第2話 記憶喪失の男
この病院に、一週間くらい前、他の病院からの紹介状を持参してやってきた男性がいた。
その人は、
「息子」
という人に付き添われてやってきたのだ。
その人は、
「付き添いがいないと、一人では行動ができない」
ということで、
「いざ、診療」
という時も、患者のそばにずっと付き添っていて、離れることはなかった。
ただ、そのたたずまいには、まったく違和感がなく、それこそ、
「お芝居の中での黒子」
のごとく、そばにいるだけで、
「まるで気配を消している石ころのような存在だった」
ということで、医者は却って、
「気になって仕方がなかった」
といっていた。
ただ、患者の様子を一目見ただけで、病状を聞かずとも、
「ああ、なるほど」
と感じた。
この医者は、すでに年齢は60歳前後ではないかと思われた。
髭も頭髪も真っ白で、白衣から見て、
「完全に博士という雰囲気だ」
と思わせた。
時代的には、今の令和の時代ではなく、まだ、
「昭和の頃」
のことだった。
世間と隔絶されたイメージのあるここは、まだ、戦後すぐの建物が残っていて、
「完全な建て直し」
というのは、まさにその時代からさらに十年近く経ってからのことだった。
「時代というのは繰り返すというが、わしは、今のこの建物が、以前の戦争に入る前の頃を思い出すのじゃった」
とよく言っていた。
当時、博士は、まだ大学生の頃で、その成績を買われ、軍への入隊も視野にあったが、軍の方からは、
「一応軍人であるが、開発として活躍してもらう」
ということから、研究所員として、ここに勤務することになった。
この男は、
「戦争に行って、死んでくる」
ということに対しては、
「怖い」
という思いも、
「それが国民としての義務だ:
という思いもなかった。
どちらかというと、
「怖い」
という方が強かったかも知れないが、それも、
「余計なことを考えない」
と思えば、気持ちを抑えることができるという、他の学生とは一線を画した考え方を持っていたのだった。
ただ、
「研究員としての招集」
というのは、彼にとっては、
「光栄だ」
といってもいいだろう。
国民性として、
「皆、天皇陛下のために死ぬ」
という気概を持つことが、愛国心につながるという教育を受けてきたので、それに対して、何ら疑問もなければ、
「当たり前だ」
と思っていたことだろう。
そもそも、日本の政治体制、
あるいは、
「当時の社会情勢」
というものを鑑みると、
「それ以外の考えを持つことは、自分が損をする」
といってもいいだろう。
「戦争になれば、いやでも招集を受け、いつ死んでもおかしくないところに送られ、怖いと感じるまのなく、命を落とすことになる」
と考えると、
「洗脳であろうが、それを子供の頃から、当たり前のこととして考えさせられていれば、死ぬことも怖くはない」
ということになる。
「怖い怖い」
と思いながら死ぬよりも、
「もうダメだ」
と感じた時、覚悟ができる方がよほど潔くもあり、自分が苦しむことはないということになるだろう。
それを考えると、
「大日本帝国」
という時代が、
「いい悪い」
というのは別にして。
「国家としては、ありえない国家ではない」
といえるだろう。
それを
「洗脳だ」
といって、日本だけが、抗ったとしても、
「世界情勢」
として、
「弱肉強食」
という時代だったことで、そんな時代において、何が正しいのかと考えた時、
「強くなるしかない」
ということになるだろう。
確かに、テレビなどでは、
「弱肉強食」
というものを非難する番組も多い。
特に、子供番組や、アニメなどは、完全に、
「勧善懲悪」
ということで、
「強ければいい」
という考えを間違いだとしているが、それはあくまでも理想ということであって、現実的にはありえない時代だった。
だからこそ、
「大航海時代に、欧州の国がアジアやアフリカに進出して、侵略を繰り返し、植民地ということにした」
ということだ。
当然、
「植民地にされないように」
ということで、現地の人間は抗うことだろう。
何もせずに、占領されるような国はなかっただろう。
日本が開国した時も、
「国家を戦場にすることはなかったが、相手は、
「戦艦を停泊させ、大砲で狙う」
という、
「砲艦外交」
というものを行った。
それにより、
「日本は、開国する」
ということになったが、外国と一戦交えなかった代わりに、
「尊皇倒幕」
ということで、内乱が続くことになったのだ。
つまりは、
「対外、国内関わらず、戦争というものは避けられなかった」
ということだ。
結果、
「不平等条約を締結させられ、その解消ということをスローガンとして、欧米に学ぶという選択が、日本としては、侵略を免れた」
ということになるだろう。
「地理的な幸運にもあった」
