第11話
翌日の放課後、俺は約束通り北校舎三階にある『民俗学研究会』の部室の扉を叩いた。いや、正確には叩く前に内側から勢いよく扉が開かれた。
「先輩! お待ちしてました!」
扉の向こうから飛び出してきたのは、昨日と同じ快活なショートヘアが特徴の後輩、一ノ瀬モモエだった。その表情は、昨日までの不安と絶望に満ちたものとは打って変わって希望に満ち溢れている。まるで遠足の日の朝を迎えた小学生のように、その瞳はきらきらと輝いていた。
「さあ、どうぞどうぞ! 今日は先輩が来てくれると思って、昨日よりは少しだけ片付けておいたんです!」
彼女は有無を言わさず俺の腕を掴むと、ぐいぐいと部室の中へと引っぱっていく。その力は、見た目の華奢さからは想像もつかないほど強かった。
確かに、昨日よりは床に散らばっていた本の数が減っている気はする。だが根本的に雑然としていることに変わりはなかった。壁一面に貼られた妖怪の写真も健在だ。
「……ヨシオくん。本当に来たのね」
俺の背後から、氷のように冷たい声がした。振り返るまでもなく、ユキナだ。彼女は俺のすぐ後ろに仁王立ちしたまま腕を組み、心底不愉快だという表情でモモエを睨みつけている。もちろんモモエにはその姿は見えていない。
「約束だからな」と俺は、誰に言うでもなく呟いた。
「ふん。その女との約束なんて、犬にでも食わせてしまえばいいのよ」
ユキナは吐き捨てるようにそう言うと、ずかずかと部室の中に入り一番上座にある椅子に、まるで女王様のようにふんぞり返って座った。その姿は、他の人間には見えないのが幸いだった。もし見えていたら、今この場の真の支配者は誰なのか一目瞭然だっただろう。
「それで、何か分かったのか? 昨日の後、何か思い出したことは?」
俺はユキナの存在を意識の外に追いやりながら、モモエに向き直って尋ねた。彼女は俺の向かいの椅子にちょこんと座ると、ぶんぶんと勢いよく首を横に振った。
「それが、ダメなんです……。儀式のことを思い出そうとすると、頭が真っ白になっちゃって……。あの、鏡の中にいたもう一人の私の笑い顔が浮かんできて、それ以上何も考えられなくなるんです」
その顔には再び恐怖の色が浮かんでいた。よほど強烈なトラウマになっているのだろう。無理に思い出させようとするのは、得策ではなさそうだ。
「そうか……」
「はい……。私、誰かと繋がりたい一心で、あの儀式に手を出してしまって……。まさかこんなことになるなんて……」
彼女は、うつむいたまま弱々しく言った。その姿は、庇護欲をそそるか弱い小動物のようだった。
だが俺の隣の神様は、そんな感傷など微塵も持ち合わせていない。
「あらあら、殊勝なことを言っているわね。でもそれって全部自分のせいじゃない。孤独に耐えられないからって、安易に怪異に助けを求めるなんて愚の骨頂よ。ねえ、ヨシオくんもそう思うでしょう?」
ユキナは俺の耳元で、わざとらしく大きな声で囁いた。もちろんその声はモモエには届かない。彼女は、俺が急に黙り込んだのを不思議そうに見ているだけだ。
『……少し、黙ってろ』
俺は内心でユキナを諌めた。
モモエが追いつめられているのは事実だ。ここで俺まで彼女を責めても、何の意味もない。
「とにかく、無理に思い出す必要はない。何か、物的な手がかりを探す方が早いだろう」
「物的な、手がかり……ですか?」
「ああ。儀式に使った道具とか、そういうのだ。昨日の本には合わせ鏡以外に必要なものは書かれてなかったが、あんたは何か使わなかったか? 例えば蝋燭とか、お香とか」
俺がそう尋ねると、モモエはうーん、としばらく考え込んだ。
「蝋燭……。言われてみれば、使ったような気もします。美術室の隅にあった写生用のやつを何本か……。でもそれ以外は……」
