記憶喪失の正体

森本 晃次

第1話 プロローグ

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和6年7月時点のものです。お話の中には、事実に基づいた事件について書いていることもあれば、政治的意見も述べていますが、どちらも、「皆さんの代弁」というつもりで書いております。今回の事件も、「どこかで聞いたような」ということを思われるかも知れませんが、あくまでもフィクションだということをご了承ください。実際にまだ標準で装備されていないものも、されることを予測して書いている場合もあります。そこだけは、「未来のお話」ということになります。


 山奥の麓には、大きな森があり、その奥にはその森に囲まれるかのような、大きな池があった。

 その池は、まわりの森の木がいくら風で揺れようとも、湖畔の波紋は、まるで細かい年利のように、風がほとんど吹いていない。

 吹いたとしても、さざ波がある程度で、そこまでのひどさはなかったのだ。

 湖畔の中央には、まるで西洋の城を思わせるような、大きな洋館が建っていて、ホテルになっているようだ、

 その場所に泊まった人は、

「また行ってみたい」

 といっているようで、口づてて、結構予約も埋まっているという。

 それだけに、宣伝などする必要もない。ホームページは作っているは、それも、予約に必要なことと、予約の際の、

「客の要望などに必要」

 ということで、

「まったく、宣伝とは関係のないところで行っているのであった」

 その場所は、

「池というには小さく、湖というのは大きすぎる」

 中途半端な大きさであるが、それも、まわりを囲んでいる森と一緒に見ると、絶妙な大きさに感じられるのであった。

 その池をじっと見ていると、吸い込まれそうな気がするのは気のせいであろうか。

 池のまわりに見えている森が、たたずんでいる池の場所によって、大きさが変わって感じられる気がする。

 大きさが変わるというのか、森が迫ってくるようで、その圧倒される迫力が、違っているのであった。

 池が迫ってくる感覚を味わいながら、森を模ていると、

「木の高さが、見る場所によって違って見える」

 それだけ、森の迫力は、場所によって違うのだろう。

 というよりも、

「同じ場所でも、時間によって違う」

 ということにも気が付いた、

 それだけ見えている場所が、太陽の角度に作用されるということになるのだろう。

 それを考えると、

「この池にたたずんでいると、時間の感覚を忘れてしまうくらいになってしまう」

 池に吸い込まれそうに感じるのは、その小刻みに流れている波紋が、

「永遠である」

 と感じさせられるからに違いない。

 そういえば、昔子供の頃に見た、童話を思い出した。

「お前が落としたのは、どっちの斧なんだい?」

 と言われ、

「銀の斧」

 を指さしたといわれる、

「金の斧 銀の斧」

 の話である。

 これは、

「奥がない清らかな心の人は得をする」

 という話であれば、まったく正反対で、一蹴回って、同じことを言っているという話として、

「舌切り雀」

 の話があるだろう。

「逆も真なり」

 という言葉もあり、

「裏に回ると、過程は違っても、結果は同じことを言っている」

 ということも少なくない。

「バットエンドとなるか、ハッピーエンドになるかの違いで、教訓等は同じころだ」

 それが、日本でいえば、

「おとぎ話」

 というもので、実際には、類似の話が諸国には点在していて、今言われているもの一つがあったわけではなく、伝承として、似た話が多いのは、そういうことなのだろう。

 ここは、土地としては、かなりの広さがあり、一時期は、

「大きなレジャーランドとして生まれ変わらせれば、かなりの収益が得られる」

 ということで、

「取り壊して、レジャーランドを作る」

 という話があり、都会の土建屋やゼネコンが入ってきたりした。

 しかし、実際には、時期が遅く、計画が具体化しようとしていた時、

「バブル崩壊」

 を迎えたのだ。

「時期が遅い」

 というよりも、

「タイミング的にはよかった」

 というべきであろうか。

「あのまま開発していると、結果、大きな負債を抱えることになった」

 というのが結果論だっただろう。

 バブルの時期は、

「少々もったいない」

 と思われても、長い目で見れば、集客は十分に望めた。

 実際に、

「テーマパークブーム」

 ということであったが、ただ、実際には、

「飽和状態だった」

 ともいえるだろう。

「要するに、繁栄するものは、いずれすたれる」

 という、

「盛者必衰の理」

 といってもいいだろう。

 そういう意味で、

「作っていれば、最大の負債を抱えることになったかも知れない」

 ということで、結局は、何も手が付けられることはなかった。

