っている」

 ということになるのだ。

 だから、この三匹を、

「密閉した籠の中に入れるとどうなるか?」

 ということであるが、

「それぞれに抑止が働く」

 ということになる。

「ヘビがカエルを食べたとすれば、一番得をするのは、ナメクジ」

 ということになる。

 ナメクジからすれば、自分の天敵であるカエルを消してくれたのだから、あとは残ったヘビを溶かしても、自分は大丈夫だということで、結果は、

「ナメクジの一人勝ち」

 ということになる、

 つまり、ここで勝敗が決するとすれば、

「必ず、一人勝ちということになる」

 といってもいい。

 そして、もう一つ言えることとすれば、

「先に動いたものは、生き残れない」

 ということになるのだ。

 自分が動くということは、

「天敵の天敵をつぶす」

 ということになり、

「墓穴を掘る」

 ということになるのだ。

 だから、

「三すくみ」

 というのは、それぞれに抑止力を持っているわけで、結果としても、

「先に動くと、生き残れない」

 ということから、

「まったく身動きが取れなくなってしまう」

 ということでの抑止力なのであった。

 佐々木博士は、心理学的に、この、

「三すくみ」

 の関係を、

「科学的に証明しよう」

 と考えている。

 確かに理屈ではよくできているというもので、その考え方が、間違いのないものとして証明されれば、

「世界平和に貢献できる」

 と考えていて、

「いや、そんなことよりも、世の中を救うことができるのではないか?」

 と考えていた。

 というのが、

「今の人間社会であったり、自然の摂理などというものを考えた時、どうしても、弱肉強食という考えから脱却できないということになると、人類の滅亡は、案外と近いかも知れない」

 と思っていた。

 自然界における異常気象であったりするものは、

「人間が、自分勝手に、森林伐採であったり、資源利用などということで、

「生態系を壊しているから」

 といってもいいだろう。

 しかし、

「自然の摂理」

 であったり、

「生態系を壊す」

 ということ以外にもありえると思っていた。

 それが、一つは、

「人間の中にあるストレスやトラウマなとという精神疾患につながるものが、自然界にお影響を与えている」

 という考え方、

 そして、それ以外に、

「三すくみ」

 あるいは、

「三つ巴」

 というものをうまく利用できないことからできてきたことだと考えている。

 だから、

「三つ巴」

 であったり、

「三すくみ」

 というものに関しても研究は必須なんだということであった。

 そんな中で、

「生態系の問題」

 であったり、

「異常気象を招かないようにしるための、

「自然界の摂理」

 というものを考えていくと、その中で、

「共通点」

 というものがあるような気がしていた。

 特に、

「三すくみ」

 というものと、

「自然の摂理」

 と言われるものがその代表ではないか?

 と考えるのだが、それこそが、

「循環」

 ということではないだろうか?

 三すくみのように、それぞれの力関係が、一周して戻ってくることから、

「無限に消えることのない抑止力を保っている」

 といえるだろうし、

「自然界の摂理」

 ということでも、

「弱肉強食」

 と呼ばれる社会で、

「弱い者は強いものに食われてしまう」

 ということになるが、食われたものでも、生き残ったものでも、最後には寿命がくるということになるが、それが、今度は、植物の肥料となり、育った植物を、

「弱者が食することになる」

 つまりは、

「こちらも、ずっと循環している」

 ということになるわけである。

 それぞれに循環するものであるが、

「三すくみ」

 というのは、お互いに動けない状態にして、抑止力を保つということで、

「力の均衡によって、守りに入る」

 といってもいい。

 しかし、

「自然界の摂理」

 というのは、動くことを宿命とし、一種の、

「攻撃から生まれた動なるもの」

 といってもいいだろう。

 それぞれに、循環するものであるが、その目的や、存在意義というのは違っている。

 だからこそ、博士は、

「研究材料になるんだ」

 と考えていた。

 そして、これらから導き出される、

「循環」

 という発想であるが、これが人間における、

「輪廻転生ではないか?」

 と考えるのであった。

「輪廻転生」

 というのは、

「生き物には、必ず寿命というものがあり、その時に行った行動によって、どのように生まれ変わるか?」

 あるいは、

「生まれ変わることができないか?」

 ということは決まっているというものだ。

「宗教的な発想」

 ということであるが、

 それが、人間における、

「寿命」

 であったり、

「蘇生」

 という考え方に結びつくと、博士は感じていた。

ただ、宗教では、

「神様」

 という存在があり、

「その神様が人間を作った」

 ということで、

「神様以外に、人間の運命を決めることができるものはいない」

 という発想である。

 ただ、この発想から考えれば、

「神様以外に、人間の運命を決めることができるものがある」

 とすれば、

「自分の運命を自分ではどうすることもできない」

 ということになり、今までは、

「神様がいるから、自分たちが救われてきた」

 という発想が、根底から覆されるということになり、その結果、

「自分たちにはどうすることもできない」

 と思うと、それこそ、

「神も仏もないものか」

 ということになるだろう。

 いわゆる、

「罰当たり」

 という発想である。

 しかし、実際に、今までの歴史に中で、

「宗教が迫害されてきた」

 というものがあからさまに残っている。

 なんといっても、今までの人類の戦争の中で、

「宗教が絡んでいる」

 というものがどれだけあるか?