「何か自分個人のものを、儀式の場に持ち込んだりはしなかったか? 例えばお守りとか、アクセサリーとか。そういうものは怪異との繋がりを強くする触媒になりやすい」
俺がそう言うと、ユキナがほう、と感心したような声を上げた。
「へえ、ヨシオくん、意外と詳しいのね。まるで専門家みたいじゃない」
『お前とずっと一緒にいるからな。嫌でも知識はつく』
「あら、嬉しいことを言ってくれるじゃない。それってつまり、私との愛の歴史があなたを成長させたってことかしら?」
『そういうわけじゃない』
俺はユキナのいつものおふざけを適当にあしらいながら、モモエの返事を待った。
彼女は必死に記憶の糸をたぐり寄せようとしているようだったが、やはり恐怖が邪魔をするのか、その表情は苦痛に歪んでいる。
「すみません……。やっぱり、よく思い出せなくて……」
「そうか……」
行き詰まってしまった。
彼女の記憶が戻らない限り、これ以上の手がかりは得られないかもしれない。
俺がどうしたものかと腕を組んだ、その時だった。
「――願いの器は、未だその場に残されているわ」
不意に、凛とした声が部室に響いた。
ユキナの声だ。
だがその声色は、いつもの彼女とは少し違っていた。そこには神としての、有無を言わさぬ響きがあった。まるで神託を告げる巫女のようだ。
「え……?」
モモエが驚いたように顔を上げた。彼女にはもちろんユキナの声は聞こえていない。だがその声が発せられた瞬間に部屋の空気が変わったのを、肌で感じ取ったのだろう。
「い、今の声……なんですか……?」
「何の音かしら。気のせいじゃない?」
ユキナはしれっとした顔で、自分の発言を誤魔化した。
そして俺にだけ聞こえるように、こっそりと囁きかけてくる。
「……いい、ヨシオくん。これはあの小娘のためじゃないわ。あなたのために私が特別に授けてあげるヒントよ。ありがたく受け取りなさい」
どうやら俺が手詰まりになっているのを見かねて、助け舟を出してくれたらしい。そのくせ素直じゃない物言いをするのが、いかにも彼女らしかった。
『願いの器、か……』
俺はユキナが口にした神託めいた言葉を、頭の中で反芻した。
願いの器。モモエの願いは、『誰かと繋がりたい』というものだった。その願いを込めた器が、儀式の場所に残されている、と。
「先輩? どうかしましたか?」
俺が何もない空間に向かって考え込んでいるので、モモエが不思議そうに尋ねてきた。
「……いや。少し、考えをまとめてるだけだ」
俺はそう言うと、立ち上がって壁に貼られた学校の見取り図の前に立った。
広大な校舎。南校舎、北校舎、体育館、そしてそれらを繋ぐ渡り廊下。
この中のどこかにモモエが儀式を行った場所があり、そしてそこに『願いの器』が残されている。
「儀式を行ったのは、美術室だったな?」
「は、はい。確か、一番大きな第一美術室だったと思います」
「よし。まずはそこへ行ってみよう。何か残っているかもしれない」
俺がそう言うと、モモエは「はい!」と元気よく返事をした。
こうして俺たちは、ユキナの曖昧な神託だけを頼りに、広大な校舎の中を探索し始めることになったのだった。
◇
第一美術室は北校舎の二階、俺たちが昨日訪れた音楽室のちょうど真下に位置していた。
放課後のこの時間、美術部の生徒が活動しているかと思ったが、扉には鍵がかかっており中はしんと静まり返っている。どうやら今日は活動がないらしい。
「鍵、かかってますね……」
モモエが残念そうに言った。
「どうしますか? 先生に言って、開けてもらいますか?」
「いや、やめておこう。深夜に忍び込んだことがバレたら、面倒なことになる」
俺はそう言うと、扉の横にある小さなガラス窓をのぞき込んだ。
中は薄暗く、よく見えない。イーゼルや石膏像のシルエットが、ぼんやりと浮かんでいるだけだ。