 実際に問題なのは、湖畔やペンションではなく、まわりの森の中に隠れて、普段はまったく見えないといってもいい、昔からある、

「ほぼ老朽化してしまっている建物」

 というものだった。

 そこができたのはいつだったか、伝承としては、すでに、

「100年以上は経っている」

 ということで、実際には、

「明治年間」

 ということであった。

 かつては、

「細菌研究所だ」

 と言われている。

 研究所の中に、入院施設があり、療養所としての機能があったということであるが、今、洋館が建っているあたりが、その入院施設だったということだ。

「研究室のまわりは、完全に森に囲まれていて、実際に、表からはそこに、研究室があるということを知ったうえで、意識して見ない限り、見えるものではない」

 というよりも、逆に、

「その場所に研究室があるはずだ」

 と、漠然と話しだけを聞いて、その研究室を探そうとして森に入り込んだ人のほとんどは、

「研究室を発見することができなかった」

 という話も伝わっている。

「あそこは、まるで生き物のようだ」

 という人もいた。

「探す時にはなかなか見つからないが、まったく意識していない時に、ふと目の前に現れる時がある」

 という話であったが、このような例は、何もここだけではない。

「まったく必要ではない時に、そのような業種の店をよく見かけるが、必要になって探す時にはなかなか見つからない」

 ということである。

 それこそ、

「おとぎ話のようではないか?」

 ということであった。

「森の中にある研究室」

 というのは、確かに、

「見つかりにくい」

 というところに作られている。

 それも、

「何かのクーデターが起こり、そこを占拠されにくいように考えられている」

 ということであったが、それだけに、

「逃げ道」

 であったり、

「抜け道」

 なども用意されているということだった。

 だから、中には、国家が守らなければいけないという人物たちが、そこで隠れているということもあったようで、

「今の時代では考えられないしかけが、いろいろ張り巡らされていた。

 また、

「この場所で、かつて、軍部のクーデターなどの相談が行われた」

 という話も残っている。

「クーデターというものは、実は結構頻繁に行われていた」

 という、

 成功した例があまりないということと、

「軍による必死の隠蔽」

 というものが功を奏したということからであろう。

「軍というところは、何かが起これば、まず必死に隠蔽を図るもおだ」

 と言われている。

 クーデターが起こったという事実が漏れると、問題が大きくなるということと、

「秘密裡に首謀者を処刑」

 などということも、簡単にはできなくなるからだ。

 そもそも、

「日本軍」

 というのは、独立的なもので、なんといっても、

「天皇直轄」

 ということで、

「政府も口出しができない」

 という集団だったのだ。

 実際に、かの、

「大東亜戦争への突入」

 ということになったのも、一般的には、

「軍部の暴走」

 と言われているが、半分は間違ってはいないが、

「すべての原因が、軍の暴走」

 ということではなかったというのは、歴史を知っていれば、分かるというものだ。

 確かに。軍部の暴走は、無理もないかも知れない。

 特に、満州事件から以降、日本の大陸への進出は、かなりのものだった。

 満州を中心にして、北京への進行などは、中国に対して、それぞれに権益を持っている、

「欧米列強」

 を逆なでするものである、

「上海事変」

 など、中国国内の租借地として、居留している欧米人からすれば、

「迷惑千万」

 どころか、

「生命の危機にまで発展する」

 ということだ。

 当然、欧米列強から不満が噴出し、日本と中国の対立が激化することは望まない。

 結局、

「日本への経済封鎖」

 ということになり、日本は、

「南方の油田地帯を確保しなければ、何もできない」

 というところまで追い込まれることになったのだ。

「中国から撤兵し、大陸の利権を放棄し、満州国も非承認」

 ということを条件に出されてしまうと、

「日本はどうすることもできない」

 ということになるだろう。

 それを考えると、

「国内では、大混乱となる」

 というのは必至で、

「まず、国民が黙っていない」

 それを煽るのが、マスゴミで、

「そもそも、中国から、虐殺という挑発行為を受けたことでの進軍」

 日本国内では、

「中国を許すな」

 ということになり、戦闘は、

「全面戦争の様相を呈してきた」

 ということであった。

 こうなると、軍の士気も高まってくる。

 つまりは、

「欧米列強からの経済制裁などの圧力で、政府は会議を開き、打開策を考えるが、軍とすれば、そうもいかない」