ということであるが、それが、最後は、
「大東亜戦争での敗北」
ということで、大日本帝国は、世界から姿を消すことになった。
ただ、これを、
「最初から無理があった」
といえるだろうか、
確かに、
「日露戦争」
などにおいて、
「国家の滅亡機器」
というのもあったが、何とか乗り切った。
それはひとえに、
「運がよかった」
というだけではなく、
「日本人の国民性」
というものが、いい方に影響したといってもいいだろう。
「歴史が答えを出してくれる」
とよく言われるが、それには、大いなる疑問があるのだ。
というのは、
「歴史は絶えず動いている」
ということであり、それは、
「時間は止まることがない」
ということから言われることであろう。
もちろん、そこで国が滅んでしまえば、歴史も止まるといえるかも知れないが、日本の場合は、敗戦となって、一時は、
「占領軍によって、統治されることになったが、最終的には、解放され、独立国としてよみがえった」
のだった。
ただ、その体制はまったく違っていて、
「大日本帝国時代」
というのは、
「立憲君主の国」
ということであったが、
「日本国」
というものになってからは、
「民主国家の国」
ということになった。
ただ、それが、
「欧米列強に押し付けられた民主主義」
ということに変わりはなく、あくまでも、
「欧米列強に都合のいい国」
ということでの独立となったのだ。
当時の世界情勢というのは、
「民主主義国」
と、
「社会主義国」
とによる、
「東西冷戦」
の時代だった、
地理的に日本は、重要だったこともあって、それこそ、
「アメリカの属国」
としての民主主義となったのだ。
その途中に、
「朝鮮戦争」
「キューバ危機」
あるいは、
「ベトナム戦争」
などという冷戦に関係することもたくさんあった。
そもそも、戦後の世界が
「東西冷戦」
に突入したというのは、
「日本が目指した、大東亜共栄圏の建設」
というものに沿う形での、
「アジアやアフリカの国が宗主国に対して起こした独立戦争が大きかった」
ということで、
「日本としては、実に皮肉な結果になった」
ということであった、
実際に独立戦争に使われた武器は、
「旧日本軍の残留兵器だった」
ということだったのである。
それが当時の、
「世界の現実だった」
ということである。
この病院に、一週間前にやってきた患者というのは、年齢的には50歳をすでに超えているだろうか。息子と呼ばれた、
「その存在が石ころ」
というような男の雰囲気を見ると、それぞれに違和感がないことから、逆におかしな違和感を感じるのだった。
この博士からすれば、
「きっと一般人には、最初から、その違和感が感じられるんだろうな」
という思いが浮かぶということであろう。
その患者から感じ取られたのは、
「記憶喪失」
という感覚であった。
明らかに目の焦点が合っていない。
そして、ただの記憶喪失でないと思ったのは、静かな病院であるが、たまに、どこかからか聞こえてくる、奇声のようなものに、反応がなかったからだ、
その奇声というのは、
「この病院は、精神異常者を受け入れている」
ということから、そんな奇声が聞こえてきても、不思議のない状態だったのだ。
この病院において、そういう
「奇声を挙げたりする」
という人は少ないわけではない。
むしろ多いくらいで、それらの精神疾患でも、当時としては、
「重度の人」
を受け入れていることが多かったのだ。
そののちの時代には、
「精神疾患がある」
という人は増えたようだが、重度の人は昔の方が多かったかも知れない。
「放っておくと、何をするか分からない」
あるいは、
「自殺ばかりを考えている」
という人も少なくなかった。
精神関係の病気で、
「精神疾患」
「精神障害」
「精神病」
などと言われるものがあるが、基本的には、すべて、
「精神疾患に含まれる」
といってもいいかも知れない。
「精神疾患」
というのは、
「脳内の神経伝達物質の乱れによって心身に不調が現れる病気」
ということである。
今でも増え続けているようで、日本では、
「人口の30人に1人は、精神疾患だ」
と言われているようだ。
その中でも、精神障害というものを、
「精神疾患によって生じる障害」
ということであるが、基本的には、
「精神疾患と同じ」
という意味だという解釈もある。
そして、精神病ということになると、
「その中でも、幻聴、幻覚などをともなう、統合失調症や強迫性障害などの病気」
ということである。
そう考えると、昔は、それほど、
「精神疾患」
という病気を問題にされることはなかったが、その分、
「精神病患者」
というのは多かった。
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