「……ヨシオくん。そんなところから見ていても、何も見えやしないわよ」
ユキナが呆れたように言った。
そして俺の肩をぽんと叩くと、まるでそこに壁などないかのように、すり抜けて美術室の中へと入っていった。
「ちょっと中の様子を見てきてあげる。ここで大人しく待っていなさい」
便利なやつめ。
俺は内心で悪態をつきながら、ユキナが戻ってくるのを待った。
数秒後、彼女は再び壁をすり抜けて、俺たちの前に姿を現した。
「どうだった?」
「特に変わったものはなかったわね。机や椅子が少し乱雑に置かれているくらい。儀式の痕跡らしきものも見当たらないわ。綺麗に片付けられているみたい」
「そうか……」
がっかりだ。
もしここに何か痕跡が残っていれば、と思ったのだが。
「でも」
ユキナは思わせぶりに言葉を切った。
「一つだけ、気になることがあったわ」
「気になること?」
「ええ。部屋の隅に大きな姿見が二枚、布をかけられて置かれていたの。それだけが妙に、場違いな感じがしたわね」
姿見。
モモエが言っていた、儀式に使ったという合わせ鏡。
間違いない。儀式が行われたのは、やはりこの美術室だ。
だが痕跡は片付けられている。これでは何も手がかりは得られない。
「どうしますか、先輩……?」
モモエが不安そうな顔で俺を見上げた。
俺がどうしたものかと腕を組んだ、その時だった。
「――己が姿を映す場所に、答えはある」
再び、ユキナの神託が響いた。
今度はモモエも、はっきりとその声を聞き取ったようだった。
「い、今の声……! また聞こえました! やっぱりこの学校、何かいますよ!」
彼女は怯えながらも、どこか嬉しそうにきょろきょろと周りを見回している。その姿は、恐怖と好奇心がないまぜになった複雑な感情を映し出していた。
「気のせいだって、言ってるだろ」
俺は適当にそう言って誤魔化しながら、ユキナの言葉の意味を考えた。
己が姿を映す場所。
それはつまり、鏡のことだろう。
だが美術室の鏡には、何もなかった。
だとしたら、他に鏡がある場所……?
学校の中で、大きな鏡がある場所。
トイレ、更衣室、あるいはダンス部が使っている多目的ホールか。
「……ヨシオくん。考えすぎよ」
俺がうんうん唸っていると、ユキナが呆れたように言った。
「もっと、単純なことじゃないかしら。あの子が毎日自分の姿を見ていた場所。そして一番、無防備になる場所」
「毎日、自分の姿を見る場所……?」
俺はユキナの言葉を反芻した。
そして、はっとある場所に思い至った。
「……昇降口だ」
そうだ。昇降口には身だしなみをチェックするための、大きな姿見が設置されている。
生徒なら誰もが、登下校の際に一度はそこを通り過ぎるはずだ。
「行ってみよう」
俺はモモエを促すと、急いで階段を駆け下りた。
ユキナの神託は相変わらず曖昧で腹立たしい。
だがそのおかげで、少しずつ進むべき道が見えてきたような気がした。
◇
一階の昇降口はもうほとんどの生徒が帰宅した後で、閑散としていた。
西日が、下駄箱が並ぶ空間をオレンジ色に染め上げている。
俺たちはその一角に設置された、大きな姿見の前に立った。
縦二メートル、横一メートルほどの、どこにでもあるありふれた鏡。
鏡は、俺と俺の隣に立つモモエの姿を忠実に映し出していた。もちろんユキナの姿は、そこにはない。
「ここ、ですか……?」
モモエが不思議そうに尋ねてきた。
「ここに、何かあるんでしょうか?」
「さあな。だが何かあるとすれば、ここしか考えられない」
俺はそう言うと、鏡の表面をじっと見つめた。
特に、変わったところはない。
指紋や埃が少し付いているくらいだ。
「……ヨシオくん。もっとよく見てみなさい。物の表面だけじゃなくて、その奥に何が残っているのかを」
ユキナが俺の耳元で囁いた。
奥……?