 海軍などは、戦争には慎重派であったが、陸軍とすれば、

「ここまできての撤退はありえない」

 という、

 一つは、

「挑発してきたのは、相手」

 という思い、そして、

「一般市民を中心に虐殺された日本人の無念」

 というもの、さらには、

「今の士気の高さと、相手国への憎悪、さらに、世論の高揚というものを考えると、戦争をしてでも、権益を守らないと先には進まない」

 という、完全な強硬姿勢だったのだ。

 そう、

「時すでに遅し」

 といってもいいだろう。

 そのような時代背景があった。

 確かに、

「米英蘭中」

 に対して、同時に宣戦布告というのは、無謀といってもいいだろう。

 それこそ、

「義和団の乱」

 と言われた、

「北清事変」

 において、清国の当時の国家元首であった

「西太后」

 が、

「当時、居留民保護を名目に、九か国の軍が北京に入ったが、乱に乗じて、なんと、その九か国に対して宣戦布告をする」

 という、

「まるで自殺行為」

 を行ったのである。

 それとは、状況的には少し違っているが、その時すでに、清国が崩壊の道を進んでいたということは分かり切っていたのである。

 そして、歴史的には、

「大日本帝国」

 も結局は、

「無謀な戦争に突き進んだことで、結局国土が焦土となることで敗戦。無条件降伏を飲まざるを得なかった」

 といってもいいだろう。

 元々の開戦からの戦争の方針としては、

「最初の半年か一年くらいで、勝利を重ねていき、どこかで、決定的な勝利を得た時、相手国に対して交渉を持ち掛け、日本にとって、最大の条件での和平に持ち込む」

 という作戦であった。

 実際に、

「これでないと、日本に勝利はない」

 と言われていたし、国力を考えれば、これが精いっぱいだったといってもいいだろう。

 しかし、あくまでも、これは、

「政府と軍の首脳が考えた青写真」

 ということであり、

「最初から不可能なことだ」

 というのを失念していた。

 なんといっても、戦争をするために、国民を煽るだけ煽った。

「日本は、欧米列強の侵略からアジアを開放し、日本が中心になって、新秩序を完成させる」

 という、

「大東亜共栄圏」

 という大義名分があったからだ。

 だから、日本兵は勇敢だったのだ。

 実際に、政府や軍が考えていた、

「初戦での勝利を重ねる」

 ということは実現できていた。

 しかし、問題はここからだった。

 政府が、いくら交渉を考えていても、国民とすれば、

「勝利におごり、まるでお祭り騒ぎのような状態で、平和交渉などありえない」

 ということだ。

 それこそ、

「腰抜け政府」

 と呼ばれ、国民から相手にされなくなり、へたをすれば、

「クーデター」

 が勃発したりして、それこそ、

「内乱の危機」

 ということになり、

「戦争どころではなくなる」

 といっていいだろう。

 せっかく、戦時体制というものを、

「挙国一致」

 で作り上げ、戦争に突入したことで、

「大義名分を成し遂げる」

 と考えられていたのだ。

 ただ、政府も軍も、

「最初から勝ち目はない」

 ということは分かっていた。

 しかし、あくまでも、

「最悪な状態を打開する」

 ということで始めた戦争だったのだが、そもそも、

「中国への進出が問題だったのではないか?」

 ということであるが、

「時はすでに遅かった」

 ということである。

 中国からの挑発を利用して、国民に戦争機運を高めさせ、欧米列強による、挑発も、それとは知らずに乗ってきたことで、さらに、国民や世論が、戦争に傾いていく。

 そう考えると、

「大東亜戦争勃発」

 というのは、

「直接的には、軍や政府によるもの」

 ということであるが、もっとも問題なのは、

「世論に押されて煽りに煽ったマスゴミや国民が悪い」

 という意見もあるだろう。

 一度初めてしまった以上、あとに引くことができなくなってしまった日本は、そこから、

「破滅の道を歩む」

 ということになってしまったのだ。

 実際には、

「戦争に勝つ」

 という目的のために、裏でかなりの暗躍があったことだろう。

「普通の正攻法では勝てない」

 ということでの、情報戦であったり、

「新兵器開発」

 などというのも行われていた。

 そういう意味では、軍も政府も、

「勝ち負けを度返しして、やみくもに戦争に突入した」

 というわけではなかった。

 問題は、

「辞めることの難しさ」

 というものを分かってはいただろうが、

「すでに戦争を始めた時点で、手遅れだった」

 ということにあることだったのだ。

 よく、

「歴史が答えを出してくれる」

 という表現をすることはあるが、果たして、

「歴史の答え」

 というのは、どの時点のことをいうのだろうか?