 ということである。

 そもそも、

「人を殺してはいけない」

 という戒律があり、

「自殺すら許さない」

 といっているくせに、

「宗教を守るというお題目で、堂々と戦争を仕掛ける」

 ということもあったわけで、それが、

「宗教戦争」

 ということになっているではないか。

 しかも、

「キリスト教とイスラム教」

 というのは、

「太古の昔」

 から、戦争を行っている。

「十字軍しかり」

 であるが、考えてみれば、もとは同じものから出発しているわけだ。

 その宗教というもののために、

「人間が殺しあう」

 というのはどういうことなのだろうか?

 戦ではないが、江戸時代などで、幕府による、

「キリスト教禁止令」

 というもののために、

「踏み絵政策」

 などで、処刑されるという悲劇が起こったわけだが、

「自分を信じてくれている庶民を見殺しにして、何が宗教だ」

 といえるのだろうか?

 確かに、

「この世で救われなかった人を、あの世で救う」

 という教えは実に都合のいいものだ。

 なんといっても、

「あの世というのは、死なないと見ることができない」

 ということだからである。

「死んでから、幸福になれる」

 というのは、実に都合のいい教えである。

 だったら、

「この世で味わっている地獄を早く終わらせて、天国にいければ、幸せだ」

 ということになるのだろうが、

「キリスト教では、自殺は認めていない」

 ということになると、

「この世の地獄は、味遭わなければいけない」

 ということになる。

 それで、

「救われる」

 ということになるのだろうか?

 だから、

「この世では、自分が幸せになれるわけはない」

 ということで、

「戦争を起こすことに、何ら抵抗がない」

 ということなのかも知れない。

「感覚がマヒしている」

 ということになるのだろうか?

 普通に考えると、

「あの世で幸せになるために、この世は犠牲になるというのは、ありえることなのだろうか?」

 ということであり、

「宗教を信じるというのは、どこに徳があるのか?」

 と考えてしまう。

 これも、ひょっとすると、

「この世」

 と

「あの世」

 そして、神様という関係においての、

「三すくみ」

 なのか、あるいは、

「三つ巴」

 なのか?

 ということを考えさせられるというものだ。

 そう考えると、三つの間に挟まれている人間という存在が、

「いかに小さく、まわりのものに操られたり、洗脳されたりして、それこそ、何かの力に操られている」

 と考えられるのだ。

 そんなときに考えることとして、

「蘇生」

 というものであった。

「輪廻転生」

 のように、

「新たに生まれる」

 ということではなく、

「一度終わったと思える人生を、自分の手で取り戻す」

 ということだ。

 そこには、神の力は存在しないという考えで、いや、むしろ、

「神様という存在を最初から抹殺した形で考える」

 ということになるのだった。

「神への冒涜」

 と宗教団体の連中はいうかも知れないが、

「そもそも、神を信じていない」

 ということなのだから、

「発想自体がナンセンス」

 というものだ。

「いや、厳密には、神を信じていないというわけではない」

 信じていないのは、

「人間のためになってくれる神」

 というのがいないという考えである。

 そもそも、人間が神を見る時、

「人間のために存在しているのが、神だ」

 ということで信仰しているのだろうが、信仰することで虐殺される人を見殺しにしたり、その存在を証明できるものがまったくなかったりと、

「人間のためになる神の存在を信じられない」

 という人も多いだろう。

「信じている人」

 というのも、とにかく多いというわけで、

「神様」

 というものが、

「一体どれだけの種類いるのだろうか?」

 とも考えられる。

「オリンポスの神々」

 であったり、

「イスラムの神」

「キリスト教の神」

「お釈迦様」

 などといろいろいるが、それこそ、

「宗教の数だけいる」

 といってもいいだろう。

 それが、

「神と人間の間に立ちはだかるもの」

 であり、それが、

「三すくみ」

「三つ巴」

 を作っているのだろう。

「蘇生」

 というのは、ありえることなのだろうか?


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