俺は言われた通り鏡の、さらに奥を、意識を集中させて見つめた。
するとどうだろう。
鏡に映る俺たちの姿の、さらに向こう側。
まるで薄い膜が一枚かかっているかのように、景色がわずかに揺らいで見えた。
そしてその揺らぎの中に、何か小さな黒い染みのようなものがいくつも浮かんでいるのが見えた。
『……なんだ、あれは』
「残留思念、とでも言うべきかしらね。この鏡を使った人間たちの、様々な感情の残りカスよ。普段は誰の目にも見えないけれど、あなたのように波長の合う人間には、こうして見えることがある」
感情の、残りカス。
言われてみれば、その黒い染みは一つ一つ違う形をしているように見えた。
楽しそうな、笑い顔のような形。
怒りに、顔を歪めたような形。
そして、悲しみに打ちひしがれているような形。
その無数の染みの中に、一つだけひときわ大きく、そして濃い黒色の染みが、鏡の右下の隅にこびりつくようにして存在していた。
「あの子の、ね」
ユキナが静かに言った。
「あの子が儀式を行った後、自分の姿が誰にも見えなくなったことに絶望して、この鏡の前で泣いていたのよ。その時の強い負の感情が、ここに染みついてしまった」
俺は、その黒い染みをじっと見つめた。
それはまるで、鏡の表面に開いた小さな穴のようだった。
その奥に、底なしの暗い闇が広がっているかのようだ。
「先輩……? 何か、見えるんですか?」
俺が鏡を食い入るように見つめているので、モモエが不安そうに尋ねてきた。
彼女には、この染みは見えていないらしい。
「ああ……。少し、な」
俺はそう言うと、意を決してその黒い染みに、そっと指先で触れてみた。
ひやりとした、ガラスの感触。
だがそれだけではなかった。
指先から、何か冷たくて重いものが、じわりと体の中に流れ込んでくるような不快な感覚。
そして頭の中に、直接声が響いた。
――どうして、誰も、私に、気づいてくれないの?
それはモモエの声ではなかった。
もっと低く、怨嗟に満ちた知らない誰かの声。
鏡の向こう側から、俺を呼んでいるあの『友』の声だ。
「うわっ!」
俺は思わず、鏡から手を引いた。
全身に鳥肌が立っている。
「だから言ったじゃない。下手に触るなって」
ユキナが呆れたように言った。
「先輩!? 大丈夫ですか!?」
モモエが心配そうに、俺の顔をのぞき込んでくる。
「……ああ、大丈夫だ」
俺は荒い息を整えながら答えた。
間違いない。
この鏡はただの鏡じゃない。
モモエの儀式と、その後の絶望によってあちら側の世界と薄い皮一枚で繋がってしまっている。
そしてその繋がりを、より強固にしているのがこの黒い染みだ。
「……これを、どうにかしないといけないのか」
「そうね。この染みを綺麗に拭き取ってあげれば、あちら側との繋がりも少しは弱まるかもしれないわ」
ユキナがこともなげに言った。
「拭き取るって……。どうやって」
「さあ? 物理的に、布でこするとか?」
「それで、消えるのか?」
「やってみなければ分からないわ。でも、ただの布じゃダメでしょうね。何か清める力を持ったものでないと」
清める力。
例えば、神社の御神水とか、そういうものか。
そんなもの、どこで手に入れれば……。
俺が考え込んでいると、隣で話を聞いていたモモエがぱん、と手を叩いた。
「それなら私に、いい考えがあります!」
彼女は自信満々にそう言った。
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