 そういうことで、日本軍は、日本のあちこちに、

「秘密の兵器研究所」

 というものを作っていた。

 中には、

「軍需工場に扮して、実は研究所を作っているところもあった」

 ということであるが、すぐに、そこは従来の軍需工場に戻った。

 というのは、

「基本的に、攻撃は、軍の施設であったり、軍需工場に対して行われる」

 ということなので、

「最初から攻撃目標にされるだけ」

 ということだった。

 しかし、それでは、破壊されるのを待つだけなので、

「攻撃目標にされることのないところ」

 ということで、

「病院や学校」

 などという、

「病人や子供がいるところ」

 というものをカモフラージュするということで、

「病院などが、そのターゲットになったのだった。

 一見、

「病院かサナトリウムに見え、実際に、入院患者もいる場所であれば、兵器研究をしていても、攻撃されることはない」

 ということ、

 さらには、

「田舎の山の中で、しかも、森におおわれたところで、まわりには何もなければ、攻撃対象となることもない」

 と考えたのだ。

 実際に日本軍の一部では、

「日本にある、まわりを森に囲まれm中央が池になっている」

 といところが、比較的多いということを感じていて、そこを、

「ひそかに、軍の秘密基地」

 ということにしようと考えていた。

 実際の訓練などをその場所で行うわけではなく、秘密基地として利用する中で、

「研究所建設」

 という発想が生まれてきたのだ。

「日本人の技術は最先端を行っている」

 ということは、政府も軍も分かっていた。

 もっとも、これは、

「敵対している国の方が、よくわかっている」

 ということであり、

「日本が絶えず、新兵器を開発している」

 というウワサが絶えず、敵国内に広まっているということだったのだ。

「その兵器がどのようなものか?」

 というところまではハッキリと分かっていなかったが、

「日本国の持てる技術をもってすれば、戦争においても、一矢を報いることができる」

 と思っていた。

 もちろん、

「完全勝利」

 などということは考えていない。

 日露戦争の時のように、いいタイミングで講和に持ち込み、なんといっても、

「あの弱小日本が、欧米列強に対して戦いを挑んで勝利した」

 という事実だけがあればいいのだった。

 それによって、日本は、

「名目だけでも大国の仲間入り」

 ということになり、うまく世界から乗り遅れないことになるのだ。

 そもそも、それまでの日本は、

「対外戦争では負けたことがない」

 という国だった。

「日清、日露、第一次大戦」

 とすべて、

「形の上では、勝ち組に入っている」

 ということであった。

 そんな国だという自負が、国民にもあり、さらに、日本という国の国民性ということで、

「かつての軍人の犠牲の下に、今の地位がある」

 ということを考えていた。

 だから、経済制裁をされた時であっても、

「勝ち目はない」

 ということで、列強の言い分を飲んで、

「大陸からの撤退」

 あるいは、

「満州国や、海外での権益の放棄」

 などというのは、

「ありえない」

 といえるだろう。

「かつての戦争で死んでいった英霊に、申し訳が立たない」

 というのが大きな名分で、要するに、

「一度歩み始めれば、途中で投げ出すということはありえない」

 というのも、日本人という国民性なのかも知れない。

 それを考えると。戦後の日本には、かつての

「秘密研究所」

 などというものがたくさん残っているといってもいいだろう。

 この池のまわりの森にある建物も、完全に秘密研究所だったということだろう。

 今は、老朽化はしていて、建物も何度か建て直されたが、その外観は、昔のままのたたずまいになっていた。

 近代的な建物にしてもよかったのだが、地元の意見としては、

「昔のたたずまいを残してほしい」

 というものであった。

 たたずまいは、昔のサナトリウムの雰囲気であるが基本的には、病院ということになっていて、

「外来もあるにはあるが、基本は入院患者を受け入れる病院」

 ということになっている。

「昔のたたずまいを残し、今も現役の場所として、国内でも珍しいところということだったのだ」


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